『極寒の果てで』小説
前線の兵士たちが、後方からの援軍の報せを耳にしたのは、異形たちとの斬り合いに果てが無いことを知り始めたときであった。避けられない消耗戦を覚悟していた矢先だったが故、援軍は有難い。と思いつつ、陣形を保ちながら、背後を確認すると。
そこにいたのは、数人の盾兵と剣兵、そして、リィンを従えたのみの陛下が、こちらに向かって歩いてきている。だけ。…それだけ、なのに。
何故か、兵士たちは黙って道を開けていく。皆が静かに、陛下の歩く道を、作っていく。
自我が無いはずの異形たちでさえ、陛下の纏う得も言われぬオーラに圧倒されたのか、じり…、と動きを止めた。
対して、陛下は自然と、しかし、不自然に。大地を踏みしめながら、遂に最前線まで歩いてきて。呆然とする兵士たちに向かって、口を開いた。
「全員、一旦、下がれ。
俺の一撃に巻き込まれると、――――…死ぬぞ」
陛下がそう告げた瞬間。何とも表現が出来ない寒気と、そして、妙な安心感が、兵士たちの背筋を駆け上る。このひとを味方にすると、こんなにも心強いのか。と、皆は改めて思い知る。だが、同時に、巻き込まれると死ぬかもしれないと言ってしまうような、修羅の如き戦いが繰り広げられるのか?、という一縷の恐怖心。
難解で複雑な胸中を抱えた兵士たちは、命令通り、陛下の後ろに下がって、防御態勢を取った。
陛下がオージャカリバーを左手に構え、紫色の羽根を弾く。
――『Pop It On!』
長らく触っていなかったかもしれない王剣を、陛下は何の迷いもなく、操作していった。赤、青、黄、黒、と順番に爪弾けば、鳴り響くは、王の凱旋を告げる曲。
「罪を前に、罰を怯まず。―――王鎧武装」
――『You are the KING! You are the, You are the KING!』
――『パピヨンオージャー!』
琥珀色の石が割れて、中から王の鎧を纏った陛下が顕現する。
自我は無いはずの異形たちは、何故か、後退りを始めた。が、その一歩ずつを、逃しはしないとばかりに、溶けかけた雪と氷に覆われた地を踏みしめながら、陛下は確実に詰めていく。
「もう何処の何者かも知れぬ貴様らが、二度とゴッカンに足を踏み入れることは許さん。
―――これは、王の決定だ。それでも、下がらないというならば…」
すぅ…、と陛下が息を吸う。それと同時に震える、場の空気。―――…何かが、来る。何かが、陛下の持つ刃へ、収束している。
ズォォオ…!!、と微かでありながらも、確かな耳鳴り、地鳴り、が聞こえたかと思えば。
「最早、貴様らには跪く間も与えぬ!
粛刑、執行ッッ!!」
陛下がそう吼えたと同時に。オージャカリバーを大きく横薙ぎに振った。途端、刃から飛び出す冷気の衝撃波。いつも飛ばしているツララのような規模ではない。比べ物にならない。
アフターバーナーよろしく吹き荒れた風に、思わず伏せた顔を上げた兵士たちが、次に見た景色は、余波で凍り付いた大地と、そこから生えたであろう小さなツララの群れしかなく。最早、異形の姿は、影も形も無い。なにひとつ、残っていない。前面に展開していた異形の精鋭軍団は、一掃されてしまっていた。たった一撃で、陛下が薙ぎ払ったのだ。
跪いて許しを乞うことは許さず。悲鳴を上げる間も与えず。一木一草、ことごとく。―――陛下は敵の全てを、氷塵を化した。
パピヨンオージャーの鎧が解ける。王の背中は何も語ろうとしない。降ろしたオージャカリバーの切っ先も、見ようともしない。しかし、氷の焦土と化した前方へ、陛下は踏み出す。一歩一歩、ゆっくりと足を進めたかと思えば、おもむろにしゃがみこんだ。黒革の指先が、氷の隙間から僅かに覗いた、緑色に触れる。
野花の芽だ。連日の晴れ間に誘われて、顔を出してきたのあろう。異形たちに踏み潰されることを免れたらしい。そして、僅かに陛下の放った冷気に萎れることも、また避けられたのか。
「晴れ間も、もう終わる。お前がどんな色の花を咲かせるのかを、この目で見たかった」
そう零した陛下の台詞は、微かな悲愴を漂わせていた。2週間も続いたゴッカンの晴れ間は、もうすぐ終わりを迎えて。翌々日頃には、またいつもの冷たい吹雪が戻ってくるという予報が出ている。せっかくの若芽は、きっと枯れてしまうだろう、と。しかし。
「それでは、連れて帰ってあげましょう」
鈴の音のような声がした。陛下が振り向くと、そこにいたのはリィン。そして、ふたりの盾兵。
「お任せください、陛下。自分は兵士一筋の道だったもので、花の世話はしたことないですけれど…、ほら、皆で調べて、助け合えば、きっと」
「そうです!きっとその花も、自分の色を陛下に見せてくださいますよ!」
盾兵ふたりはそう言いながら、笑った。リィンも微笑む。すると、その後ろから。あとに控えていた兵士たち全員が、進んできたのが見えた。
