第二章 Burn down The FAIRY TALE
先の『オーバーミラー』について。
オーロラの魔女にして、その主犯だった雪坂綺子は、悪事を突き止められた影響で精神に著しい不調をきたし、堅牢と名高い警察病院へと収容された。今は治療をしている最中だが、周囲の医療関係者の誰もが、彼女には再起不能の未来しか予測できないらしい。
自分だけの仮初の城と、そこに仕舞い込んでいた泥の宝物を根こそぎ奪われて。己が主役と踊り続けた、贋作のお伽噺から、強制的に冷酷な現実へと引き戻された、哀れな木偶のお姫様は。――――…今はもう。ただひとつ手元に残された、かつての思い出のぬいぐるみに向かって、己の胸の内を永遠に語りかけることしかしないと言う。
一方で、転売の片棒を担がさせれていた、ナオトの処遇。子どもを人質に取られていたとはいえ、あのような大悪事に加担した罪は重いのでは…、と誰もが思っていたが。実はナオトが綺子に課せられていたノルマ、つまり、転売を強要されていた商品たちは、全てナオトが私財を投じて買い取っていたという、隠された事実が判明した。つまりナオトは、綺子に転売をしているフリをして、ただただ、自分のポケットマネーを渡していただけ、ということである。とはいえ、綺子の転売をもっと強く止められる立場にあったにも関わらず、それを放置して、彼女の悪事の助長と、それに伴う被害を拡大させたことには、きっちりと罪が当て嵌まる。
そして、もうひとつ。裁判で焦点になったこと。全ての終幕を飾った、『綺子邸の火事』について。
ナオトは火事が起こったあの日、綺子の家にいた。彼は綺子の家に配備されていた家事ロボットの管理と統率を、当然のように、彼女から丸投げされていたので。正式に合鍵を所持していた。
事件当時も、家事ロボットのアップデート情報を確認するために、綺子邸を訪れていたところ。充電中だった家事ロボットのケーブルが激しいショートを起こしたことで、散った火花が、その近くに纏めて置いてあった紙製品のごみ袋に引火した、というのが、ナオトの弁明だった。
しかし、現場検証をした消防の見解は、違った。出火場所は、ナオトの証言通り、家事ロボットの充電スタンドで間違いない。だが、そこから、ほんの僅かだが、引火性を有する薬品の成分が検出されたのである。
この消防が出した情報をもとに、裁判では検察側からはナオトへ「綺子への恨みから、ナオトが彼女の家へ放火したのではないのか?」という旨の質問が、何度も、何度も、投げられた。が、ナオトは頑として首を縦に振らず。何度も繰り返される同じ質問に対して、彼自身もまた同じ答えを返していた「火事については、僕は何も知りません」と。
結局、引火性のある薬品の成分は検出されたが、それ以外の「ナオトが放火した説」を推すための物的証拠も、状況証拠も、なにひとつもないことから。ナオトは放火の罪には問われない身となった。
ほぼほぼ、被害者に近い容疑者であることから、世間からはナオトを擁護する声、反対に、非難する声も。どちらも同じような割合で、主にSNS上にて、飛び交った。
そんな世論のことは知ってか知らずか。裁判所がナオトに下したのは、彼が心血を注いで勤めていた鈴蘭には、もう二度と関わることを許さない、という主旨の通達。それに加えて、もうひとつ、彼の今後の人生を左右する、重要な報せ。―――それは…―――。
【Room EL】
昼休憩の終わりが見えそうな時間帯。ツバサは自分のデスクに収まり、あの手作りリボンチャームに手入れが必要な個所がないかを、確認していた。
綺子に盗まれたときは、この世の終わりのような気分に陥り、Room ELに帰室した瞬間、職場であるにも関わらず、子どものように泣いてしまった。あの時、ルカがツバサを抱き締めてくれながら、「オレが取り戻すよ」と言ってくれたのは、本当だったし。泣きじゃくるツバサを見ていたソラが、「…クソガキ…潰す…」と、かなりの殺気を含んだ台詞を小声で呟いたのを、彼女の耳は拾ってしまっていた。
結局。盗まれて転売されたリボンチャームは、ルカが綺子から買い取ることで取り戻してくれていた。ツバサが恐縮していると、ルカはからりと笑い、「経費だからヘーキヘーキ」と言いながら、リボンチャームをツバサの手元に、優しく乗せてくれたのだ。その瞬間、嬉しくて、また涙を滲ませたツバサであった。
