『極寒の果てで』小説
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翌朝。
元の世界に戻るワームホールの出現地点に向かうため、護衛兵に両脇を固められて、従者たちに付き従われてながら、花嫁は歩いていた。自分の先を行く陛下の背中を見つめる。
その背にオージャカリバーは無く、王城兵なら誰でも持っている汎用の剣が、腰から提げてあるだけ。…昨日の従者たちの話が本当ならば、陛下はオージャカリバーを帯剣できない身。己に封じられた秘術のチカラが原因で…。ゴッカンの王たる者ならば負うのが決まりであろう、氷の秘術。しかし、それは王の覚悟であると同時に、王自身を護るものであるべきだろう。何故、陛下を傷付ける刃になってしまっているのかが、未だに分からない。
花嫁がそこまで考えていたとき。彼女の腕の中のイルが、くぅぅ、と鳴いた。無意識にイルを抱く腕にチカラを入れていたらしい。「ごめんね」と花嫁はイルに小さく謝った。
間も無く。先陣を切っていた陛下の歩みが止まる。つられて、花嫁たちの足も止まった。陛下が花嫁の方を振り向く。秘術が封じられているその右目は、今日も覆いがされておらず、ゴッカンの冷たい寒風に晒されていた。
「ここから先は、俺とシニョリーナで行く。…お前たちは、ここで別れを告げると良い」
静かに命じた陛下の言葉に従い、花嫁は護衛兵と従者たちに、丁寧に腰を折った。兵士も従者も、皆が薄らと涙を浮かべながら、「どうかお元気で」と見送りの言葉を贈る。その様子は、異邦の客人だったというのに、花嫁が随分と慕われていたことを如実に示していた。
花嫁が、イルを従者のひとりに返す。イルはうるうると瞳を瞬かせ、花嫁に向かって、くぅぅん…、と切なげに鳴いた。彼女はイルに「ありがとう、イル」と声をかけてから、頭を優しく撫でる。
そして、今度こそ。花嫁は、先を行く陛下の背中へ、ついていった。
少し開けた場所に出る。
薄く積もった白銀の雪面の上に。ぽっかりと空いた、黒色の穴。虚空を思わせるそれこそが、花嫁を元の世界に帰してくれるワームホールだ。
花嫁が息を吞んでいると。隣に立っている陛下が静かな言葉を零す。
「…実は、少し前から、ここに次元の歪みが観測されていた。
シニョリーナがある日突然、こちらにジャンプしてきたならば、…それは次元の不安定さが引き起こしたモノのはず、と踏み…、目星をつけた場所を見張らせていた。…そして昨夜、やっとこのワームホールを見つけ出した」
それを聞いた花嫁は、陛下の意向を正しく理解していた。「帰る方法を、ほぼ把握しておきながら。どうして、自分に教えてくれなかったのか?」と問うことは、間違っていると。
告げたところで。万が一、ワームホールが観測できなかった場合、彼女をぬか喜びさせたのが忍びなくなり。きっと彼は、ますます心労を溜め込むはずだ。それが無意識にせよ、有意識にせよ。
そこまで考えて。花嫁は、ふと、思い至る。
―――本当に、このまま、帰ってもいいのだろうか、と。
帰るべきだ。帰るしか選択肢はない。それは重々に理解している。しかし―――…
「帰る前に、これを返却しておく」
花嫁の思考を断ち切るかのように、陛下が彼女の手の中に、何かを握らせた。―――ゴッカンの国章が入った、銀の指輪。王配の証であり、花嫁が異邦の者であることを証明した、大切なもの。
指輪を自分の薬指に嵌めた花嫁は、ワームホールを見る。闇を塗りたくったような漆黒の穴には空恐ろしいものを感じるが。第六感ともいえるものが告げる。これを潜れば、元の世界へ帰ることが出来るのだ、と。―――でも…、そうすると、ここで見聞きした『陛下のいま』を、自分は置き去りにしてしまうのでは―――…?