指揮権を持っている隊長が、兜を脱ぎ、剣を腰から抜いて。その両方を地面に置くと同時に、跪く。そして、後に続く者たちも、全員が同じことをした。花の保護をしようとした盾兵ふたりも、慌てて、それに倣う。リィンも、その場に傅いた。
陛下以外の皆が、彼に向かって伏せるなか。隊長が口を開く。
「陛下。此度の勇戦、お見事にございました。陛下のおちからなくしては、自軍に多大な被害が出ていたことでしょう。誠に、ありがとうございます。
そして…、今までの非礼の全てを、お詫び申し上げます。どうぞ、陛下のお心のままに、愚かな我々に然るべき処遇を…」
隊長がそう言うと同時に、彼を含むその場にいた全ての兵士たちが一斉に「陛下!」、「陛下!申し訳ございませんでした!」、「どうか処罰を!」、「陛下…!陛下ぁ…!」、とそれぞれの思いを吐露するかのような言葉の欠片を、口々に零していく。
すると。陛下が一歩、前に出てきた。持っていたオージャカリバーを一度だけ見ると、その視線を、眼前の兵士たちに戻す。陛下の靴底が地面を擦る音がした。誰もが陛下からの処罰を待っていた。のに。
「へ、陛下ッ?!」
隊長が驚愕の声を上げた。驚き、瞠目する彼の視線の先にあったのは。
――――兵士たち同様に、オージャカリバーを地面の置いて、跪く陛下の姿だった。兵士たちの間にどよめきが広がる。
「陛下!おやめください!王である貴方が、頭を下げるなど―――」
「―――お控えなさいッッ!!」
「―――??!!?」
隊長が動揺しながら陛下のもとへ駆け寄ろうとした矢先。響いた鋭い怒号。―――リィンだ。美しい顔に怒気を滾らせ、立ち上がりかけた隊長に向かって、口を開く。
「今は、私たちが陛下のお言葉を待つ番です!王の言葉を遮るなど、隊長たるものがあってはなりません!」
「も、申し訳ございませんでした…!
へ、陛下…、どうぞ、我々にお言葉を…」
リィンの𠮟りつけに萎縮しつつも、隊長は姿勢を戻して、改めて陛下に首を垂れる。
陛下の静かな声が響き始めた。
「俺は、今まで、独りで戦っている気になっていた。俺が倒れれば、国が倒れる。国が倒れれば、民が倒れる。
だが、違う。忠義の在り方に問題があったにせよ、情けない俺がいるこのゴッカンの兵力であり続けてくれたお前たちに、俺は感謝しなければならない。謎の異形たちに侵略されているなか、他の民たちに被害が出なかったのは、間違いなく、お前たちのおかげだ。…ありがとう。
それと同時に、―――心を閉ざす原因があったにせよ、……拒絶し続けて、…壁を作り続けて、…歩み寄ろうとしないで。…そうして、勝手に孤独になってしまった結果、1年後に玉座を退くという不始末を招いてしまって…、本当に、本当に、…申し訳ない」
陛下の言葉に、兵士たちの間から、すすり泣く声が聞こえる。隊長が顔を上げると、陛下と視線が交叉した。陛下が、続ける。
「もう遅いと分かっているのは…、俺とて同じだ。…それでも、縋ってみたい…、希望があるなら、願ってみたい…と。
俺は…、……『そちら』と、歩み寄ることは…、まだ許されるか…?」
そう言った瞬間。陛下の右目から、涙が一筋、流れた。晴れ間とて控えめな日差しに煌めく、流れ星のような、涙。
「…!陛下…!ああ、陛下…!!」
隊長が地を這うようにして陛下に近付き、自身もまた両目から涙を流しながら、口を開く。
「お手を、陛下のお手に、触れさせてくださいませ…!何卒、何卒…!」
その言葉を聞いたとき。陛下の顔から僅かな狼狽が見えた。手に触れるのは構わない。しかし、この黒革の手袋の下にあるのは、きっと―――…。否。最早、そこを考えるのは止めにする。と、思い直し、陛下は手袋を脱いだ。そこから出てきたのは、掌から手の甲、そして手首にかけて、薄らと霜のような氷が貼り付いている、肌。
隊長はその手を大切な玉を扱うかのように、優しく、柔く、己の両手で包み込んだ。
「…俺の手は…、冷たいだろうに…」
「冷えているのならば、温め合えば良いのです、陛下。我々人間には、人肌、がありますゆえ」
隊長がそう言うと。跪いていた陛下のからだ全体を包み込む、優しい温度を感じた。左右に盾兵がひとりずつ、そして背中にはリィンが。それぞれの腕を目一杯に回して、陛下の全身を抱き締める。
「え゛い゛か゛ぁ゛ぁ゛!!し゛ふ゛ん゛も゛う゛え゛い゛か゛を゛ひ゛と゛り゛に゛し゛ま゛せ゛ん゛か゛ら゛あ゛あ゛あ゛!!!」
「皆で一緒にッ…お花…育てましょう…ッ、ずびっ…、陛下、陛下…!」
盾兵ふたりが泣きながら、それぞれの思いを零す。そして背中越しに、鈴の音のような声が聞こえてきた。
「ずっとお傍におりますからね。もう何も怖くないですよ、陛下」
リィンがそう柔らかく告げると。
