第一章 ALICE in New World

朝起きて。まずスマートフォンを確認したツバサが目にしたメッセージは、ソラからの物だった。

『本日の出勤は、ゲート8より行うように。間違っても、いつもみたいに正面のホールから入らないこと。
 ゲート8からに入って、右手へ行けば、25階まで直通で行ける特別エレベーターが設置されている。普段は無理だが、今日だけはツバサの社員証でも動かせるように設定してあるので、それで出勤するように。
 エレベーターから降りたら、すぐ左手にある社員用のドアを開けると、Room ELに続く、いつもの通路に出ることが出来る。
 すまないが、これらの道順は、社内の機密情報の一端にあたるので、個人所有の端末に地図を添付することは出来ない。もし迷子になったら、すぐに俺かルカに連絡してくれ。
 よろしくお願いします。』

はて?とツバサは思った。
ゲート8、と言えば。裏手も裏手の、最早、搬入業者しか利用しないのでは?レベルの、裏手門である。しかし、そこに普段はエレベーターを2段階は踏まないと行けない25階まで、直通で向かえるエレベーターもあるらしい。今日だけ、ツバサの社員証で動かせるようにしてある。ただし普段は無理。ということは、その通りなのだろう。
何にせよ。確認したことは知らせないといけないので、『かしこまりました。』の一文を打って、ツバサはスマートフォンを手放し、朝ごはんのために台所へと向かった。


*****


いつもより、というか、そもそもいつもは正面ホールから出社しているため。ツバサは当然の如く、大回りをして、ソラに指定されたゲート8を潜った。
搬入されて開封を待っている荷物が山ほど積まれているが、適度に開いている合間をすり抜けて、右側を目指す。すると。
Room ELに配属されて20日程を数える、今日この頃。もうすっかり見慣れたデザインのエレベーターが、唐突に現れた。ツバサが自身のスキャナーに社員証を翳した瞬間、扉が開く。乗り込んで、25階を押した。音楽を聞いていた無線イヤフォンを外して、電源を切ってから、仕舞う。
間もなく。エレベーターは25階で止まり、扉を開けた。
降りてすぐ左を向くと、『STAFF ONLY』というプレートが張り付けてある、金属製のドアが見えた。ノブを回して、開ける。と。メッセージの内容通り、いつもの通路の途中に出た。ドアを閉めると、カチャリ、という小さな音が聞こえ、あれ?とツバサは思った。施錠された?オートロックで?ただの社員用通路なのに?
…考え始めたところで、ツバサはハッと我に返る。まごまごしてはいられない。自分は出勤途中なのだ、と。
通路を歩き、いつもの打刻機付きの出入り口が見える。社員証を翳した。


――『おはようございます。只今の時刻、午前8時33分でございます。』


意外と早く到着出来た。ふう、と一息吐いて、ツバサはRoom ELに入る。

「あ!おはよう、アリスちゃん」

ハツラツとした、しかし艶のある低音。ルカだった。応接セットのソファーに座り、ティーカップを傾けている。机に立てかけているスマートフォンから、何やら音が漏れていた。

「おはよう」

次いで、給湯室からマグカップを持って出てきたソラが、挨拶を寄越す。ツバサは「おはようございます」と返してから、自分のロッカーの中に、コートとマフラーを脱いで収めた。
…打刻機が故障していなければ、ツバサは午前8時33分にここに到着しているはずである。なのに。一番の上司は既にティーカップを傾けながら寛いでおり、一方、その秘書官は給湯室から自分のコーヒーを持って、ゆるりと出てきた。

(おふたりとも、一体、何時に来たの…?)

