『極寒の果てで』小説

せっかくの夕食は、砂を噛んでいるような味がした。お気に入りのボディソープやオイルの香りは、いつもの癒しを与えてくれなかった。
昼間。ソラに突き放されて、意気消沈入れした花嫁に、持ち前の陽だまりのような笑顔は一切無く。雨模様の曇天の心を抱えたまま、自室のソファーでぼんやりと座っていた。従者が淹れてくれたハーブティーは、手をつけられることなく、今はもうすっかり冷めてしまっている。彼女の脳裏に浮かぶのは、ソラのことばかり。
冷たい眼も、声も、性格も。全部、知っている。この国に来たばかりの自分にも、その一端が向けられていた。しかし、今は違う…はずだった。
冷たさの中にも、人間味のある暖かい優しさが滲む。視線も、声色も。満開とは言えないが、ソラの笑顔だって見たことがあった。ソラの優しさに触れるのは、まるで太陽に干されたベッドシーツと布団にくるまれたときのような、安心感に溢れる気持ちを感じる。
そこまで考えて。花嫁は、無性にソラの腕の中が恋しくなった。体温そのものこそ低いが。あの腕に包まれると、柔い温もりを感じ取れるのだ。家族や友達からハグされるときには感じえない。ソラに抱き締められないと味わえない、温度。…恋しい。
すっかり冷めきったハーブティーを、一気に飲み下して。よしっ!と花嫁は、立ち上がった。

ソラの寝室の扉をノックすると、「入れ」と短い答えが返ってきた。一瞬だけ怯んだ後、花嫁はすぐに息を吸い直して、ドアノブを回す。入室すると、書斎机に座っているソラがいた。…眼鏡をかけている…。しかも風呂上がりなのか、右目の包帯もなく、装いも私服だ。普段では見ることができないであろう姿に、花嫁は思わず硬直した。ギャップに見惚れているという言葉に差し替えてもいい。すると。書面から顔も上げもせず、ソラが口を開く。

「今、目を通している書類が最後だ。サインしたら、広報部に持って行ってくれ」
「え…?」
「ん…?」

ソラは誰か別人と話をしているつもりらしい。間抜けた声をあげた花嫁につられて、ソラも同じようなことを発する。そして、書面から視線を上げてから、ハーフリムのフレームを左手で抜き去った。その眼は雄弁に問う。「何故、お前がここにいる?」と。

「あ、あの…!仲直り…しませ、ん、か…?」
「…。」

花嫁は自分で言っていて、少しだけ。己から疑念をかけておいて、どの口が「仲直りしよう」などと言えるものか、と。案の定、ソラは黙ってしまった。…と思えたが、彼は椅子から立つと、足音ひとつ立てずに花嫁の方へと歩いてきて。口を開いた。

「自分を突き放した男に、未だ縋れるのか?」

鋭利な刃物のような言葉が、花嫁の胸の抉る。しかし彼女は、ソラの冷たい眼を見つめ返しながら、毅然と己の主張を出し始めた。

「私は、ソラ様に縋っているのではありません。愛しているのです」
「その愛が一方通行だとしても?」
「疑念は晴れると信じています」
「天秤は、決して片方だけに傾いてはいけない」
「愛を量るものは、決して天秤だけではありません」

尽きない応酬の合間にも、花嫁は冷静にソラを観察していた。彼の眼は冷たい。だが、揺らいでいる。感情の波間が、見える。現に、普段は寡黙なソラの口数が多い。何か、動揺している証拠だ。最高裁判長の妻になるべき花嫁たる女は、どこまでも聡い。

「ソラ様、私の言動があなた様を不安にさせてしまったこと、深くお詫び申し上げます」
「…、」

一瞬だけ。ほんの刹那。ソラの視線が揺れた。真摯に見つめていなければ、きっと見逃していた。どうやら『不安になっている』のが図星らしい。
花嫁は、胸が、きゅ、となった気がした。ソラを不安にさせてしまっている事実が、ひどく悲しい。でも同時に、自分のことで感情を揺さぶられている彼の姿が、とても愛おしい。と。
気が付いたら、花嫁はソラの顔に手を伸ばしていた。生まれたときと違う色になってしまっている、右目。そこに縦に入った傷が、どういった経緯のものかは知らないが。この右目にはゴッカン王としての重い責務が、秘術として封じられている。古傷を、そっと撫でた。突然のことにソラは珍しく驚いた様子だったが。すぐにされるがままになる。ソラの瞳に浮かんでいた不安が、安堵に変わりかけていた。しかし。
古傷を撫でていた花嫁の手を、ソラの手が掴んだ。掴むといえど、余計なチカラは入っておらず、むしろ壊れ物を扱うかのような優しささえある。でも。 

「…また私は、ソラ様を不安にさせてしまいましたか?」

花嫁が問うと、ソラは小さくかぶりを振った。掴んだままの花嫁の手の肌を撫でるかのように、指先を滑らせて。そのまま、自分のそれと絡める。しかし、ソラの揺れ動く瞳を見つめていると。絡めているのは指先同士でも、ソラが寄越しているのは指の温度ではなく、彼が抱えている不安そのものである気がした。

「俺を案じるお前の言葉を、心から信じたい…」

ソラがぽつりと零す。花嫁が黙って聞いていると、ソラはぽつぽつと言葉を紡ぎ始めた。

「俺の浮気なんてありえないのに。お前が他の男にそそのかされた素振りを見せたのが、気に食わなくて」
「ええ」
「お前は気が動転して、冷静な判断が下せる状態じゃないことも、全部把握していたのに」
「本当に」
「試すような真似までして…」
「仕方がないことです」

告解しながら、ソラは花嫁の手を引き、抱き締める。ぎゅう、と力強い腕の中に閉じ込められた花嫁は、求めていたものに手が届いた幸せに、うっとりとする。耳元でソラの震える声がした。

「…、…縋りたいのは、紛れもなく、俺の方だ。
 突き放しておきながら、骨の髄まで分からされた。…こんなにも、愛していると」
「ソラ様…、私、嬉しいです」
「…情けないな、俺は…。一国の王だと言うのに…」
「王様でも最高裁判長でもある前に…、ソラ様はひとりの人間です。…私は、あなたの肩書きではなく、あなた自身を愛していま、ん、…」

花嫁の台詞は、ソラのキスによって、最後まで聞こえない。それでもいい。言いたいことは分かっている。
一度キスを止めたソラが、軽々と花嫁を抱き上げた。そのまま何を言わせる隙も与えず、ベッドにシーツに彼女の身体を横たえて、自分がその上に覆いかぶさる。

「…帰したくない」
「…では、途中で帰る気になれないくらい…、…夢中にさせてくれますか…?」
「どうすればいい?どうしてやれば、お前は俺から離れない…?」
「じゃあ、まずは…、キスが欲しいです…、…ッ」

ねだるや否や。唇が食まれる。甘いキスが、花嫁の身体の芯を痺れさせて、目の前にいるソラのことしか考えなくさせる。


――…ソラの寝室の、扉の前。聞き耳を立てていた側近は、ソラが目を通していた最後の書類を回収しにきたのだが。やはりもう今夜は無理かと悟る。

「広報部に持っていく書類だったのですが…」

仕方ないですね、と独り言ちた。

ソラの寝室の書斎机に投げ出された、本日最後の書類。その内容は。
『ゴッカン王の結婚を、各国王室に正式に発表する許可証』であった。

でも今夜だけ。早すぎる初夜に先駆けて、ふたりきりにしてあげよう。
きっともう。未来のゴッカン王夫婦は、お互いのことしか見えていないのだから…―――。
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