右目からしか流れていなかった涙が、みるみるうちに両目に溢れてきて。そして、大粒の雫となり、ぽろぽろぽろぽろ、と滴り落ちる。氷と化した大地に、ひとりの人間の温かい涙が落ちて、その凍り付いた表面を僅かに溶かしていく。
「…ぅッ、ひぐ、…ッ!、…うえぇ…ッ!」
堪えようとしても。我慢しようとしても。全然、抑えきれる気がしない。自分の心を抑圧して押し殺すことは、あんなにも容易だったのに。此処で溢れてくる涙は、全然、コントロールが出来ない。
―――…でも、それでいい。それが、いい。一国の王であっても、最高裁判長であっても。紛れもなく陛下は、ひとりの人間なのだから。
間も無く、うわぁぁぁあああん!!!と、堰を切ったかのように泣きだした陛下を見た瞬間。手を握っていた隊長は、真正面から陛下を抱き締めて。左右・背中で彼を温めていた盾兵ふたりとリィンも、同じく声を上げて泣き始めた。あとに控えていた兵士全員も、その光景と、陛下の心情に、とめどなく涙を流している。
その場にいた皆が、わんわん、と泣くなか。
ザイバーン城に連れ帰って貰えることが決まっている野花の若芽が。束の間の晴れ空の日差しを受けて、その緑色に僅かに湛えた露を、きらり、と光らせたのだった。
【4ヶ月後】
六王国会議を以てしても、陛下の退位は覆らなかった。というより、覆すことを、陛下本人が拒否した。それに対して、他国の王たちは、特に言及してこなかった。
ただひとつ、陛下の後継者が未だに現れないという、最大の問題が残っていることは、会議の場にいた誰もが感じていたこと。だが、王たちはそれを言うことすら野暮と捉え、自ら口を噤むほど。陛下の瞳に人間らしい光を見とめては、胸をなでおろしていた。要するに、「彼の心がきちんと守られていて、安心した」、ということである。
そして。退位を半年後に控える陛下の周囲では、今まで彼を取り巻いていた忙しさとは毛色の違うそれが、漂っていた。
陛下の色々な業務が復活したり、逆に分業された結果、少なくなったりもするなかで。
隠居生活をする離宮に連れて行く、世話係や兵士の選定が。最近の陛下の主な業務になっていた。
応募者数が絶望的だったその求人は、陛下が自ら生配信にて出演し、ゴッカン中に呼びかけ始めたことをきっかけに、あっという間に倍率が爆上がり。今まで恐怖と怨恨の対象でしかなかった陛下が、生配信で民たちに見聞きさせた顔と声は、無表情でありながらも、滲み出る生気と活力のオーラに溢れており。それが、生来、忙殺されていたせいで隠れていたカリスマ性を発したおかげで、民たちの心を一気に掴んだ。元々、やれば何でも出来る、の典型例でもある陛下だ。人心掌握も、やろうと思ったら出来た、ということ。
選定における書類審査と面接には、勿論とばかりに、陛下自身も加わっている。傍らにはビアンキ医師も、陛下のサポートとして連れ立っていた。そして、下積みだったはずのリィンは、今やすっかり『陛下の世話係筆頭』として、彼の周りで甲斐甲斐しく動き回っている。
あと半年で全てを整えて、離宮まで持って行かなければいけない。しかし、焦りやストレスは見受けられず。むしろ、今や周囲を拒む必要が無くなった陛下は、積極的に周りを巻き込んで、時には巻き込まれて。慌ただしくも、充実した毎日を送っていた。
飲まなければ一睡も出来なかったはずの睡眠薬も、乱高下する精神状態を抑えるための精神安定剤も、徐々に数が減っていって。今や、頓服に収まっているまでに。その事実にビアンキは陛下の主治医として、心の底から、安堵していた。そして彼もまた、陛下と共に離宮へ旅立つ人間のひとりとして、既にリィンに並んで、王の権限を行使した『合格』の判子を、直接、貰っている身である。あと、判子を貰うのを待っているのは、…あの日、戦場の花を持ち帰ることを提案してきた盾兵ふたりと、陛下の手を握ってくれた兵隊長だ。
そろそろ、こちらにも判子をついてやらなければ…、と思い直した陛下は、改めて確認していた兵士たちの書類から視線を上げた。すると。
控えめなノックが響いた。げ、と陛下は一瞬、零した後。すぐにいつもの無表情に戻ろうとしたが。時すでに遅し。
己の寝室に入ってきたリィンに、がっつり、書類仕事をしている姿を見られてしまった。案の定、「まあ!陛下!」とリィンは咎めるように、陛下に声を掛ける。彼女のその様子を見た陛下は「すまん…。どうしても、すぐに確認したくて…」と素直に謝った後。書斎机の中に、書類を仕舞い、ペンやタブレットも片付ける。
『寝室に仕事は持ち込まない』というのが、あの日以来、陛下とリィンが交わした約束のひとつだった。
夜の寝室は休む場所。仕事をするのは、次の朝陽が昇った執務室で。それが、約束を交わした際の、リィンの発した言葉である。
「陛下、いつもの薬湯ですよ。これを飲み終えたら、今夜は、詩編の続きを朗読して差し上げますね」
