第三章 『Perfect BLACK SWAN』

セイラは、神越高校に入るまでは、普通の中学生だった。より正確に言うなら、神越高校に入学した同時に入部した、サッカー部関連で起こった揉め事を発端に、セイラを取り巻く環境が、ガラリと変わった。
親善試合をした相手の高校のベンチメンバーが、イチャモンをつけて、神越高校側のマネージャーに絡んでいたところを、レギュラーであり、当時、高校1年生だったセイラが発見した。ただの負け惜しみにすぎない、と、早く帰って練習した方がいい、とセイラが正面から正論をぶつけると。相手が逆上して、手を上げてきた。咄嗟の判断で、セイラは相手を殴り飛ばした。当たりどころが悪かった、と表現するべきか。要するに、格闘技的に、入った、とでもいうべきか。相手は肋骨を折る大怪我を負ってしまった。セイラが負わせた。
相手は「セイラが悪い」の一点張り。絡まれていた神越のマネージャーは、学校からの処分や、相手からの仕返しを怖がり、だんまりを決め込んだ。―――…セイラは、逃げなかった。自分の振るった拳が、相手の怪我を誘発したことを、正直に話した。その結果。

――――正直者は、バカを見た。

神越高校中に、「セイラが喧嘩をした」、「相手を入院させるほどの大怪我を負わせた」という噂が広まり。それは留まるどころか、「セイラは喧嘩屋」、「セイラは裏で闇社会と繋がっている」等という、根も葉も無い噂が、尾ひれも背びれもくっつけて。学区内に浸透した。

サッカー部のレギュラーは外された。籍は残っていたが、練習に出ても、ピッチにすら入れて貰えない。サッカー部からは自然と足が遠のき、放課後は街をブラつく時間が増えた。自宅に帰ると、厳格な両親が、自分を忌み嫌った眼で見てくるから。
次第に、帰宅する時間は遅くなっていって。比例するかのように、街のゴロツキや不良学生に、喧嘩をふっかけられるようになった。―――…セイラは、やはり逃げなかった。拳を振るってくる相手がいるならば、自分も振るうしかない。だが、セイラは決して、己を正当化したい訳ではなかった。セイラは自分に喧嘩の才能があることを、認めていたから。とはいえ、自ら望んで、喜んで、喧嘩をしたことは、一度も無かった。
それでも、喧嘩の世界に没入する絵面は変えられない。周囲の視線はどんどん冷たくなり、終いには、誰にも見向きもされなくなった。
大学への進学は、両親からの学費の援助を断られてしまい、絶望的になった。ならば就職して自立しようと思っても、街に流れたセイラの悪評が、世間からの彼女への風当たりを、より強くしていた。何処に履歴書を持ち込もうとしても、門前払い。例え、面接まで漕ぎ着けたとしても。面接官は口を揃えて、同じことを言う。「きみは喧嘩屋の黒城セイラだろう?」、「そんな悪い噂がある人間を、我が社で雇うことはできない」と。
門前払い、面接落ちは、合計50社まで数えた。そこから先は、もう覚えていない。心身が限界だった。この頃はもう、部活も、勉強も、喧嘩も、何もしていなかった。家に帰れば、一応、食事と風呂は用意されていた。

そして。2年生に進級した春先。セイラは、所謂、夜の街の隅っこに立っていた。学校帰りの、制服のままだった。このまま、進学も就職も出来ず、家にも居場所がないのならば。もういっそ、此処で身を売ってしまおう、と。適当な男に声をかければ、現役女子高生というブランドで引っかかってくれるはず。と思っていたときだった。

「お嬢さん、今、時間はあるか?」

全くの見当違いの死角から、声を掛けられた。喧嘩をしていたときの癖で、つい、構えてしまう。が、そこに立っていたのは、喧嘩相手になりそうなゴロツキでも、ましてや夜の街で遊び惚けているような軽薄な人物でもなかった。上品なスーツ姿の、男前。警察や公的機関の人間か?という疑念は浮かんでこない。そういう気配を感じなかった。
セイラが黙っていると、男は続けた。

「突然、声を掛けてすまない。俺はこういう者だ」

差し出された名刺には『ROG. COMPANY 特殊対応室 ソラ』の印字がされていた。セイラでもROG. COMPANYの名前くらいは知っている。『プリンス・テトラ』は、幼い頃に見ていた記憶もあった。

