ALICE in New World

ルカたち、3人がRoom ELに続く廊下を歩いていると。不意に、ルカが止まった。つられて、ツバサも止まる。しかし、ソラだけがその歩みを止めず、ふたりの前を出た。すると。

「そんなに警戒しなくてもよろしくてよ?」

品のある女声が控えめに響いたかと思うと、廊下の先から、ヒールの鳴る音と共に、細長いシルエットが現れた。
ワインレッドの長い髪が美しく、また、右目の眼帯が印象的な、女性。これがまた、思わず伏したくなるなるほどの、美女だ。
…ツバサとて、見間違うはずがない。前岩田社長の動画に、彼と一緒に映っていたひとだと、すぐに認識した。

「何か御用でしょうか?」

ルカよりも前に出たソラが、事務的に問う。その声音は冷たく、美女の言う通り、相手を警戒しているとも取れる。
すると、彼女は薄紅の唇に弧を描き、フッと笑いながら、口を開いた。

「そちらの事務員さん、少し貸してくださる?」
「彼女はうちの事務要員です。その業務外にあたる、不必要な用事を言い付ける気でいるなら―――」
「―――いやだわ、ソラ秘書官ったら。わたくしは、彼女に給湯室の掃除を押し付けたり、ふたりきりになった途端におかしなお誘いを吹っかけたりはしなくてよ?」
「…、だそうです」

美女の言葉を聞いたソラが、ルカに振り返る。
一方。ソラと美女とのやり取り。その内容を聞いて、ツバサは驚いていた。佐々名木に言い付けられた給湯室の清掃に加え、廣井に言われた意味深のようなそうでないような言葉、…全て把握されているというのか。やはり、自分に何か監視ツールが仕掛けられているのだろうか…。否、上司として、また会社員として常識的な範疇にいるルカとソラが、いくら自分たちの部下の行動を把握するためとはいえ、そこまでのことは…。

「ということで、借りていきますわね♪」
「え、あ、あの…?!」

美女が颯爽とツバサの腕を取る。ツバサは慌てふためきながら、ルカに助けを求めるように視線を合わせる。が、当のルカはにこにこと笑いつつ、「20分で帰っておいで~」と言いながら、手を振っているだけ。ソラも呆れを滲ませた目線をしているが、実力で止めるまではしない様子。


そして、少し離れた場所。このご時世には珍しい、喫煙所の近くで。美女は足を止めた。つられていたツバサも立ち止まる。

美女がツバサに向き直った。その左目は、髪と同じ上品なワインレッドと、穏やかなグレーの混じった、不思議な色味をしている。
何を言われるのだろう…、とツバサが内心、不安がっていると。
レースの手袋に覆われた美女の両手が、ガシッ!、とツバサの手を包んだ。

「!?」

驚くツバサは声も出ない。が、目の前で爛々と輝く美女の瞳に、恐怖というよりは疑問が浮かぶ。すると、次の瞬間。

「ツバサじゃーーーん!めーーっちゃ久しぶりだな!?
 な?な?おれのこと!覚えてるだろッ?!」
「え…、え…?」
「まあ、戸惑うのも無理ないか…。何せおれたちがつるんでたのは、今からもう10年以上前のことだし」

…「おれ」?「つるんでいた」?「10年以上前」?
ツバサの脳内に、美女に言われた言葉が羅列していく。情報量が多すぎるというより、関連性が無さすぎるのと、突発的すぎて、上手く処理が追い付かない。

「ルカの所に『ツバサ』って名前の可愛い事務員が入った、って聞いたときさ、まさか!?とは思ったけど…、そのマサカ!やっぱオマエだったんだなあ!ツバサ!
 いやぁ、それにしても…、うちの一般事務にオマエがいたなんて、おれも知らなかった…。知ってたら、ルカよりも先におれの所に引き抜いていたのに…、…て、あれ?ツバサ?大丈夫か…?すっごいボンヤリしてるけど…?」
「私、あの、…えと、あなたとどこかでお会いしましたか…?」

美女はツバサに対して、ひどく馴れ馴れしい、というより、まるで旧知の仲かのような態度だった。しかし、肝心のツバサに、美女への記憶は一切無い。すると、美女は、「え?」と一瞬だけ間抜けた顔をした後。すぐに、「そうか、そうか…、そういうことか…」とひとりで納得するかのような素振りを見せた。そして。

「忘れちまったもんはしょーがねえな。ま!こっからまた仲良くしていこーぜ?」
「―――…。」
「あ、ってことは、おれのことは初対面扱いだよな?じゃあ、自己紹介からだ」