そう言いながら、リィンは湯呑みが乗った盆をサイドテーブルに置いて、提げていたバッグから誌編を取り出す。そこに挟まっている栞は、戦場から連れて帰ったあの野花の花びら数枚を、押し花にして作ったもの。種は採ってある。既に、隠居する予定の離宮に、花を育てる温室の設営を急がせている最中だ。
ベッド横の椅子に腰かけたリィンの対面に座る形で、ベッドに腰を下ろした陛下は。薬湯の湯吞みを一瞥した後。視線をリィンに戻して、口を開いた。
「少し、俺の話を聞いてくれ」
「はい、何でしょう?」
陛下の呼びかけに、リィンは返事をする。彼女の指先は、詩編の背表紙をするすると撫でていた。対して、陛下の指先は、ベッドシーツの上を滑っている。
「…、…この質問に対して、お前には黙秘権があることを、まず知らせておく。必要ならば、行使するといい」
「ええ、かしこまりました。…して、何でしょうか?」
急かす訳ではないが。リィンの口ぶりは、少し焦れていた。そして、陛下の瞳には、少しの困惑が走っている。
「……、…今のお前に、意中の相手は、いるか…?」
「…ええ、います。お相手も、私の心には気が付いていると思います。こちらから何かを告げたことは、一切、ありませんが」
「…。そうか」
「…はい」
陛下の表情が曇った。途端に口を噤む彼を、黙って眺めるリィン。だったが。暫くして、自身の指先で背表紙を撫で続けていた詩編を膝の上に置き。「陛下」と、呼びかける。思考に耽っていた彼は、呼ばれたことで現実に立ち返った。「なんだ?」と答える陛下に対して、リィンは、少し拗ねたような表情を向けた。
「陛下が仰って下さらないなら、私から言ってしまいますよ?
良いんですか?男として、恥ずかしくないですか?
せっかくの、陛下の一世一代の大勝負、このリィンが勝ってしまいますよ?」
「! やはり、お前…」
「当たり前ですっ。今や私は陛下のためにありますのでっ。あなた様の考えていることは、お見通しですからっ!
あぁー!焦れったいです!もう言わせて貰います!
陛下!私と、むぐっ?!」
「―――静粛に!
分かった、分かった…!ちゃんと俺から言う…!言うから、ちょっと待ってくれ…!」
リィンが告げようとした何かは、陛下が指先でその唇を堰き止めたことにより、音とならなかった。だが、もう分かってしまっている。ふたりには、この会話の先の未来が、とっくに見えていた。
むぅむぅ、と塞がれた唇で抗議の声を上げるリィンだったが。やがて退けられた指の先にある、色の違う双眸に、期待を込めた視線を向けてしまう。
それを受けた陛下は、う…、と一瞬、身を引きかけたが。すぐに、サイドテーブルの引き出しを開けて、中から小箱を取り出すと。それをリィンに差し出した。
「…開けてみてくれ」
「ええ、勿論」
小箱を受け取ったリィンが、その上蓋を開ける。中には、同じデザインの銀色の指輪が、ふたつ。リィンの眼が、指輪を彩る宝石よりも輝いた。その様子を見た陛下は、静かな声を紡ぐ。
「王としての役目を終えたあとは、…お前のための、俺でありたい。
…だから、嵌めてくれ」
そう言うと、陛下は、自分の左手をリィンに差し出した。それを聞いた彼女は、小箱から片割れの指輪を取ると、彼の手を握り、その薬指へ、しかと嵌めた。そして今度は、リィンの番が回ってくる。
「私は、この先、もう一生、あなた様のお傍を離れません。
…ですから、私にも、嵌めてください」
小箱に残った指輪を、陛下の指先が取る。そして、自分と同じく差し出されたリィンの左手を握って、指輪を彼女の薬指へ嵌めた。
己の指に輝く愛の徴を見ながらも、リィンは陛下にねだるような視線を寄越す。
「…陛下?」
「…、…やはり、言葉が必要…か…?」
「…私は、欲しいです。でも、もし陛下のご負担になるなら…、何年だって待ちます」
「…、がんばる…」
「ふふ、私が一緒です。何も怖くないですよ」
リィンがそう言うや否や。陛下はおもむろに彼女を抱き締めた。ぎゅ、と力強く、しかし、苦しくない加減で、彼は愛しいひとを腕の中に閉じ込める。あたたかい、と、思った。
「…俺と、結婚してくれ」
「はい、喜んで…!」
ああ。幸せというのは、きっとこのこと。あたたかくて、やさしくて、あまいもの。
名前を呼びたい。ずっと呼べていない、愛しいあなたの名前。ああ、確か。こんな響きの言葉。
「愛している、俺のリィン」
「ええ、私も愛しています。私の、―――ソラ様」
幾度となく冷徹な朝を迎え、残酷な昼に怯えて、孤独な夜を嘆き。そうして今まで、一国の王として在り続けてきた男が。
かけがえのない幸せを手に入れた、しかし、ごくありふれた普通の人間になれた瞬間こそ。…そう、今である。