「ここ2ヶ月ほど、俺の個人の捜査範囲で、きみの身辺調査をさせて貰っていた。仕事上とはいえ、無許可でうら若き女性の周囲をうろつくような真似をしたことを、まずはお詫び申し上げる。
 調査の結果、行く宛てを探している様子と見受けた。
 …本当は、もう少し季節が暖かくなってから、声を掛けたかったんだが…。まさか、このタイミングで、繁華街で身を売ろうとするとは思わなかったのでな…」

ソラはそう言いながら、懐からスマートフォンを取り出して、画面をセイラに見せる。そこには『フラワリング・プロジェクト』の文字と、その概要が。

「弊社が協賛している、更生プログラムの一環だ。
 今までは、主に成人の前科持ちや、模範囚などに適応されるものだったのが…、今年から対象が、未成年の素行不良者にも広がった。
 喧嘩屋として名を馳せ、行く宛てを失い、彷徨い、此処で泥沼に身を墜とすくらいなら、…一度は、挑戦してみないか?
 
 ――――本当にツラいなら、逃げてもいいんだ」


―――『逃げてもいい』

その言葉を聞いた瞬間。セイラの目から、涙が零れた。
セイラはこのとき、逃げなかった自分を恥じた訳ではない。ただただ、こんなにも落ちこぼれるまで、自分を蔑ろにした己自身を、心から恥じた。

それから。2週間後。
セイラは、KALASの雑用係として、アルバイト採用されることが決定した。それと同時に、ソラが神越高校に赴き、校長や教職員、生徒会を混ぜて、学校内で蔓延るセイラの悪評と誤解を解くための話し合いの場を設けた。
そこでセイラは、初めて知る。ソラが、神越高校の卒業生であること。そして彼が、『2000年に1度の逸材』とまで称賛され、後続の自分たちにまで、その逸話が語り継がれているほどの、『伝説の存在』であることを――――…。


*****


エルイーネは、大学卒の研究者だった。しかし、新卒で入ったシンクタンクはブラック体質で、年功序列から来るハラスメントや、陰湿なイジメが横行していた。幼稚園の卒園アルバムに書いた、「たくさんのひとのやくにたつかがくしゃになる!」という夢は、大人になっていくにつれて、みるみるうちに色褪せていった。

仕事に意義を見出せず、心も身体も擦り減って行く日々で、唯一の楽しみは。推しの作品に触れて、その妄想に耽ることだった。エルイーネは『ヒーロー』に憧れていた。幼い頃の夢も、影響されていたのだろう。誰かの役に立ち、誰からも称賛されて尊敬される、ヒーローになりたかった。成功の物語を紡ぐ主人公になりたいと、願っていた。
辛い現実も、日々の激務もこなしていって。そうして、代わり映えのしない毎日であっても、コツコツと積み上げて行けば。いつか報われると、陽の目を見る日が来ると。そう信じていた。報われたい、褒められたい、認められたい、成功したい。自分の抱く夢を手繰り寄せる日が、いつかやって来るのだ、と。そう、祈っていた。だが。

――――祈りは、届かなかった。

エルイーネが勤めていたシンクタンクの、彼女とは別のグループが、報告書に記載する数値の改ざんを行っていた。しかも、それを黙認して貰うために、所長に多額の賄賂を渡していた。不正は内部から密告され、たちまち、メディアに取り沙汰にされた。シンクタンクが全面停止するのに、時間は然程掛からず。また、テレビクルーや、週刊誌の記者たちの執拗な追っかけ取材に、心を疲弊しきったスタッフたちは、次々に本土の病院へ送られていく羽目になった。…エルイーネも、そのひとりとなった。

窓に鉄格子が嵌められた病室に閉じ込められて。逃亡や暴走防止のために、両手両足をバンドで拘束されたエルイーネは。壊れかけ寸前の心の中で、何度も自問自答を繰り返す。…――――「私の何がいけなかったの?」と。

毎日、仕事を頑張ったのに。誰よりも苦労してきたのに。小さな幸せを願っていただけなのに。

此処まで積み上げてきたはずの努力は、たった数滴の悪の因子によって、いとも簡単に崩されてしまった。
許さない、許さない、許さない―――…。努力した私を認めてくれない人間たちが、不平等な社会が、愚かな世の中そのものが。全部、全部、悪い。私は悪くない――――……。

