『COMPANY's Pawn』短編・番外編

私の恋人のソラは、社畜だ。ヒラの私と違ってかなり忙しい身分なのも、仕事に対して責任を放棄出来ないのも分かる。分かる。けれど。
デート中くらい。社用携帯をオフに出来ないのか、とか。上司からのメッセージに常に秒で返信しないといけないのか、とか。色々と小さな不満が積もっている。そして、ついに今日。ソラはやらかした。2ヶ月ぶりのデートだというのに。彼はこんな朝早くにメッセージを寄越してきた。「急な仕事が入ったから、今日の予定を全てキャンセルさせて欲しい」と。やらかしやがった。遂に、やりやがった。仕事を理由にした、ドタキャンだ。どう返事をしようか迷っていると「埋め合わせは、必ずする。すまない」という短い文が届いた。スタンプをひとつ、ふたつと打つ。既読は付いたけれど、返事らしいものは無かった。
結局、私はその日。溜めていた映画を消化することで、ひとり、虚無に過ごしたのだった。

ソラからの連絡は無いままに、月曜日、火曜日が過ぎ去って。水曜日。搬入口へと雑務を片付けに行くために廊下を歩いていた私は、前方から来る人影に気が付いた。誰か、なんて。グレーのスーツに身を纏うのは、紛れもなくソラだ。
…でも、私がソラと恋人になるうえで、彼からひとつ、条件を言い渡されている。それが、「会社では恋仲であることを、誰にも悟られないこと」である。別に弊社が社内恋愛禁止という訳ではない。むしろ社長の前岩田氏は自由な気風のお方だ。
仕事に対して、ソラがおカタイ思考能力を持っているのは、別に今に始まったことでもない。むしろ、その高潔な責任感が眩しいとすら思っていた。…でも今は、恨めしい。だからかもしれない。私はソラの行く手を阻むかのように、立ってみた。当然、ソラの足は止まり、こちらに視線が向く。冷たい眼は、言葉もなく、しかし雄弁に語っていた。「今は仕事中だ」と。分かっている。だけど。私はソラの前を退かなかった。彼が少し困ったようにするのが感じ取れる。私は、ふたりにしか聞こえない、とはいえ、元々私たち以外は誰もいないこの廊下で、小さく声に出して言った。

「埋め合わせ、してよ」

そう呟いて、ソラの唇に己の指先を這わした。キスを強請る合図。私はズルい女だ。ソラがデートをドタキャンしたことに罪悪感を持っていることを知っていて、そこにつけ込んでいる。普段のソラなら、私が社内でキスを強請ることなんて許さない。でも今は、ドタキャンとその後の連絡を入れてないことへの後ろめたさがあるから。普通の時より、強気でいられない。ソラだって人間だから…。

「…。キスしてくれないと、許してあげない」

ほら、また。ズルい台詞が、私の口から零れる。ソラがいよいよ困惑しているのが分かった。
意地悪するのも、この辺にしておこうかな…。本心はやっぱり「ソラに嫌われたくない」に尽きるから。それに何だかんだと、ソラはキスしてくれないと思う。ここは、会社だから。ソラは、社畜だから。仕事の邪魔は、彼は何よりも嫌うから。
そう思って、身体を退こうとした。ときだった。
白手袋の指先が、私の顎を掬い上げて。キス。ちゅる、と吸い上げて、唇は離れていった。
ソラが左手の親指で口元を拭えば、そっちに移った私のグロスが付着したのが見える。
そのまま何も言わず、ソラは私の脇を通り過ぎて、廊下の向こうへと去って行った。それを見送ることはせず、私は搬入口方面へと歩く。
すると。急に目の前に、見知らぬ男たちが現れて、私の行く手を阻んできた。どなたですか?と、問う前に、私の顔面に何かが噴霧されて…―――、
―――そこで私の意識は、ブラックアウトした。
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