閉口するツバサに対して、美女は、取っていた手を振りほどくと。自分の白いドレスの裾を摘まみ上げ、優雅な一礼を披露した。

「わたくしは、ROG. COMPANY 五級高等幹部、ローザリンデ。
 Room ELの武装品一式の手配を、一任されておりますわ。どうぞよろしくお願い致します」

男前な言葉遣いとは打って変わって、美女―――ローザリンデは、淑女然とした完璧な所作を見せつける。二面性があるらしい、ということは、ツバサでも分かった。…というか。

「五級、高等幹部…」

ローザリンデの職位。こうも短期間で、高等幹部を名乗る者にふたりも巡り逢えることも、早々にないだろう。それとも、ルカの部下になったということは、こういうことなのだろうか。自分が遭遇していることなのに、どこか他人事のテンションになってしまうツバサだった。

「夢見心地で仕方ないって顔してらぁ」
「…! あ、えっと、」

ローザリンデが、言葉遣いを戻して、そう言う。その言葉の意味を知り、ツバサは何故か羞恥で顔が赤くなった。そんな彼女を見ながら、ローザリンデはからからと笑い、腕組みをして続きを紡いだ。

「まあ、仕方ねえさ。一般事務でもみくちゃにされてた最中に、突然、イケメン高等幹部とハイスペ秘書官のおわす執務室に召し上げられたんだ。誰だって現実味を失うってもんよ。
 …でも、さすがだなあ。そこで舞い上がらず、淡々と自分の業務に集中できるってのが、オマエのすごい所」
「恐縮です…」
「正当な評価さ。…お、そろそろ時間か?早めに解放してあげないと、そちらの秘書官に怒られちまう」

言うや否や。ローザリンデはどこからか、自分の名刺を差し出す。「…頂戴します」と、ツバサは受け取った。

「何かあったら、裏の番号を鳴らしてくれ。遠慮すんな?
 ルカもソラも、仕事は完璧だけどさ、結局あいつらって男じゃん?そこんとこ、ツバサに配慮が足りない気がするんだよ。
 あ、もちろん。仕事以外の連絡もウェルカムだぜ?美味いスイーツとか、一緒に食べに行きたいって思ってるんだよなあ」

そう言いながら、ローザリンデは、はっはっは!と豪快に笑った。すると、ツバサのスマートフォンが震える。着信だ。ツバサが画面を見ると、『ソラさん』の文字。…ローザリンデの予感は、当たるらしい。


*****


ツバサがRoom ELに帰ると、ルカが応接ソファーに、ティーセットを用意していた。みっつある。…そういえば、イングリッシュマフィンのサンドを買ったと言っていたことを、ツバサは思い出した。

「ただいま、戻りました…」
「あ。おかえり、アリスちゃん」

ツバサが帰室を告げると、ルカの顔にパッと笑顔が開く。周囲に花でも飛んでいそうだ。華やかなベルガモットの香りが鼻孔を擽る。アールグレイだ。
ツバサが充電の為に社用端末をパソコンに繋いでいると、ソラが静かにやってきて、口を開く。

「休憩がてら、情報の整理をする。席につくように」
「かしこまりました」

この端的なやり取りも随分と慣れた…というより、ツバサの肌に合っている。コミュニケーションとは名ばかりの、ぐだぐだとした回り道だらけの会話より、無駄を省くだけ省いたソラのシンプルな指示の方が、ツバサの頭に内容が入ってきやすい。
背中を向けたソラに続き、ツバサも応接セットに向かう。給湯室のレンジで温めてきたらしい、イングリッシュマフィンのサンドを乗せた皿を、ルカが配膳していた。

各々が席につくと、ルカがティーカップを持ち上げ、紅茶を一口飲む。それを合図にソラもカップに手を伸ばした。ツバサは砂糖をひとつ入れて、ぐるぐるとスプーンでかき混ぜた後、口を付けた。

「…さて、と。社長宛て以外の、右藤さんの遺書を回収したワケだけど…。
 もう、早速、問題だらけだよねえ~…」
「こうも分かりやすい態度を取られると、…ナメられているのかと、勘違いしそうだが?」
「あーまあねー」
「え、っと…。人事部とKエリアの、何が問題だったのでしょうか…?」

ルカとソラの会話の内容が、ツバサにはよく分からなかった。人事部も、Kエリアも、特に自分たちを下に見るような態度は取っていなかったように見えたから。むしろ、人事部のダニエルに至っては、亡くなった右藤を悼み、ルカに腰を折ってくれたくらいだ。
故に、ツバサは横に入る形で、どういうことかを質問をした。これくらいで怒るふたりではないことも、既に分かっている。すると、ルカがツバサを見て、軽やかに笑った。

「回収した2通の遺書からして、もう両陣営の信頼は皆無ってコト」
「え?でもダニエルさんは、とても誠実なお方だったのに…」
「まあ、よく見て。この遺書」
「…?」

ツバサが養護しかけると、ルカがテーブルに回収した2通の遺書を置いた。どちらも右藤がしたため、人事部とKエリアに送ったもの。見比べるように眺めていると、直後、微かな違和感がツバサを襲った。

…人事部宛ては、ワープロ打ちなのに。Kエリア宛ては、直筆だ。

この違いは、何だろう?