否応が無く突き付けられる心の闇が広がり切った、エルイーネ病室に。『彼』は、ふらり、と、やってきた。

「ねえ、キミってさ。先の汚職事件で取り潰された、シンクタンクの研究者だった子だよね?」

それは、唐突に、エルイーネの病みの日々に割って入って来る。青色の彗星の如し。突然の煌めき。

「行方を探したら、此処にいるって聞いてさー。オレ、普段はヒルカリオからは出ちゃいけないんだケド。
 どうしても、キミの現状と、意思を知りたくて。無理を言って、此処まで連れてきて貰ったんだ。…ソラには悪いことしちゃったかなあって、ちょっと罪悪感」

精神を重めに病んでいる患者を目の前にしているとは思えぬほど、彼は―――ルカは、爽やかに笑ってみせた。

「新設される、オレの整備施設で働いてみない?もし、肌に合わなかったら、すぐに辞めてもいいよ?その代わり、二度とヒルカリオには入れなくなるケドね。
 でもさ、ツラいことから逃げるのは、全然悪いことじゃないんだから。そういう選択肢を持つのって、大事だと思わない?」


――――『逃げるのは、全然悪いことじゃない』

ルカの、その言葉を聞いたとき。エルイーネの瞳から、ぽろり、と涙が零れた。
そうだ。逃げてもいいんだ。ツラかったら、逃げればいいんだ。
それに逆に考えると。既に逃げる道が用意されているのなら。とりあえず、全力で新しい日々に立ち向かっていけばいいんだ。失敗したら、逃げればいい。逃げてもいい。そういう選択肢だって、大事なんだ。

報われたいと、一心に願ったエルイーネは。その日、ルカの目の前で、KALASの雇用契約書にサインをした。


*****


ソラは、生まれついての『天才』だった。何をしても、何をさせられても、初見で上々の成果を残して。更にそれを極めると、誰よりも一番上の成績を叩き出す。
生まれは一般家庭であったが故、鳶が鷹を生んだ、と世間では言われた。しかし、当のソラは、周りの意見など、至極どうでも良かった。
何をやっても、周囲の大人は、「天才だ」としか言ってくれない。違う顔と服装の人間のはずなのに、同じことしか言わない。
逆に同級生や、その上下の子たちは、ソラを煙たがっていた。どれだけ自分たちが頑張ったとしても、結局、ソラが全ての大人たちの評価を攫って行くから。

ソラは『公平』が欲しかった。自分が他人より才能がある自覚は大いにある。だからこそ、手放しと脊髄反射と脳死で褒めるだけではなく。欠点を見つけて欲しかった。指摘が欲しかった。改善点を挙げて欲しかった。
100点満点の花丸の隅に、赤色のペンで教師から書かれるコメントは、いつも同じ内容。「たいへんよくできました!」。
同級生の返ってくるテストや、連絡帳に書いて貰っている、日替わりのコメントが、羨ましかった。たまに捺されている、励ましの動物のスタンプは、ソラのテストや連絡帳には、一切無かった。ソラはいつも同じことしか書かれない。「たいへんよくできました!」。

褒められることは、認められること。認められることは、当たり前のこと。しかし、その当たり前に、ソラは胡坐を掻きたくなかった。
天才だから、と。大人から脳死で褒められる現状を、ソラは心の隅で忌んでいた。『天才』という分厚いフィルターに、ソラという自分自身が、掻き消されている。そんな気持ちだった。
だからこそ、ソラは『公平』を欲しがった。天才という自分を抜きにして、まっさらな状態で、己を正当に評価して欲しかった。「ソラは天才だから」を言い訳にして、全肯定してしまう大人の異口同音も。同級生たちの妬みの視線も。投げ捨ててしまいたいと、思っていた。しかし。

――――天才は、現状から逃れられなかった。

故意に手を抜くことは、失礼にあたる。だから、いつも通りにタスクをこなす。結果、ソラは天才的な結果を残す。そして、周囲はそれを脳死で評価する。
最早、それは、悪意のない、悪循環だった。されとて、ソラは日常を脱しようとして、おかしな真似は起こさなかった。それは人道に反する行為だ、それは人間として侵してはならない領域だ、と。ソラは誰よりも天才だったが故に、誰よりも冷静で、真面目だった。だからこそ、己が天才がための不公平と悪循環への脱出経路が、見つからなかった。

何をしても、上級の結果と、脳死の誉め言葉が付いてくる毎日。それが、他人から見ると羨望と薔薇色の毎日に見えるらしい。しかし、ソラにとっては、息が詰まる日々でしかなかった。

正当に評価されたい。自分では見つけられない欠点を、誰かに指摘して貰いたい。公平が欲しい。

「キミ、天才なんだって?本当?ちょっとオレに証明してみせてくれる?」

誰にも分って貰えない苦悩のソラの日常に、ごく自然と、しかし、かなり不自然に。ルカは、割り込んできた。
ソラを見つめる深青の瞳は、「前情報はともかく、自分の眼で見定める」、と雄弁に語っている。