ルカとソラが「下っ端は上司より早く来い」などという時代錯誤(むしろ支離滅裂)な台詞を言うようなふたりでは無いことは、とうに分かっている。彼らはツバサの一般事務時代の上司・先輩・果てはその他同僚たちに比べて、遥かに先進的で、且つ、普通に常識的な会社員であった。

例えば。
ツバサが分からないことを質問した時は、「何でそんなことも分からないのか?」と叱責することなく、ソラは涼しい顔で答えてくれるし、むしろ「現時点で、他に分からない所はあるか?」と聞き返してくれる。ルカに至っては、「ちゃんと質問が出来て偉いね~♪何でも聞いて~?」とにこにこしてくれる。
ツバサのパソコンがフリーズしたりエラーを吐いて動かなくなった際にヘルプを出すと、「そんなもの自分でどうにかしろ」や「お前が変な所を触ったんじゃないのか?」等と言われて突き放すことなく、ソラは手慣れた様子でキーボード操作したり、時にはプログラム言語を叩いて復帰させてくれる。ルカは「ある程度の権力って便利だよねぇ」とか言いながら、彼が正体不明のUSBメモリーを差すと、それが3分ほどでパソコンを治してくれる。
ツバサが計算ミスや誤字脱字の書面を、間違えて印刷してしまい、それを謝罪すると、これ見よがしに大きな溜め息を吐いたり、「経費泥棒」と揶揄してくることなく、ソラは「次からは気を付けるように。あと、その紙は4分割しておいてくれ。裏紙を計算用紙にする」とすんなり謝罪を受け入れた直後に、的確な指示(新しい仕事)をくれる。ルカは「報告と謝罪が出来るなんて、アリスちゃんって優秀だね~!あ、それ、計算用紙になったの?オレにも貰える?」と、失敗を責めるどころか、むしろ半分くらい褒めてくれる。

そんなことを、つらつらと思い出しながら。ツバサは自分の分の飲み物も淹れようと、併設されている給湯室へと向かう。ケルトを持ち上げると、まだ温かさを感じる持ち手と、中身が入ってる重量感がした。目盛りを見れば、ちょうどマグカップ一杯分ほど、お湯が残っている。ソラが多めに沸かしておいてくれたのだろうか。何にせよ、すぐにホットドリンクにありつけるのは有難い。あとでお礼を言っておこう…と思いながら、ツバサは自分の名前が書いてあるスティックタイプのフレーバーティーの箱に手を伸ばした。
数あるフレーバーの中から、ツバサは『マロン』を手に取り、封を切ってカップに入れて。すぐにお湯を注ぐ。マロン、すなわち、栗の甘い香りが給湯室に広がるのを感じながら、彼女は箱を棚に仕舞い、マグカップを持って、給湯室を出た。
何やらやり取りをしているルカとソラを横目に、自分のデスクへ着くと。おもむろに、ソラがこちらにやってきたのが分かった。
顔を上げて、視線を合わせれば。人間味の薄い光の宿った、翡翠の双眸とかち合う。この冷たい瞳にも、少しだけ慣れてきた。

「今朝はきちんと辿り着けたようで、何よりだ」
「はい…。ソラさんが、的確な道順を教えてくださったので…、そのおかげです」

感情の起伏が少ない台詞だったが、ソラがツバサを褒めているのは分かる。
地図を添付できない、と、メッセージには書いてあったが、代わりにソラは道順を的確に示してくれていた。

「そうか。道中、何か変わったことや、気が付いたことはあったか?」
「いいえ、特にありません」

ゲート8からの出勤ルートを覚えたということ以外は、ツバサにとって特段珍しい光景は、見られなかったと思う。素直に答える彼女を前に、ソラは白手袋を嵌めた手で、持っていたタブレット端末を弄り始めた。こういうちょっとした聞き取りによる情報を纏めるのも、ソラの仕事のひとつ。だということは、ルカから聞いている。ルカ曰く、「職場環境のアップデートをするには、まずデータを集めないと、ね」…らしい。そこまで想起して、あ、とツバサは思い立った。

「あの、ひとつ、質問があります」

この「上司に質問する」という行為も、大分慣れてきたものである。ツバサの言葉を聞いたソラが、端末から顔を上げて、口を開いた。

「ああ、そうだろうな。今から、それに関して、ルカから説明がある」
「え…」

お見通し、だったのだろうか。それとも…

「まあ、普通は思っちゃうよねぇ?『どうして今日、いきなり出勤ルートが変わったのか?』なーんて」

そう言うルカの声が聞こえた。視線を寄越すと、空になったらしいティーカップをソーサーの上に置いて、立ち上がる。ルカは青色のロングポニーテールを揺らしながら、その長い脚で己のデスクへと向かって、着席。そして、パソコンのキーボードを2回ほど軽く叩いた。すると。