「……何を躊躇っている?早く、ワームホールを潜らないか」
陛下の静かな声が、耳朶を震わせてくる。分かっている。自分は帰らなければならない。
それでも。彼女の中にある慈愛と正義の心が。その唇から、言葉を紡がせる。
「…、私は、まだ、陛下に何もお返しをしておりません」
「…。お前は迷い込んできただけの者。俺はそれを保護しただけで、今は元の世界に帰す術を与えているに過ぎない。
当たり前のことをしているだけだ。俺に礼を尽くしたいなら、このままワームホールを潜り、早く帰ることだ」
冷たい声。よく知る顔立ちから、全く知らない声がする感覚。陛下からの微かな拒絶の意思を感じる。背筋が凍る思いを覚えるが、花嫁は尚も言葉を重ねようとした。
「ですが―――」
「―――くどいッ!!」
「ッ!!」
重ねようとした言葉は、空気を切り裂くような陛下の鋭い声に遮られる。花嫁に向けられたその瞳に、氷の刃のような気を湛えて、彼女を見据えながら、まるで追い詰めるかのように一歩、また一歩とを進み出る。その威圧と気迫に押されて、花嫁はじりじりと、後退してしまっていた。背後に、ワームホールが放つ、虚空の気配を感じる。
「俺の身の上を知って、同情したか?!それとも、可哀想だと見下げ果てたか?!…どちらにせよ、お前には関係の無いことだ…!
お前はこの世界の人間ではない…!次元の歪みに巻きまれただけの、ただの異邦人に過ぎぬ!
弁えろ!!身の程を知れ!!」
陛下の凄まじい剣幕が、花嫁を襲う。恐ろしさに震える彼女に、彼は畳みかけた。
「『俺のゴッカン』に情を残すな!さっさと、『お前のゴッカン』へ…、己の在るべき王国へ帰れ…!!
――――帰れッッッ!!!!」
激情の咆哮と共に。カッと見開いた双眸の片割れ、すなわち、陛下の右目が光った。途端に、荒々しい吹雪が巻き起こる。それは冷徹な豪風となって、花嫁をワームホールの中へと、無理矢理、押し込んでしまった。
何かを叫んだ花嫁の声は、次元の歪んだ穴の虚闇に消えていき。―――もう、陛下の耳には届かない。
陛下は腰の鞘から抜いた剣に、チカラを込める。花嫁を飲み込み、その存在価値を全うしたことで、弱々しく明滅し始めているワームホールへ、剣の先を向けた。その刀身がみるみると氷に覆われて、…やがて、氷の大剣と成す。
「―――罪を前に、罰を怯まず。
…粛刑、―――執行ッ!」
陛下がそう叫ぶと同時に、氷の大剣を振り被り、ワームホールを一刀両断した。真っ二つに切り裂かれた穴は、瞬く間に凍り付き…―――…、あっという間に、氷の粒となって、さらさらと音を立てながら、真白の雪面へと消えて行った。
「……、……。……これで、いい…」
降ってくる雪の結晶よりも小さな声で、呟いた陛下の言葉は。パリィン…、と氷粒に砕け散った大剣と共に。ゴッカンの寒空の下に、失われていくのだった。
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温かい。いつもの匂い。とても、温かい。
どうしてだろう。全てがいつものことなのに、何故か無性に恋しくて、愛おしくて、懐かしい。そんな感傷を抱く。
薄らと両目を開けた花嫁の視界に入ってきたのは。この世界で一番愛しいひとの、穏やかな寝顔だった。まだ、夜明け前らしい。夜間用の蝋燭は、燭台の上で、残り短い己の身を燃やし続けている。窓の外はいつも通り、ブリザードは吹き荒れており、夜明け前ということもあって。寝室内は、しん…、と温度が下がっていた。花嫁は、ふるり、と身を震わせた後。ぬくもりを求めて、目の前で寝息を立てているソラに身を寄せた。すると、彼の眼が、これまた薄らと開く。
「…、…寒いのか…?」