ルカが連れてきてくれた、ROG. COMPANYの北方支店の一角で。ソラの諸々の能力をはかるテストが行われた。計算や英文のテスト、事務タスク処理の正確さと速度の計測、関数計算ソフトのオペレーション試験。簡単な体力測定、等々。

どれもこれも、やはりソラは上級の結果だった。「此処までの逸材は見たことがない」、「是非、弊社に欲しい」。ルカ以外の大人たちは、こぞって口にした。
ああ、また同じことを言われている。と、思っていたのに。結果を見たルカが口にしたコメントは、こうだった。

「へえ。案外、平凡なんだね、キミって」

耳を疑った。下されたことのない評価だった。「天才」と言われ続けたソラが、ルカにしてみれば、「平凡」だと言う。ソラは、その評価の理由を問うた。ルカは笑顔のまま、答える。

「天才だからって、上位の結果ばかり残しちゃってさ。オレが言うと特大ブーメランだケド…、すっごく機械的だよ、キミ。
 周囲から天才という型に閉じ込められちゃって、そのまま、キミ自身も天才として振る舞うことに慣れちゃって。でもきっと、それがキミの『今の個性』なんだろうね。
 天才が故に、どう振る舞えばいいのか、どういう結果を残せばいいのか、全部、分かるんだよね。オレも、その辺は理解出来るよ〜。
 オレもさ、自分がどう振る舞うことで、それが相手にどんな影響を与えるか、を常に考えるように、プログラムされちゃってるんだもんね〜。仕方ないよね〜。だって、オレは正真正銘の、機械的生命体だからさ。
 
―――でもさ、キミは、そうじゃないよね?だってキミは、れっきとした人間なんだからさ」

目から鱗の、解釈。だが、胸にすとんと落ちてくる、納得の言葉の嵐でもあった。ソラが呆然とルカを見上げていると、彼は深青の瞳を細めて、羽織っていたジャケットの懐から、銀色の何かを取り出して、ソラに手渡す。

「これ、なーんだ?」

ルカが子ども向けのクイズでも出すかのように問うてくる。――――バタフライナイフだ。軽いノリで扱って良いものではない。ざわめく周囲なんぞ知らぬとばかりに、ルカはソラに言う。

「キミが、今ここで、それをどう使うのか。オレ、見てみたいな」

愉快そうに言葉を紡ぐルカの声を上空に、ソラは手元のバタフライナイフを、じっ、と見つめた。――――次の瞬間。右手でバタフライナイフを開き、露出した刃をルカに向かって突き出した。
誰もが悲鳴を上げることしか出来ない。否、正確には、ルカとソラ以外が。

ソラが突き出したナイフの刃は、ルカの胸元近くで、彼の黒革の手袋の左手に、阻まれていた。ピクリとも動けない。ソラはすぐに諦めた。ナイフの柄から手を離す。そのまま、ルカは握っていた刃の方から回転させて、ナイフをハンドルに収めた。…普通の人間が出来る行為ではない。当たり前だ。ルカは機械なのだから。

「ほらね?キミだって、ちゃんと『自分でも出来る』んだって、分かったでしょ?」

ルカが楽しそうに笑いながら、そう言った。
どよめく周囲の有象無象には目もくれず。ルカとソラは視線を交叉させた。心の底から求めていたモノが、今まさに、眼の前にいる。

「キミの才能を潰さない、且つ、型に嵌まらないことが大前提の仕事が、オレの下では待ってるよ。
 ねえ、挑戦してみない?オレは機械だから、評価は常に、そして、絶対的に、公平だよ?」

これまでの人生の中で一番際立つ魅惑の言葉と共に、差し出されたバタフライナイフを。ソラはしかと受け取ったのだった。


*****


「ルカ?大丈夫…?」
「ん、え?…あれ、何処まで話したっけ?
 …ごめんね、アリスちゃん。オレ、一瞬だけボンヤリしてたかも」
「…うん。急に無反応になったから…、てっきり、まだ不具合があるのかなって…」
「ううん、ヘーキだよ。…って言い切っちゃいたいケド。
 まあ、せっかくKALASに来てるんだし、後でまた診て貰おうかなあ」