ツバサのパソコンのモニターに、『EL's share』というロゴが唐突に浮かび上がる。ツバサが声をあげることもなくビックリしていると、冷静な声音が割り込んできた。

「Room ELに常駐しているパソコン、社内用端末全てに入っている、今室専用のデータシェアアプリケーションだ。後で詳しい使い方を教える。
 …今は、ルカから送られてきたその情報を、見てくれ」

ソラの端的な説明を聞きながら、ツバサは画面を注視する。すると、再生ボタンが表示された。動画のようだ。マウスでクリックして、スタートさせる。
画面の中央に、『代表取締役社長』のプレートが鎮座する大きな机に座った、貫禄のある男性が映った。ROG. COMPANYの本社に勤める者なら、誰でも知っている。プレートの通り、『社長』である。
そのすぐ傍には、流れるワインレッドの髪と、右目の眼帯が印象的な、何とも別嬪な女性が、静かな表情で立っていた。

社長がカメラを真っ直ぐに見つめながら、喋り始める。

『ルカ三級高等幹部殿。おはようございます。社長の前岩田ジョウ(まえいわだ じょう)です。
 昨夜未明、我が社の社員のひとりが、自宅の敷地内で亡くなっている所を発見されました。亡くなった社員の部屋には遺書が複数枚、残されていて、そのうちの一通は、私宛てでございました。
 私宛てのものを拝読した所、「会社を恨んでいる」、「絶対に許せない」という趣旨の文章がありました』

「…!?」

社長の言葉に、ツバサは息を呑んだ。画面の中の前岩田は、当たり前だが、止まることなく話し続ける。
 
『ルカ三級高等幹部、並びに、Room ELの全サポートに命じます。
 速やかに、社員の亡くなった原因、背景事情、その他必要とされる情報を調査・精査し、私に報告してください。
 なお、このことは極力、マスメディアを始めとする、各方面に秘匿してください。
 よろしくお願いいたします。』

そこで、動画は終わった。暗転した画面に、ツバサの茫然自失とした顔が映り込む。

「…。とりあえず、その紅茶を一口飲むといい。せっかく淹れたものだしな」

ソラに言われて、ツバサはハッと我に返った。そして、言われた通り、自分のマグカップに口を付けて、紅茶を飲む。程よい温度になった栗のフレーバーが、鼻孔に抜けた。無意識に、小さな溜め息を吐いてしまう。

それを見たルカが「ごめんねえ」と言った後、言葉を続けた。

「百聞は一見に如かず、っていうからさ。とりあえず、社長からの動画を見せちゃったケド…。順番が逆だったかもしれないね。とりあえず、そのまま、オレの話を聞いてくれる?
 あ、これから、こういう関係の仕事のメモは、今後、「絶対に自分しか見ない」っていうメモ帳とかノートとか、端末とかにしてね。それが無理なら、社用タブレットのメモ機能を使ってもいいよ」
「は、はい…!」

何やら公共の目に触れてはいけない情報を知らされるらしいことを察したツバサは、とりあえず、自分に貸し与えられている社用タブレットを起動した。メモ機能を立ち上げてから、キーボードに指を添える。
ツバサ側の準備が出来たことを見とめたルカが、話し始めた。

「まず今回、社長から降りてきた仕事内容を、端的に纏めると。
 『対象の社員が死亡に至るまでの理由と経緯を調査』。そして、『調査結果を、社長に報告すること』。これだよ」

それだけ聞くと、何だかピンと来ないツバサだったが。社長からの動画の内容を信じるならば、死亡した社員は会社に対して何か強い恨みがあったはず。それを調査する、ということだろうか。
メモを取りながら。そしてそれにツリーをつけて所感を書き込みながら。ツバサは黙々と、ルカの話を聞く。