声は寝ぼけているが、はっきりとした的を絞った質問。ソラらしい。花嫁が、すりすりと彼の胸に顔を埋めて甘えるのを、彼は甘く微笑んで見守りながら。その逞しい腕で包み直した。
「珍しいな…、お前が先に起きるなんて…」
「夢を見ていた…、ような気がするのですが…、はっきりと覚えていないのですわ…」
ソラと花嫁は、ふたりして寝ぼけながら、そして、ぬくもりを分かち合いながら。静かな寝室で、語り合う。…語るというよりも、お互いに零す言葉の欠片を拾い集めているに、近いかもしれない。花嫁は小さく欠伸を噛み殺しながら、ポツポツ、と欠片を零す。
「…寂しい夢だったような…。起きる直前に、酷い寒さを感じた気もします…。…でも、どうしてでしょうか…、嫌な気持ちではなかったんですの…」
「…寂しくて寒かったのなら、…例え、覚えていなかったとしても…、…もう二度と、思い出す必要はない…」
「…はい、そうですわね。きっと、忘れても差し支えのない、夢だったのですわ…」
言葉の欠片を拾い合いながら。ソラと花嫁は、互いにまた、眠りの波に飲まれようとしていた。
―――このぬくもりは、決して離してはならない。離すことなど、ありえない。
睡の波の中に、とろり、と蕩けた思考で。花嫁は、自分の未来の夫となる男の温度に、身を委ねたのだった。
――――……。
【別の世界線のゴッカン ザイバーン城・中庭】
花嫁を送り返し、ワームホールを破壊した陛下は、そのまま直帰したはいいものの。…体調が優れず、今日の仕事が続けられなかった。
医務官に休むよう言い渡された彼は、装束から部屋着に召し換えた後。中庭を歩いていた。足元では、イルが転がりながら、ついてきている。
目指すのは、椿の樹の場所。
陛下の即位に合わせて、他国からやってきた、あの椿の樹。だが、病気にかかり、花をつけなくなったうえ、倒木の危険があると分かった瞬間から、伐採が決まった。
―――自分も、そうだ。と、陛下は胸中で思う。
ンコソパから召し上げられて、教育を施されて。即位した瞬間から、過密スケジュールの中で働いた。心身が追い込まれていると自覚したときにはもう遅く。助けを求めることが出来ないまま、倒れた。氷の秘術が暴走を見せ始めたのも、この頃からだ。自身の進退を決断するのに、時間はかからなかった。
退位の意思を表明した直後は、自分が責任逃れをしている気がして、また己を追い込みかけた。……が、氷の秘術の暴走や、オージャカリバーを扱えないことが、『都合の良い言い訳に転用できる』ことが分かった瞬間。…心が軽くなった気がした。
…城中の者の視線が、冷たく感じた。その瞬間から、孤独の中で生きると決めた。イルは、セラピー用の愛玩生命体にすぎない。調整に出せば、アップデートが施される代わりに、記憶はリセットされる。
もとより、『国民全員が王を嫌う』、『最果ての牢獄』の、このゴッカン。その玉座に居る身として。誰かに好かれるはずもないのだ。
諦めていた。孤独に慣れていた。宵の寒空も、冷たい朝陽も、冷酷な昼の雪原も。全て、総て、受け入れるべきだと。そうやって、己の心は殺してきた。自分は、ゴッカン王としての責務を果たすだけの、『道具』に過ぎないのだ、と。
だから。自分が玉座を降りる、その日まで。精々、周囲の奴らも、俺を顎で使え、都合の良い駒として扱ってみせろ、と。そんな風にさえ、考えていた。
そう考えている間に、中庭が開ける。
ちらちらと降る雪の間で、弱り切った椿の樹が、哀愁を纏って、立っていた。
この樹が倒れる日が、自分もこの国を退く日にしてしまおうか、と思いながら。見上げたときだった。
白い、白い、花影。雪の陰間でちらついた、純白の美影。
陛下の、翡翠と鈍色の双眸が、見開かれる。震える手の先が触れたのは、――――白色の椿の花。
…―――咲いている。椿の花が…!