これから花開くふたりの未来を、どうか穏やかに、そして静かに、見守って行こう。
めでたし、めでたし。
…とさ♪
そこにいたのは、数人の盾兵と剣兵、そして、リィンを従えたのみの陛下が、こちらに向かって歩いてきている。だけ。…それだけ、なのに。
何故か、兵士たちは黙って道を開けていく。皆が静かに、陛下の歩く道を、作っていく。
自我が無いはずの異形たちでさえ、陛下の纏う得も言われぬオーラに圧倒されたのか、じり…、と動きを止めた。
対して、陛下は自然と、しかし、不自然に。大地を踏みしめながら、遂に最前線まで歩いてきて。呆然とする兵士たちに向かって、口を開いた。
「全員、一旦、下がれ。
俺の一撃に巻き込まれると、――――…死ぬぞ」
陛下がそう告げた瞬間。何とも表現が出来ない寒気と、そして、妙な安心感が、兵士たちの背筋を駆け上る。このひとを味方にすると、こんなにも心強いのか。と、皆は改めて思い知る。だが、同時に、巻き込まれると死ぬかもしれないと言ってしまうような、修羅の如き戦いが繰り広げられるのか?、という一縷の恐怖心。
難解で複雑な胸中を抱えた兵士たちは、命令通り、陛下の後ろに下がって、防御態勢を取った。
陛下がオージャカリバーを左手に構え、紫色の羽根を弾く。
――『Pop It On!』
長らく触っていなかったかもしれない王剣を、陛下は何の迷いもなく、操作していった。赤、青、黄、黒、と順番に爪弾けば、鳴り響くは、王の凱旋を告げる曲。
「罪を前に、罰を怯まず。―――王鎧武装」
――『You are the KING! You are the, You are the KING!』
――『パピヨンオージャー!』
琥珀色の石が割れて、中から王の鎧を纏った陛下が顕現する。
自我は無いはずの異形たちは、何故か、後退りを始めた。が、その一歩ずつを、逃しはしないとばかりに、溶けかけた雪と氷に覆われた地を踏みしめながら、陛下は確実に詰めていく。
「もう何処の何者かも知れぬ貴様らが、二度とゴッカンに足を踏み入れることは許さん。
―――これは、王の決定だ。それでも、下がらないというならば…」
すぅ…、と陛下が息を吸う。それと同時に震える、場の空気。―――…何かが、来る。何かが、陛下の持つ刃へ、収束している。
ズォォオ…!!、と微かでありながらも、確かな耳鳴り、地鳴り、が聞こえたかと思えば。
「最早、貴様らには跪く間も与えぬ!
粛刑、執行ッッ!!」
陛下がそう吼えたと同時に。オージャカリバーを大きく横薙ぎに振った。途端、刃から飛び出す冷気の衝撃波。いつも飛ばしているツララのような規模ではない。比べ物にならない。
アフターバーナーよろしく吹き荒れた風に、思わず伏せた顔を上げた兵士たちが、次に見た景色は、余波で凍り付いた大地と、そこから生えたであろう小さなツララの群れしかなく。最早、異形の姿は、影も形も無い。なにひとつ、残っていない。前面に展開していた異形の精鋭軍団は、一掃されてしまっていた。たった一撃で、陛下が薙ぎ払ったのだ。
跪いて許しを乞うことは許さず。悲鳴を上げる間も与えず。一木一草、ことごとく。―――陛下は敵の全てを、氷塵を化した。
パピヨンオージャーの鎧が解ける。王の背中は何も語ろうとしない。降ろしたオージャカリバーの切っ先も、見ようともしない。しかし、氷の焦土と化した前方へ、陛下は踏み出す。一歩一歩、ゆっくりと足を進めたかと思えば、おもむろにしゃがみこんだ。黒革の指先が、氷の隙間から僅かに覗いた、緑色に触れる。
野花の芽だ。連日の晴れ間に誘われて、顔を出してきたのあろう。異形たちに踏み潰されることを免れたらしい。そして、僅かに陛下の放った冷気に萎れることも、また避けられたのか。
「晴れ間も、もう終わる。お前がどんな色の花を咲かせるのかを、この目で見たかった」
そう零した陛下の台詞は、微かな悲愴を漂わせていた。2週間も続いたゴッカンの晴れ間は、もうすぐ終わりを迎えて。翌々日頃には、またいつもの冷たい吹雪が戻ってくるという予報が出ている。せっかくの若芽は、きっと枯れてしまうだろう、と。しかし。
「それでは、連れて帰ってあげましょう」
鈴の音のような声がした。陛下が振り向くと、そこにいたのはリィン。そして、ふたりの盾兵。
「お任せください、陛下。自分は兵士一筋の道だったもので、花の世話はしたことないですけれど…、ほら、皆で調べて、助け合えば、きっと」
「そうです!きっとその花も、自分の色を陛下に見せてくださいますよ!」
盾兵ふたりはそう言いながら、笑った。リィンも微笑む。すると、その後ろから。あとに控えていた兵士たち全員が、進んできたのが見えた。
指揮権を持っている隊長が、兜を脱ぎ、剣を腰から抜いて。その両方を地面に置くと同時に、跪く。そして、後に続く者たちも、全員が同じことをした。花の保護をしようとした盾兵ふたりも、慌てて、それに倣う。リィンも、その場に傅いた。