途中から直に筆が取れない程に、衰弱しきっていた?それとも、時短した?

ツバサがぐるぐると考えていると、ルカが口を開いた。

「アリスちゃんが、ローザリンデとお喋りしている間、ソラがKエリア宛ての遺書の筆跡を調べてくれたんだ。現場に残されていた、右藤さんのスケジュール帳にあった字と、照合したの。
 結果は、ドンピシャ。少なくとも、Kエリア宛ての遺書は、右藤さんが自ら書いたもので、間違いなさそう」
「では、人事部に送ったものが、ワープロ打ちなのは、何故…?」

ツバサが問う。すると、今度は隣に座っているソラが答え始める。

「このワープロ打ちの遺書は、人事部が用意した偽物である可能性が、極めて高い。
 Kエリアと、社長宛ての遺書が直筆なのに対して、人事部に宛てたものだけ、わざわざワープロで用意する理由は、見当たらないからな」
「遺書をしたためている途中で、指に怪我をしたとか…」
「死体検案書によると、そのような可能性は低い、というより、ほぼ無い。
 そして、遺書が本人が用意したものでないとすれば、選択肢として残るのはあとひとつ、というわけだ」
「…それは…」

ツバサも間抜けではない。ここまでヒントを与えられておいて、行き着かない答えは無いのだ。

「人事部の遺書は、人事部が捏造した偽物で…。偽物を用意した、その理由は…」

人事部は、ルカたちが来ると分かって、偽物を用意したはず。何故なら、ソラがアポイントメントを取ったのは、右藤の遺書が届いた今朝から、そこまで経っていない時間帯だからだ。本物の内容を確認したうえで、右藤の遺書がRoom ELに、引いてはルカに見られると不味いものであると判断し、急いで偽物を用意した。時間が無かったから、筆跡を真似るような器用な贋作は作れず、ならば、初めからワープロ打ちだったかのように捏造したに違いない。
…、と、なれば…?

「人事部も、右藤さんに、何かハラスメントめいた迷惑行為を、していた…?」

ツバサの脳が、答えに到達する。すると、ソラがその答えの補強するかのように、続きを紡いだ。

「回収したこの偽物の遺書には、人事部、特にダニエル氏への感謝の言葉が並んでいた。しかし、それは捏造。つまり、『人事部にとって都合の良いこと』ばかりだということ。裏を返せば、本物の遺書には『人事部に都合の悪いことが書かれていた』ということだ。隠された遺書の中身は、ツバサの言う通り、ハラスメント系統の告発とみて、ほぼ間違いないだろう」
「…。」

すごく、深い、闇だ。ツバサはそう思った。ハラスメントは社会問題として根付いている反面、それを解決する能力というのは、社会全体が有するというより、元凶にある企業や、果ては個人のレベルに依存しがちだ。故に、解決までの糸口が見つけられず、泣き寝入りする被害者も、きっと星の数ほどいるだろう。おそらく右藤はそのひとりで、泣きながら枕を濡らした夜をいくつも越えて、…とうとう限界が来たのだ。

「Kエリアに宛てられた遺書は、本物…。となれば、ここに書かれたことを調査すればいい。
 だが、裏付けはとうに出来ている。一般事務には、ハラスメントや、それに準ずる不貞行為が横行している状態だ」
「不貞行為…?」

ソラの台詞に、ツバサは、はて?、と思った。ハラスメントはともかく、不貞行為とは何だろう?
すると、今度は解答役が、ルカにバトンタッチされる。

「アリスちゃん、佐々名木さんに掃除を言い付けられたでしょ?その時に、かなり侮蔑的な言葉も投げられてるし、不必要に怒鳴られてもいる。そもそも、さも事務仕事で支障が出ているかのように言って誘い出し、連れて行った先が給湯室の掃除…、なんて、詐欺に等しいからね~。アリスちゃんは今はRoom ELの事務員だから、一般事務の給湯室を使う機会はもうほぼありえない。それなのに、掃除を押し付けるのは、明らかに不当だし」