ソラはその場面が展開されているときは、かつて綺子が囲っていたラボの研究者を然るべき機関に護送する任務についていて、残念ながら不在だった。しかし、ルカから連絡を受けたのか、ツバサの個別メッセージに、直接、ソラからスタンプが届いた。デフォルメされた猫のキャラクターが、ハートマークを抱えているもの。
このリボンチャームには、今回の案件を越えた途端、一気に愛着が倍増してしまった。これからはより一層、大切にしよう。とツバサは改めて考える。すると。
昼休憩を終えるチャイムが鳴った。
昼休憩前から外回りに行ってしまったソラは、一体、いつ帰ってくるのだろう…、とツバサが考えていると。出入り口が開閉する音が聞こえた。噂をすれば影が差す。
外回り用のコートを羽織ったままのソラは、「ただいま」と一言告げると。真っ直ぐにルカを見て。
「おいでになったぞ。出迎えてくれ、ルカ」
と、端的に言った。来客なら、事務員のツバサに言いつけるはずなのに。ソラは、ここの一番の上司であるルカに、直接、出迎えろと告げた。ローザリンデでも来たのか、と思いつつ、とりあえず、お茶の準備だけはしようと。ツバサがデスクから立ち上がろうとしたときだった。
悠然と歩いてくる、ルカ鳴らないヒールの音に相反して。ソラの後ろから、すなわち出入り口方面から、コツコツ、とヒーツが鳴る音がした。
何か。そう、第六感、果ては、本能とでも言うべきか。
事前情報はなにひとつないはずのに。確信めいた予感を抱いたツバサが、ソラの背後から出てきた人物に視線を移した。
「お久しぶりです。その節は大変お世話になりました。
また、お逢いできて光栄です」
穏やかな男声。柔らかい口調。女神のような美貌の微笑み。薄紫色と黄色のオッドアイ。
「ROG. COMPANY協賛の更生プログラムに基づき、本日より、特殊対応室に配属されました。
鈴ヶ原ナオトです。医者です。こちらの医療的衛生面におけるアシスタントと、現場において発生した傷病の手当が、主な担当になります。ご指導のほどよろしくお願いします」
ナオトはそう言って、にこり、と朗らかに笑った。
『これ』が、ナオトが裁判所から下された、もうひとつの通達。
膨大な量の司法取引と、少しの情状酌量。そして何より、ROG. COMPANYが提案した、更生プログラムに賛同したことで。ナオトは、『Room ELに配属させられる』という形で、自ら、『ROG. COMPANYという巨大な檻』に入って来たのだ。此処はヒルカリオは埋め立てによって出来た、人工の島。その中心におわす、この会社ビルの中に。正誤はどうあれ、かつては、敵に回した陣営のド真ん中の、その更に、深淵まで。飛び込んできたのだ。
こういうとき、いまいち、上手い返しが出来ない自分自身を、ツバサが微妙に歯痒く思っていると。ソラが彼女に視線を向けて、口を開いた。
「これから、俺たち3人で分担して、ナオトの監査役を請け負うことになる。とはいえ、肩ひじを張る必要はない。新しい同僚が出来たくらいの気持ちで、接してやってくれ」
「かしこまりました…」
ツバサはナオトが仲間入りすることに、別におかしな気持ちは抱いていない。監査役とやらも、初めは躓くかもしれないが。ルカとソラに倣いながら、そして、自分なりに模索しながら経験していけば、きっとこなせるだろう。そんな風に思っていた。
「改めまして、オレは、ルカ。ここで分からないことがあったら、何でも言ってね。よろしくね~、ナオト~♪」
「事務員のツバサです。よろしくお願い致します…。私もここに配属されて、まだ日が浅い身ですが…、精一杯、サポートします」
自己紹介を済ませたルカとツバサに、ナオトは丁寧に会釈をした後。
「夢のような気分です。このような素敵な場所で働けるなんて…」
そう言ったナオトの目は、何処か夢見心地にも見えた。監視付きで、行動制限もあるが…。それでも、医者として、大手玩具会社に再就職が出来たことが嬉しいのだろうか。ツバサはぼんやりとそんな風に考えた。だが、ソラにしては珍しく。呆れたような目をして、ナオトを見やりながら、口を開く。
「ここまでの道中で事情は全て聞かせて貰ったから、まあ、多少は浮かれるのも分かるが…。
仕事中は気を引き締めてくれ。そして、日々、励むように」
「ええ、勿論です。推しの顔に泥を塗る訳にはいかないですから」
ソラの叱責にも似た檄に、ナオトはにこやかに答えた。『推し』という言葉に反応したツバサが見えたのか、彼女の方を向いたナオトが、笑みを深める。
「大丈夫です。僕は基本、箱推しなので」
「? 推しがいるんですか?」
「ええ、いますよ。僕の目の前に、ずらりと」
「目の前に、ずらり…?