陛下以外の皆が、彼に向かって伏せるなか。隊長が口を開く。
「陛下。此度の勇戦、お見事にございました。陛下のおちからなくしては、自軍に多大な被害が出ていたことでしょう。誠に、ありがとうございます。
そして…、今までの非礼の全てを、お詫び申し上げます。どうぞ、陛下のお心のままに、愚かな我々に然るべき処遇を…」
隊長がそう言うと同時に、彼を含むその場にいた全ての兵士たちが一斉に「陛下!」、「陛下!申し訳ございませんでした!」、「どうか処罰を!」、「陛下…!陛下ぁ…!」、とそれぞれの思いを吐露するかのような言葉の欠片を、口々に零していく。
すると。陛下が一歩、前に出てきた。持っていたオージャカリバーを一度だけ見ると、その視線を、眼前の兵士たちに戻す。陛下の靴底が地面を擦る音がした。誰もが陛下からの処罰を待っていた。のに。
「へ、陛下ッ?!」
隊長が驚愕の声を上げた。驚き、瞠目する彼の視線の先にあったのは。
――――兵士たち同様に、オージャカリバーを地面の置いて、跪く陛下の姿だった。兵士たちの間にどよめきが広がる。
「陛下!おやめください!王である貴方が、頭を下げるなど―――」
「―――お控えなさいッッ!!」
「―――??!!?」
隊長が動揺しながら陛下のもとへ駆け寄ろうとした矢先。響いた鋭い怒号。―――リィンだ。美しい顔に怒気を滾らせ、立ち上がりかけた隊長に向かって、口を開く。
「今は、私たちが陛下のお言葉を待つ番です!王の言葉を遮るなど、隊長たるものがあってはなりません!」
「も、申し訳ございませんでした…!
へ、陛下…、どうぞ、我々にお言葉を…」
リィンの𠮟りつけに萎縮しつつも、隊長は姿勢を戻して、改めて陛下に首を垂れる。
陛下の静かな声が響き始めた。
「俺は、今まで、独りで戦っている気になっていた。俺が倒れれば、国が倒れる。国が倒れれば、民が倒れる。
だが、違う。忠義の在り方に問題があったにせよ、情けない俺がいるこのゴッカンの兵力であり続けてくれたお前たちに、俺は感謝しなければならない。謎の異形たちに侵略されているなか、他の民たちに被害が出なかったのは、間違いなく、お前たちのおかげだ。…ありがとう。
それと同時に、―――心を閉ざす原因があったにせよ、……拒絶し続けて、…壁を作り続けて、…歩み寄ろうとしないで。…そうして、勝手に孤独になってしまった結果、1年後に玉座を退くという不始末を招いてしまって…、本当に、本当に、…申し訳ない」
陛下の言葉に、兵士たちの間から、すすり泣く声が聞こえる。隊長が顔を上げると、陛下と視線が交叉した。陛下が、続ける。
「もう遅いと分かっているのは…、俺とて同じだ。…それでも、縋ってみたい…、希望があるなら、願ってみたい…と。
俺は…、……『そちら』と、歩み寄ることは…、まだ許されるか…?」
そう言った瞬間。陛下の右目から、涙が一筋、流れた。晴れ間とて控えめな日差しに煌めく、流れ星のような、涙。
「…!陛下…!ああ、陛下…!!」
隊長が地を這うようにして陛下に近付き、自身もまた両目から涙を流しながら、口を開く。
「お手を、陛下のお手に、触れさせてくださいませ…!何卒、何卒…!」
その言葉を聞いたとき。陛下の顔から僅かな狼狽が見えた。手に触れるのは構わない。しかし、この黒革の手袋の下にあるのは、きっと―――…。否。最早、そこを考えるのは止めにする。と、思い直し、陛下は手袋を脱いだ。そこから出てきたのは、掌から手の甲、そして手首にかけて、薄らと霜のような氷が貼り付いている、肌。
隊長はその手を大切な玉を扱うかのように、優しく、柔く、己の両手で包み込んだ。
「…俺の手は…、冷たいだろうに…」
「冷えているのならば、温め合えば良いのです、陛下。我々人間には、人肌、がありますゆえ」
隊長がそう言うと。跪いていた陛下のからだ全体を包み込む、優しい温度を感じた。左右に盾兵がひとりずつ、そして背中にはリィンが。それぞれの腕を目一杯に回して、陛下の全身を抱き締める。
「え゛い゛か゛ぁ゛ぁ゛!!し゛ふ゛ん゛も゛う゛え゛い゛か゛を゛ひ゛と゛り゛に゛し゛ま゛せ゛ん゛か゛ら゛あ゛あ゛あ゛!!!」
「皆で一緒にッ…お花…育てましょう…ッ、ずびっ…、陛下、陛下…!」
盾兵ふたりが泣きながら、それぞれの思いを零す。そして背中越しに、鈴の音のような声が聞こえてきた。
「ずっとお傍におりますからね。もう何も怖くないですよ、陛下」
リィンがそう柔らかく告げると。
右目からしか流れていなかった涙が、みるみるうちに両目に溢れてきて。そして、大粒の雫となり、ぽろぽろぽろぽろ、と滴り落ちる。氷と化した大地に、ひとりの人間の温かい涙が落ちて、その凍り付いた表面を僅かに溶かしていく。