確かに、それはツバサも同意見だ。あの場で断ろうともした。しかし、佐々名木はヒステリックに喚いて、ツバサを恫喝した。しかし、本格的に逃げられなくなったのは、その後に現れた常務の廣井のせいでもある。
そこまで考えていると、ルカが飲みかけの紅茶が入ったティーカップをソーサーに置き、じっとツバサを見つめてきた。どこか真剣味を帯びた瞳に、少し緊張が走る。何か、重要なことを言われそうな気がした。

「アリスちゃん、気が付いてない?廣井常務の台詞の意味」
「何か含みはあるとは、思っていますけど…。でも、その…、結局、常務が何が言いたかったのか、私には判断できかねています…」

ツバサが正直に答えると、ルカは、そっかぁ、と呟き。暫し考えを巡らせるかのように目を伏せ。またすぐにツバサと視線を合わせた。

「あれね。不倫のお誘い」
「…えッ…?ふ、不倫…?!で、でも、そんな言葉、どこにも―――」
「―――うん、無かっただろうね。当たり前。だって、面と向かって「自分と不倫してください」なんて言う訳ない。
 だから、「妻が構ってくれないから、寂しい」、「子どもが大きくなった」。…すなわち、今の自分には時間と金があることをチラつかせて、対象の方から「では、私でよければ、食事ないし、飲みに行きましょう」と言わせて。…そのまま、ホテルに誘い込むパターンだね~」
「…。それに引っかかるひとって、本当にいるんですか…?」
「アリスちゃんみたいに、無自覚でも地で賢い子だと、まず大丈夫だケドねえ…。この世の中、そういう子ばかりじゃないからさ。
 ひとりが寂しいとか、どれだけお金を使っても満たされないとか、美味しいものをいっぱい食べても常にお腹が空いているとか。…まあ、心に隙を抱えた子が、そういうことの餌食になりやすい傾向にはある。
 特に廣井常務は、社内でも人気があるようだし、「お近づきになれるチャンスが巡ってきた」と舞い上がって、ついつい誘いに乗っちゃうコトも少なからずあるんじゃない?…まあ、不倫関係になるか否かは、置いておいても、ね」

ルカの台詞に淀みは無い。説得力がある、というよりは、内容の重みがすごい、とでも言うべきか。ツバサはルカの言う「心に隙を抱えた子」なるものへは思いを馳せる事ができないが。何となく、この現代社会を生きているうえで、そういう人間が持つであろう危うさというものは、彼女の想像の範疇ではあった。
というか。そういう話になるということは…。

「私は、廣井常務のターゲットにされたということですか…?」

そういうことである。ツバサは妻帯者と不倫関係になろうなど、考えたことも無い。というか、普通に嫌悪感しか抱けない。それ以外の何があろうものか。何より…

「佐々名木さんと言い、廣井常務と言い、軽く見過ぎだよねえ?キミのこと」
「…。」

ルカの言葉に、ツバサの気持ちが沈む。出身である養護院を出てから、あまり他人から対等に扱っては貰えなかった数々の記憶が、苦い味を伴って、彼女の心にチクリと棘を刺す。

「アリスちゃんですら、これだもんね。
 …右藤さんの無念を完璧に晴らすには、相当な『闇』を見ないといけないかも」
「闇…」

ルカの言った単語を、ツバサは反芻した。

「まあ、とは言え…。あんまし気負ったり、ムキになったり、ましてや自棄になったら、ダメだよ?
 オレはアリスちゃんのこと、絶対に失いたくないから」

そう諭すルカの深青の瞳は、真摯な光を宿している。ビジネストークではどうあれ、生来、ルカが嘘が吐ける人柄ではないことは、ツバサとて、とうに把握していた。それはソラも同じであることも、また。

人事部ですり替えられた遺書。Kエリアに蔓延る不貞行為。
亡くなった右藤は、この会社で何を見て、何と遭遇して、何と戦っていたのだろうか。彼女が己の命と引き換えてまで、発信したかったメッセージが、どこかに落ちているのだろうか。

この一件が、Room ELに来たツバサの、ましてや、この執務室そのもののデビュー戦だと、ルカは言った。

…―――ならば、きっちりと納めてしまおうではないか―――…。

「やる気は出たか?」

ツバサの隣から、ソラが冷静な声で、彼女に問いかける。

―――ツバサは無言で、されど、しかと頷いた。

既に散った命は惜しまれど。散っても尚のこと、発する声があるのなら。
それを拾い上げよう。
それが、今回の自分の仕事だ、と。ツバサは胸に刻んだ。

そう固く決断した彼女の様子を見たルカの唇が、うっそりと、弧を描く。




to be countinued...
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