「亡くなった社員の名前は、『右藤さゆり』。女性。28歳。独身。
 自宅の敷地内、というのは、いわゆる、この右藤さんが住んでいたマンションの駐車場。
 彼女はマンションの7階に部屋があって、死体発見当時、その部屋のベランダの窓は開いていた。そして、ベランダの手すりの前には、彼女の靴が、綺麗に揃えて置いてあった。…それから、遺書が発見されて、今に至る、ってワケ」

最初から感じてはいたが。…ツバサの中にあった嫌な予感は、確信めいたものに変化していた。

「もう気が付いていると思うケド。
 右藤さんの遺書には、『自分の上司たち諸々から、手ひどいパワハラを受けていた』、という旨の文章があったらしくてね。…そのあたりを中心に、調査しなくちゃあいけないかな」

パワハラ、と聞いて。ツバサは微かに身震いをした。ルカは続ける。

「…で、今朝の出勤ルートが変わった件に戻るよ?」
「え?そこに何か…?」

関係があるのだろうか、というツバサの問いは、ソラの言葉に遮られた。

「社長はマスコミ各所へのリークを秘匿せよ、と仰った。…だが、鼻が利く者、内部から情報を売る者…、そういった経緯で、記者たちが今朝から本社に取材を申し込むという形で、正面玄関に殺到している。
 何も知らない平社員たちは、取材陣にもみくちゃにされただろうな。…お前もそうなったら困るから、今朝方、出勤ルートを変更させて貰った」
「…なるほど…」

随分と計算されているものだ。まるでツバサの行動パターン全てを把握しきっているかのようで、彼女は薄ら寒いものを感じた気がしたが…。余計な事から護って貰った、とツバサは何とか前向きに捉える事とした。

「まあ、何はともあれ、調査は足でしなきゃね~
 ソラは、人事部にアポ取って。
 アリスちゃんは、右藤さんがいた部署に、同じくアポ取ってくれる?」

ルカが指示を出した。ソラは粛としてデスクに戻るが、ツバサには分からない事がある。

「それは、今回の調査の為のアポイントメント、ということで…?」
「調査云々は伏せておいて、「Room ELが行きます」って言えば、普通は通じるから。…って、あのひとたちって普通なのかなあ?」

ツバサは問えば、ルカが答えた。が、台詞の最後にくっついてきた言葉が気になる。言葉面を受け取るならば、ツバサがアポイントメントを取ろうとしている部署は、ルカ曰く「普通じゃない」かもしれないひとたちが揃っている、ということである。

「右藤さんがいた部署とは、どこですか…?」
「一般事務、だね」
「…、…」

一般事務。それは、かつてツバサがいた部署だ。右藤さゆりことは知らなかったが、あそこは確かに普通じゃないかもしれない、と、ツバサは思った。言葉が詰まる。

ツバサのそんな様子を見たのか。ルカがデスクから立ち上がり、傍まで歩いてきた。ツバサの頭を黒革の手袋が嵌った手が、ぽんぽん、と優しく撫でる。

「怖いかもしれないケド、お仕事って嫌な事も、時には飲み込まなきゃいけないから、さ」
「…。」

脳内を、事務員時代の事が去来する。
理不尽な物言いばかりする上司や同僚。常にあった孤立感。服装ひとつ取っても、何かとからかわれる日々…。

ツバサの呼吸が苦しくなりそうになった時だった。彼女を手を、黒革のそれが、包み込む。
ルカだ。視線を上げると、ルカは髪と同じ色の青色の目に、慈愛を含めて、見つめてきた。

「頑張って、アポのメールを打ってみよ?
 大丈夫、向こうから何か怖い事を言われたら、ソラが相手を怒ってくれるから」

そう言って、ルカは、ぎゅ、とツバサの手を握った。すると、向かい側から声がする。

「手のかかる奴らの躾は慣れている。安心しろ」

ソラだ。ルカの言う「怒ってくれる」というのは本当なのかもしれない。

「が、頑張ります…」
「うん、アリスちゃん、いいこだね♪」

ツバサが決心すると、ルカが今一度、にこり、と微笑んだ。

「…という訳で、オレたちのデビュー戦だよ。アリスちゃん、しっかりとついてきて?」

ルカがそう言うと同時に、始業のチャイムが鳴った。




to be continued...
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