第一章 ALICE in New World

午前11時12分。ルカはソラとツバサを引き連れて、人事部へと赴いた。突然現れた美丈夫に部内、特に女性社員たちは色めき立つ。が、そんなことはどうでもいいとばかりに、ルカはまっすぐに応接室へと向かっていった。

部屋に通されると、間も無く、妙齢の男性に迎えられる。

「人事部のダニエルです。お会いできて光栄です、ルカ様」
「こちらこそ。ダニエルさんのお噂はかねがね。
 仕事の話じゃあなければ、ゆっくりコーヒーでもご一緒したいのですけれど…。なにせ、納期の迫った案件なもので」
「ええ、勿論。私で良ければ、何でもお手伝いさせてください」

ルカとダニエルが握手をする。ダニエルの第一印象は、人好きのする笑顔。しかし、隙はない。デキる男、だ。

「では、早速。オレの秘書がアポイントメントの際に示した、例の遺書を確認させてくれますか?」
「はい…、こちらです」

ルカが言うと、ダニエルが懐から、一通の封書を出して、机の上に置いた。表に『人事部宛』と印字されている。ルカがそれを手に取って、おもむろにひっくり返す。封筒はきっちりと口が糊付けされており、ハサミが入った形跡もない。

「封を切られた跡がありませんが…、中身の方は?」
「…すみません。…正直、恐ろしくて…、未だ開けていない状態です…」
「では、オレが一番最初に確認してもよろしいでしょうか?」
「ええ、是非、お願い致します」

ダニエルの許可を得たルカが、左手を後ろに差し出す。と、すぐ後ろに控えていたツバサの手から、ペーパーナイフが渡った。その光景を目にしたダニエルが、虚を突かれたような表情をしたが、それも一瞬だけ。すぐに真顔に戻る。ダニエルの視線は、ルカの手元にある封書に向けられた。秒で役目を終えたペーパーナイフは、すぐさまツバサの方へと手渡されて、彼女の外回り用のポシェットに収まった。……この連携も、他人の目には流れるように見えるが、相当な練習を要した、とだけ言っておく。
ルカが遺書の中身を確認した。意外とすんなりと読み終えたようで、「なるほど…」とルカは独り言ちながら、書面を机の上に置いた。

「感謝の言葉が多数…、特に、ダニエルさん、貴方に宛てたお礼が、たくさん綴られていますね」
「そう、ですね…」

ルカの台詞を聞き、そして机の上の書面の内容を目にしたダニエルが、己の目頭を押さえる。

「亡くなった右藤さんは、何故、人事部に遺書を託したのか…。思い当たる理由はありますか?」
「右藤さんが、ここによく出入りしていたから、だと…。彼女は一般事務と、人事部のパイプ役でしたし…、それに、うちの若い子たちとも、かなり仲が良かったようで…。私のようなうだつの上がらない者にも、よく気を効かせてくれました」
「そうですか。惜しいですね」
「ええ、本当に…、あんなに優しくて、良いひとが…」

ダニエルが涙ぐみながら、遺書である書面を手に取る。

「…どうして、こんなことに、なってしまったのか…。
 人事の者として、悔しい限りです。もっと早くに、気が付いてあげたかった…」

ワープロ文字で打たれた文字列。そこに込められた感謝の言葉を汲み取んでいるのか。ダニエルに涙がぽろりと零れた瞬間、彼の手の中の遺書が、くしゃ、と音を立てて、微かに曲がった。

「その遺書は、調査の為の、大切な証拠品になります。一旦、我々にお預けください。
 遺書というのは、書いた本人が遺された者たちへ発する、大切な声です」

ルカがそう言いながら、ダニエルを見つめた。
高等幹部の深い青色の瞳は、真摯な光を湛えて、人事部の責任者を射抜く。

「勿論、協力は惜しみません。この遺書が調査の役に立つというのならば、喜んでお渡ししましょう。
 ルカ様、右藤さんの無念を晴らしてください…。…何卒、よろしくお願い申し上げます…!」