もうつけないと言われた、この花が。確かに、今、目の前で、花弁を大きく開いている。
たった一輪だけ。彼女にこの樹を見せたときに確認した、あの小さな蕾だけが。花と成り、雪を被っても尚、凛と咲いている。
白色の椿の花言葉は、『至上の愛らしさ』。―――……その言葉を思い出した瞬間だった。
陛下の中で、何かが激しくスパークする。息苦しさを覚えて、思わず座り込んだ。明滅する思考の中で、ハッキリと思い浮かぶのは、彼女―――…花嫁の姿。
謁見を却下してまで、彼女を遠ざけていたのは。『愛する男と、同じ顔をした別の男と話すなど、彼女の心労の種にしかならない』と。
この椿の樹の前で、己の内情に踏み込もうとした彼女を拒絶したのは、『この世界の禍根を、異邦人が抱え込む必要がない』と。
それでも、尚、この世界の、否、陛下のことを危ぶむ彼女の慈愛と正義を突っぱねて、ワームホールへと押し込んだのは、『それが正しい』と。
そう、考えていたのだ。
だが、違う。全てが、違う。違ったのだ。
彼女と会えば、彼女を愛しいと想う自分の気持ちに気が付くから。
彼女に内情を知られたら、彼女に自分を支えて欲しいという甘えが湧き出てくるから。
彼女を元の世界に戻さなかったら、……もう一生、己の手の中に閉じ込めてしまうから。
どうして、今更、気が付いてしまったのか。どうして、自覚してしまったのだろうか。どうして、どうして…。
寂しい、寂しい…。寒い、寒い…。
…寂しくて、寂しくて、…身体の真芯から、凍えるような思いすら、感じる。
突然、突き付けられた現実が、陛下の思考を掻き乱す。呼吸を浅くしながら座り込んだ彼の周りを、イルがくぅくぅと心配そうに鳴きながら、ウロウロと歩き回っていた。
視界をうろつく白い毛玉の姿を見た陛下の視線の焦点が、徐々に合っていく。浅くなっていた呼吸を取り戻そうとして、思わず咳き込むと、喉の奥にゴッカンの寒冷な空気が入り込んできた。その冷たさが、スパークしていた胸の奥を急速に冷却して。彼の思考回路に、冷静さが少しだけ戻って来た。
のろのろと立ち上がり。まだふらつく足元に、動けと命令しながら。
陛下が、咲いている椿の花に手を掛けると。――――……そのまま、ぽきん、と枝の少し先から、花を摘み取った。
呆気なく手折った椿を、陛下は己の手の中に収めて。暫し見つめた後。
―――…その右目が、光を湛える。手の中で、箱庭の吹雪が巻き起こり。それはあっという間に、椿を氷漬けにしてしまった。
元来。氷の秘術は、『法で裁けない罪人を、永遠に溶けない氷で自ら諸共封じることで、罰とするための術』である。
今の陛下のように、戦闘に使うことは。秘術の本来のルーツから鑑みれば、間違った使い方なのだ。
奇しくも、陛下と運命を共にしようとする樹がつけた、真白の椿。―――彼女が見届けてくれた樹が咲かせた、花。
もう二度と手を伸ばすことが叶わぬ慈愛の影が、過ぎ去った後に自覚した、許されぬ想いの形。
―――『花嫁』という、『陛下』では出逢えなかった、運命のひとに恋をしてしまった。
それを具現化するかのように咲いた、この椿の花を。『裁きの術』である秘術で、凍らせる。
想ってはいけないひとを想ってしまった、自分の罪。気が付いてはいけない気持ちに気が付いてしまった、己への罰。
これが、正しい。氷の秘術の、本来の用途。
永遠に溶けない氷に閉じ込めた、椿の花の白さは。陛下の眼に、輝くばかりの純真さを映す。
…その氷の表面に、雫がぽたぽたと堕ちてきた。―――…降っているのは、雪なのに…―――。
「…、誰か…、俺を…、裁いてくれ……」
ゴッカン王である限り、チキュー唯一の最高裁判長である陛下が望んだのは。…自分への裁き。
氷漬けの椿を持った、その手の。服の袖から僅かに覗く、手首の素肌には。
冷たく、青白い氷の膜が、薄らと張り付いていた…―――。
―――fin.