ツバサの控え室で、ルカと彼女が、そんなやり取りをしている。ふたりは、コーヒーを飲みながら、プリンス・テトラの最新話の感想を述べ合っていただけなのだが。不意に、ルカの反応が悪くなったのを、ツバサは少し不安に思ったのだ。
此処はルカ専用の整備施設。先週の土曜日から、彼が此処に収容されている理由は、先のオーバーミラーで起こった火事に起因する、と、ツバサは聞いた。
火事で起こった爆発の影響で飛んできた鉄骨を、ルカが拳で粉砕した。その際、手を負傷していたらしい。しかし、ルカは挙動に問題がないと自己判断し、放置していた結果。先週末になって、急に左手が動かなくなったとか。要するに、故障したのだ。
「まあ、何となる」とのんびり構えて、ルカがエルイーネに電話すると。彼女はこの世の終わりかと思うほど心配してくれて、日が昇った直後ほどの時間帯だったにも関わらず、すぐにKALASを立ち上げて。ルカを搬送し、修理した。……そして、現在に至る。
ちなみに、ルカの正体を、ツバサとナオトに説明しようという流れは。土曜日の昼に、エルイーネから一報を貰ったソラが、良い機会だ、と自ら提案したものらしい。

気を取り直したルカとツバサが、今度はツバサの私用のタブレット端末を使って、プリンス・テトラの見逃し配信を一緒に見よう、となっている。その隣では。

「セイラ、すまない。俺の菓子は下げてくれないか。それか、お前が食べてくれ」
「あ。そこは気合いでオナシャス」
「気合いで苦手が克服できるほど、俺も器用ではないんだが」
「いけるいける、ソラ先輩ならいけるっすよ。がんばえー、そあせんぴゃーい」
「その応援コールが許されるのはヒーローショーの場であって、此処ではない」

掃除中のセイラと、自分の仕事を片付けているソラが、成立しているかどうか微妙なラインの会話を繰り広げていた。
ナオトはその面子を微笑みながら眺めつつ、自分のコーヒーを飲んでいる。推しの貴重な日常風景を前にしては、手元に広げている論文集を読むことにも集中できまい。

すると。ツバサのお手拭き用のウェットティッシュが汚れていることに気が付いたセイラが、備品入れから新品の物を取り出した。

「ねえさま。お手拭き、新しいの、使ってください。はい、これっす」
「ありがとう…。セイラさんって、視野が広いのね」
「どーもっす。まあ、この仕事も、1年になるんでー」

そう言った後。セイラは、ツバサの使用済みのウェットティッシュを回収する。歓談と仕事と観察に没頭する、Room ELのメンバーに気取られないように、セイラはさり気なく身体の角度を変えて、回収したウェットティッシュを、各所のゴミを集めている産業廃棄物用の袋ではなく。彼女のエプロンのポケットから出てきた、新品のキッチン用ミニサイズのポリ袋に入れた。そしてそのまま、エプロンのポケットに押し込む。

「セイラさん、ちょっとよろしいでしょうか」

ナオトの呼ぶ声で、セイラは振り返った。その顔は、いつもの無気力な無表情。

「なんすか?先生?」
「脚の包帯がズレていらっしゃいますよ。僕が巻き直して差し上げますから、どうぞこちらへ」
「え、いいっすよ。別にこれくらい…」
「いいえ。傷口から細菌が入り込みでもしたら、化膿してしまう可能性だってありますからね。さあ、どうぞ。おかけください」
「…はーい」


*****


エルイーネが自分のデスクで、イヤフォンをしている。接続先は、自分のスマートフォン。聞いているのは、――――ツバサの控え室に仕掛けさせた盗聴器が拾っていた、先ほどまでの会話の、全て。
しかし、盗聴で拾っていた音は、ガサガサ、ザーザー、というノイズが混じった後。唐突に、プツンッ、と途切れた。故障だろうか。それとも、電波が悪いのだろうか。
急ごしらえで作ったものなうえ、設置もセイラに行わせたものだ。設置と言っても、サボテンの鉢植えに機械を仕込んだ物なので、鉢植えをその辺に置くだけだ。勿論、セイラには盗聴器が仕込んであることなど、知らせていない。
急ピッチで作ったものなので、仕方がない。だが、あの様子ならば…。エルイーネが企てていることに、Room ELのメンバーたちは、なにひとつ気が付いていないだろう。
そのうえ、いま聞いていた会話の内容から察するに。セイラは無事に、ツバサのDNAサンプルを握ったに違いない。彼女へ投資した10万は、無駄にならなかった。

エルイーネは、独り、ほくそ笑んだ。



to be continued...
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