ダニエルが立ち上がり、ルカに向かって、腰を折った。


遺書を回収して、ダニエルに話を聞いたら、後は人事部を去るだけだ。昼休憩を挟んだら、次は一般事務に行く。
ダニエルに再度挨拶を済ませているルカの傍にツバサをつけ、ソラが今後の予定を部署の外で確認していると。誰かが近づいてくるのが見えた。視線を上げる。女性社員だ。瞬時に、目が合った。ということは、女性社員の方が先にソラに視線を向けていたことと同意だ。大方、ソラの美貌に釘付けになっていたのだろうが、そんなことは彼にとってはあずかり知らずで、どうでもいいこと。通行の邪魔にならないようにと、気持ち程度、廊下の端に寄った。すれ違いざまに女性社員からの熱っぽい視線を感じつつも、それをガン無視して、ソラはタブレット端末の操作に注力する。と。女性と入れ替わりに、ルカとツバサが出てくるのが分かった。声をかけようと、端末から目線をずらすと。
女性社員が、ツバサとぶつかったのが見えた。ソラに見惚れるあまり、前方から来るふたりに気が付かなかったのだろう。
よろけたツバサはルカが肩を抱いて瞬時に支えたことで事なきを得たが、女性社員の方はフラついた弾みで壁に寄りかかる羽目になった。その手からファイルやペンケースが零れ落ち、床に散乱する。腑抜けなやつめ…と、ソラは思わず胸中で呟きながら、3人に近寄った。その一瞬だけ、壁に手をついたままの女性が、ツバサのことを憎らし気に見つめたのを、ソラは見逃さない。

「お怪我はありませんか?うちの事務員が、失礼を」

ソラがそう言いながら、落ちたファイルのひとつを拾い上げて、女性社員に手渡す。ソラに声を掛けて貰えたことで、瞬時に“オンナ”の顔に切り替わった女性が、猫撫で声で「平気ですぅ」と返答してきた。若干の寒気を覚えながらも、ソラはペンケースも拾って渡した。すると。

「SSDも落としたみたいだよ~」

ルカの声に、女性社員がハッとしたようにそちらに振り向く。ルカの黒革の手には、ROG. COMPANYのロゴマークと一緒に、『社外秘』のシールが貼られた、SSDが握られている。

「データは大事に扱ってね?大切な社内情報だよ?」
「申し訳ございません!以後、気を付けます…!」

ソラにデレデレしていた時とは打って変わって。表情を凍り付かせる、女性社員。彼女はそのまま、わたわたと落とした物を拾い上げて、「失礼いたしました…!」と会釈して、ささっと人事部の扉を潜って行った。

「あの子がぶつかった相手は、アリスちゃんなんだケドな~?
 キミに対して「ぶつかって、ごめんなさい」の一言が、結局無かったね~…」

よしよし~、いたいのいたいのとんでけ~、と言いながら、ルカはツバサの頭をぽんぽんと優しく撫でた。ツバサはといえば、ぶつかられたこと自体は特段気にしていない風で。しかし、ルカからのなでなでの意味を飲み込もうとしている様子だった。


*****


午後13時45分。一般事務。このエリアは広く、そして膨大な人員がいる。部署と区切らず、「一般事務」と称して、本社の総合事務のほぼ総てを担っているからだ。故に、一般事務エリアは、仕事内容に限らず、区画で切られている。AからLまでのアルファベット順に、各スペースが配置されているのだ。かつてのツバサは、Cエリアに所属していた。亡くなった右藤さゆりは、Kエリアに席があったようである。エリアが隣同士であっても顔と名前が分からない人物がいるのに、エリアそのものが遠く離れているとなると、もうそれは全くの接点が無いと言っても過言ではない。
そう、ツバサの説明をざっくりと聞いたルカは、「そっかぁ」と納得したように頷くだけだった。右藤さゆりが遺書を送ったのは、所属していたKエリアだと言う。話を聞きに行く為に、Kエリアを目指していた3人だった、が…。
ルカとソラに見惚れる者以外、皆、ツバサに対して、侮蔑的な目線を寄越している。これ見よがしに、ひそひそと話す者たちまでいれば、さすがにソラがひと睨みする。睨まれた者たちは、ソラの冷たい翡翠の瞳に反抗することなどは出来ず、そそくさと自分たちの持ち場に戻って行った。