「…ぅッ、ひぐ、…ッ!、…うえぇ…ッ!」
堪えようとしても。我慢しようとしても。全然、抑えきれる気がしない。自分の心を抑圧して押し殺すことは、あんなにも容易だったのに。此処で溢れてくる涙は、全然、コントロールが出来ない。
―――…でも、それでいい。それが、いい。一国の王であっても、最高裁判長であっても。紛れもなく陛下は、ひとりの人間なのだから。
間も無く、うわぁぁぁあああん!!!と、堰を切ったかのように泣きだした陛下を見た瞬間。手を握っていた隊長は、真正面から陛下を抱き締めて。左右・背中で彼を温めていた盾兵ふたりとリィンも、同じく声を上げて泣き始めた。あとに控えていた兵士全員も、その光景と、陛下の心情に、とめどなく涙を流している。
その場にいた皆が、わんわん、と泣くなか。
ザイバーン城に連れ帰って貰えることが決まっている野花の若芽が。束の間の晴れ空の日差しを受けて、その緑色に僅かに湛えた露を、きらり、と光らせたのだった。
【4ヶ月後】
六王国会議を以てしても、陛下の退位は覆らなかった。というより、覆すことを、陛下本人が拒否した。それに対して、他国の王たちは、特に言及してこなかった。
ただひとつ、陛下の後継者が未だに現れないという、最大の問題が残っていることは、会議の場にいた誰もが感じていたこと。だが、王たちはそれを言うことすら野暮と捉え、自ら口を噤むほど。陛下の瞳に人間らしい光を見とめては、胸をなでおろしていた。要するに、「彼の心がきちんと守られていて、安心した」、ということである。
そして。退位を半年後に控える陛下の周囲では、今まで彼を取り巻いていた忙しさとは毛色の違うそれが、漂っていた。
陛下の色々な業務が復活したり、逆に分業された結果、少なくなったりもするなかで。
隠居生活をする離宮に連れて行く、世話係や兵士の選定が。最近の陛下の主な業務になっていた。
応募者数が絶望的だったその求人は、陛下が自ら生配信にて出演し、ゴッカン中に呼びかけ始めたことをきっかけに、あっという間に倍率が爆上がり。今まで恐怖と怨恨の対象でしかなかった陛下が、生配信で民たちに見聞きさせた顔と声は、無表情でありながらも、滲み出る生気と活力のオーラに溢れており。それが、生来、忙殺されていたせいで隠れていたカリスマ性を発したおかげで、民たちの心を一気に掴んだ。元々、やれば何でも出来る、の典型例でもある陛下だ。人心掌握も、やろうと思ったら出来た、ということ。
選定における書類審査と面接には、勿論とばかりに、陛下自身も加わっている。傍らにはビアンキ医師も、陛下のサポートとして連れ立っていた。そして、下積みだったはずのリィンは、今やすっかり『陛下の世話係筆頭』として、彼の周りで甲斐甲斐しく動き回っている。
あと半年で全てを整えて、離宮まで持って行かなければいけない。しかし、焦りやストレスは見受けられず。むしろ、今や周囲を拒む必要が無くなった陛下は、積極的に周りを巻き込んで、時には巻き込まれて。慌ただしくも、充実した毎日を送っていた。
飲まなければ一睡も出来なかったはずの睡眠薬も、乱高下する精神状態を抑えるための精神安定剤も、徐々に数が減っていって。今や、頓服に収まっているまでに。その事実にビアンキは陛下の主治医として、心の底から、安堵していた。そして彼もまた、陛下と共に離宮へ旅立つ人間のひとりとして、既にリィンに並んで、王の権限を行使した『合格』の判子を、直接、貰っている身である。あと、判子を貰うのを待っているのは、…あの日、戦場の花を持ち帰ることを提案してきた盾兵ふたりと、陛下の手を握ってくれた兵隊長だ。
そろそろ、こちらにも判子をついてやらなければ…、と思い直した陛下は、改めて確認していた兵士たちの書類から視線を上げた。すると。
控えめなノックが響いた。げ、と陛下は一瞬、零した後。すぐにいつもの無表情に戻ろうとしたが。時すでに遅し。
己の寝室に入ってきたリィンに、がっつり、書類仕事をしている姿を見られてしまった。案の定、「まあ!陛下!」とリィンは咎めるように、陛下に声を掛ける。彼女のその様子を見た陛下は「すまん…。どうしても、すぐに確認したくて…」と素直に謝った後。書斎机の中に、書類を仕舞い、ペンやタブレットも片付ける。
『寝室に仕事は持ち込まない』というのが、あの日以来、陛下とリィンが交わした約束のひとつだった。
夜の寝室は休む場所。仕事をするのは、次の朝陽が昇った執務室で。それが、約束を交わした際の、リィンの発した言葉である。
「陛下、いつもの薬湯ですよ。これを飲み終えたら、今夜は、詩編の続きを朗読して差し上げますね」