Kエリア。
ルカたちが顔を見せれば、奥からエリア長が、ささっと現れた。「奥へどうぞ」と三人を促す。
奥のミーティングルームへと通されると、早速とばかりに、エリア長が口火を切った。

「お待ちしておりました、ルカ様。Kエリアのリーダーをしております、水石(みずいし)です」
「はじめまして、Room ELのルカです」
「こちらの件ですよね?ご覧ください」

挨拶もそこそこに水石は、机の上に置かれた封書を、ルカに差し出した。表面にはボールペンで『Kエリア皆々様宛』と書かれている。封は切られていた。ルカが中身を検める。

「……、ここに書かれていることは、真実だと思いますか?」
「それについては、現在、エリア内で聞き取り調査を行っている最中です」

ルカが見たのは、Kエリアで右藤が受けていたらしき、ハラスメントの数々を告発する文章。ルカが内容の事を水石に問えば、彼は額の汗を拭きながら、簡潔に答えただけ。どこか事務的な色合いが垣間見える。

「聞き取り調査に、オレたちも加わっても?」

遺書をソラに手渡しながら、ルカが水石に言った。聞き取り調査とやらに参加できれば、現場の声が直接聞けると思ったのだ。しかし。

「ルカ様たちがいらっしゃったと知れたら、皆さんが萎縮してしまいますよ」

水石がへこへこと頭を下げながら、ルカに答えた。遠からず、「放っておいてくれ」と言われたようなものだ。遺書を丁寧に仕舞ったソラが、睨みを効かせようとする。が。

「確かに。…では、正確な報告書をお待ちしております」

ルカが先に水石へと命じた。ソラの尖りかけた気が、鎮まる。

「ええ、勿論です。かしこまりました」

水石はそう言うと、再びへこへこと頭を下げた。



「ツバサさん、お久しぶりね」

Kエリアを後にしようとした三人に―――、否、正確にはツバサへ声を掛けたきた人物がいた。
化粧の濃い女性だった。名札には『Cエリアリーダー 佐々名木(ささなぎ)』の文字がある。ツバサのかつての直属の上司だ。上にいる立場を逆手に、高圧的な態度で、よくツバサに圧を掛けてきた思い出がある。

「まあ、見違えたわ。ツバサさんったら、随分と立派になって…」

そう言う佐々名木の顔はにこやかだが、その視線はツバサの全身を値踏みするかのように見回している。ソラが間に入ろうとしたが。

「ツバサさんを、少しだけ、お借りしてもよろしいでしょうか?彼女が前任していた業務で、今、引っかかりが出ていて…」
「彼女が良いなら、オレたちは構いませんが」

どうする?とルカがツバサに目配せをした。業務に支障が出ていると言うなら見逃す訳にもいかないと、ツバサは「それでは、少しだけ行ってきます」と答える。

「オレたち、その辺で待ってるね。終わったらメッセージして?」
「はい…」

ルカはそう言いつけると、ソラを伴ってKエリアを出ていった。ツバサはそれを見送ると、佐々名木に向き直る。すると、佐々名木は「こっちへ来てくれる?」と、ツバサを誘導した。その先は…。

…、給湯室だった。

訳が分からずに固まるツバサに対して、佐々名木が意地悪く笑う。

「ちょうど、今日の掃除係が休んじゃったの。ツバサさん、やっておいてくれる?」
「あの、事務の業務で支障があったのでは…?」
「これだって大切な仕事のひとつよ?何言っているの?ほら、さっさとやってちょうだい」

給湯室の掃除を手伝って欲しい、というのなら、分かる。だがしかし、これは明らかに、「手伝い」の範疇を越えている気がした。何より、今のツバサは一般事務ではなく、Room EL所属の事務員だ。

「…、…私は、今は、Room ELの」
「ちょっと!これ以上、口答えしないでくれるッ?!」
「…ッ!!」

ツバサが釈明しようとすると、バン!!と給湯室の壁を殴りながら、佐々名木が金切り声で怒鳴った。びくっ、とツバサは反射的に怯む。全身に冷や汗が噴き出て、頭の中が真っ白になった。