そう言いながら、リィンは湯呑みが乗った盆をサイドテーブルに置いて、提げていたバッグから誌編を取り出す。そこに挟まっている栞は、戦場から連れて帰ったあの野花の花びら数枚を、押し花にして作ったもの。種は採ってある。既に、隠居する予定の離宮に、花を育てる温室の設営を急がせている最中だ。
ベッド横の椅子に腰かけたリィンの対面に座る形で、ベッドに腰を下ろした陛下は。薬湯の湯吞みを一瞥した後。視線をリィンに戻して、口を開いた。
「少し、俺の話を聞いてくれ」
「はい、何でしょう?」
陛下の呼びかけに、リィンは返事をする。彼女の指先は、詩編の背表紙をするすると撫でていた。対して、陛下の指先は、ベッドシーツの上を滑っている。
「…、…この質問に対して、お前には黙秘権があることを、まず知らせておく。必要ならば、行使するといい」
「ええ、かしこまりました。…して、何でしょうか?」
急かす訳ではないが。リィンの口ぶりは、少し焦れていた。そして、陛下の瞳には、少しの困惑が走っている。
「……、…今のお前に、意中の相手は、いるか…?」
「…ええ、います。お相手も、私の心には気が付いていると思います。こちらから何かを告げたことは、一切、ありませんが」
「…。そうか」
「…はい」
陛下の表情が曇った。途端に口を噤む彼を、黙って眺めるリィン。だったが。暫くして、自身の指先で背表紙を撫で続けていた詩編を膝の上に置き。「陛下」と、呼びかける。思考に耽っていた彼は、呼ばれたことで現実に立ち返った。「なんだ?」と答える陛下に対して、リィンは、少し拗ねたような表情を向けた。
「陛下が仰って下さらないなら、私から言ってしまいますよ?
良いんですか?男として、恥ずかしくないですか?
せっかくの、陛下の一世一代の大勝負、このリィンが勝ってしまいますよ?」
「! やはり、お前…」
「当たり前ですっ。今や私は陛下のためにありますのでっ。あなた様の考えていることは、お見通しですからっ!
あぁー!焦れったいです!もう言わせて貰います!
陛下!私と、むぐっ?!」
「―――静粛に!
分かった、分かった…!ちゃんと俺から言う…!言うから、ちょっと待ってくれ…!」
リィンが告げようとした何かは、陛下が指先でその唇を堰き止めたことにより、音とならなかった。だが、もう分かってしまっている。ふたりには、この会話の先の未来が、とっくに見えていた。
むぅむぅ、と塞がれた唇で抗議の声を上げるリィンだったが。やがて退けられた指の先にある、色の違う双眸に、期待を込めた視線を向けてしまう。
それを受けた陛下は、う…、と一瞬、身を引きかけたが。すぐに、サイドテーブルの引き出しを開けて、中から小箱を取り出すと。それをリィンに差し出した。
「…開けてみてくれ」
「ええ、勿論」
小箱を受け取ったリィンが、その上蓋を開ける。中には、同じデザインの銀色の指輪が、ふたつ。リィンの眼が、指輪を彩る宝石よりも輝いた。その様子を見た陛下は、静かな声を紡ぐ。
「王としての役目を終えたあとは、…お前のための、俺でありたい。
…だから、嵌めてくれ」
そう言うと、陛下は、自分の左手をリィンに差し出した。それを聞いた彼女は、小箱から片割れの指輪を取ると、彼の手を握り、その薬指へ、しかと嵌めた。そして今度は、リィンの番が回ってくる。
「私は、この先、もう一生、あなた様のお傍を離れません。
…ですから、私にも、嵌めてください」
小箱に残った指輪を、陛下の指先が取る。そして、自分と同じく差し出されたリィンの左手を握って、指輪を彼女の薬指へ嵌めた。
己の指に輝く愛の徴を見ながらも、リィンは陛下にねだるような視線を寄越す。
「…陛下?」
「…、…やはり、言葉が必要…か…?」
「…私は、欲しいです。でも、もし陛下のご負担になるなら…、何年だって待ちます」
「…、がんばる…」
「ふふ、私が一緒です。何も怖くないですよ」
リィンがそう言うや否や。陛下はおもむろに彼女を抱き締めた。ぎゅ、と力強く、しかし、苦しくない加減で、彼は愛しいひとを腕の中に閉じ込める。あたたかい、と、思った。
「…俺と、結婚してくれ」
「はい、喜んで…!」
ああ。幸せというのは、きっとこのこと。あたたかくて、やさしくて、あまいもの。
名前を呼びたい。ずっと呼べていない、愛しいあなたの名前。ああ、確か。こんな響きの言葉。
「愛している、俺のリィン」
「ええ、私も愛しています。私の、―――ソラ様」
幾度となく冷徹な朝を迎え、残酷な昼に怯えて、孤独な夜を嘆き。そうして今まで、一国の王として在り続けてきた男が。
かけがえのない幸せを手に入れた、しかし、ごくありふれた普通の人間になれた瞬間こそ。…そう、今である。
これから花開くふたりの未来を、どうか穏やかに、そして静かに、見守って行こう。
めでたし、めでたし。
…とさ♪
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