「栄転したからって、生意気になったんじゃないの?あんなイケメンたちに囲まれて、さぞ毎日が薔薇色でしょうねえ?
 まあ、片や『冷徹秘書官』、片や『化け物幹部』と名高い、あの二人組じゃあ、甘いラブロマンスなんて期待も出来ないでしょうけど?」

酷い言い草だ。でも、これが佐々名木の本性。ツバサにパワハラの限りを尽くしてきた、悪行の女上司。…だが、部署が変わった今、どこぞに訴える事も、ツバサはしない。
黙っているツバサの態度をどう捉えたのか。佐々名木はにたりと笑って、雑巾を押し付けようとした。が。

「何の騒ぎだい?」
「…! 常務…!」

オールバックの男性社員が、現れた。常務の廣井(ひろい)だ。齢50を数えるとは思えない若々しい男性で、その甘いマスクからか、女性社員たちからは羨望の眼差しを向けられている。ツバサにとっては、上司であるという点以外、どうでも良かったのだが。

「いいえ、ツバサさんがお見えになったので、給湯室の掃除を手伝って頂けないかと…」
「ああ、それは確かに。ツバサくんが掃除した後の給湯室は、いつも気持ちよく利用できたからね」
「ええ…、まあ…、そうですわねえ…ほほほ…」

廣井に対して、佐々名木はあたふたとし始めた。何とか上辺を繕おうと必死だ。

「僕も手伝おう。ツバサくん、ふたりでちゃちゃっと片付けてしまおうか」
「え、でも、そんな」

廣井の言葉に驚いたのは佐々名木だけではなかった。が、ツバサは黙して、眼前の光景を見守る。

「佐々名木くんは、持ち場にお戻りなさい。君しか出来ない業務が、山のようにあるだろう?」
「……はい。では、よろしくお願いいたします」

佐々名木の手から雑巾を受け取った廣井を見て、彼女は頭を軽く下げ、給湯室を出て行った。…廣井の背中越しに、ツバサへ激情の視線を向けながら…。



ケトルとシンクを洗い、壁と床に消毒スプレーを噴きかけていると、廣井が不意に呟いた。

「いやあ、懐かしいなあ…。こうして水回りの掃除をしていると、新婚時代を思い出すよ」
「そうなのですか…?」

ツバサは廣井の言いたい事がよく分からず、聞き返す。すると、廣井は困ったように笑いながら、続けた。

「当たり前だけども、妻は娘が出来てから、そちらにかかりっきりだったからね…。でも、娘が大学を卒業した今なら、少しくらい構ってくれても…、なんて思ってしまうよ」
「…。奥様も、少し、お疲れなのではないでしょうか…?」
「そうだね…。でも、寂しいのが本音さ。結婚しているのに、妻が相手をしてくれないって言うのは…」
「……。」
「ああ、すまない…!つい、愚痴を…。困るよね。急にこんな話されたら…」
「いいえ、それで常務の胸のつかえが取れるなら…」

廣井の苦笑いを、ツバサは受け止めながら、掃除道具を仕舞い始めた。



綺麗になった給湯室を出て、廣井に挨拶をした後。ツバサはメッセージを送信した。ルカとソラは、カフェテリアスペースにいるらしく、そこへと向かう。
到着すると、コーヒーカップを傾けるルカの傍に、ソラが立っていた。ツバサの姿を見とめた彼は、ルカに一声かけてから、彼女の方へと歩いてくる。

「随分と時間を食っていたな」
「すみません…」
「いいや、謝る必要はない。何事も無かったのなら、何よりだ」

出迎えてくれたソラに頭を下げるも、彼は必要なしと判断した。そこへ、会計を済ませたルカがやってきた。彼はソラに領収書を手渡し、ツバサへ笑顔を向ける。

「美味しそうなイングリッシュマフィンのサンドを買ったから、とりあえずRoom ELへ帰って、皆でお茶しよっか♪」

その手に持った紙袋を掲げながら、ルカはそう言った。




to be continued...
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