……! え、ま、まさか…?!」
ナオトが何を言っているのか。ツバサは一瞬、呆けたが。すぐに合点がいった。が。理解しただけで、納得はしていない。故に、信じられないものを見るような目で、ナオトを見てしまう自分を、どうか許して欲しい。と、切に願った。
「同僚たちが、推しを目の前にすると語彙力が飛ぶ、と言うのを、そこそこ見聞きしては来ましたが、…本当なんですね。
推しを前にすると、脳が複雑な読解を自動的に放棄する感覚を覚えました。これは医学的な証明が無い分、非常に興味深いテーマですね」
ナオトが少しだけ早口気味で喋る。テンションは上向いているが、言葉選びには地の聡明さが際立っているあたり、やはり、彼は医者らしく頭が良い人物であることが伺える。
「ねえ?何の話してんの~?オレにも分かるように説明してよ~?」
ルカだけは、どうやら状況が飲み込めていないらしい。ルカが何も考えていないとき特有の、能天気な声が聞こえる。その都合の良いポンコツ具合。今だけ、ツバサとソラに、分けてはあげてはくれないだろうか。無理だ。現実逃避にしかならない。諦めて、現実を受け入れるしかないのだ。受け入れた以上、もう、後戻りは出来ない。
よもや、本社内ではすっかり化け物やら怪物やらと、恐れられる存在になってしまったのに。その一方で、まさか推される側に回る羽目にもなろうとは…。
「あなた方は、僕を助けてくださったご恩に加え、怨敵を裁き、更に、僕へ仕事という名の更生の機会を与えてくださったのです。
これを尊ばずして、報わずして、何をすればいいのか…、さっぱり分かりません。なので…―――」
ナオトがオッドアイを細めて、うっそりと微笑んで、続ける。
「―――皆さま。どうか、これからの僕の、生涯の最推しであってくださいね♡」
女神のような美しい笑みを浮かべた、ナオトの唇から。最上級の愛の言葉が、紡がれたのだった。
――――fin.
オーロラの魔女にして、その主犯だった雪坂綺子は、悪事を突き止められた影響で精神に著しい不調をきたし、堅牢と名高い警察病院へと収容された。今は治療をしている最中だが、周囲の医療関係者の誰もが、彼女には再起不能の未来しか予測できないらしい。
自分だけの仮初の城と、そこに仕舞い込んでいた泥の宝物を根こそぎ奪われて。己が主役と踊り続けた、贋作のお伽噺から、強制的に冷酷な現実へと引き戻された、哀れな木偶のお姫様は。――――…今はもう。ただひとつ手元に残された、かつての思い出のぬいぐるみに向かって、己の胸の内を永遠に語りかけることしかしないと言う。
一方で、転売の片棒を担がさせれていた、ナオトの処遇。子どもを人質に取られていたとはいえ、あのような大悪事に加担した罪は重いのでは…、と誰もが思っていたが。実はナオトが綺子に課せられていたノルマ、つまり、転売を強要されていた商品たちは、全てナオトが私財を投じて買い取っていたという、隠された事実が判明した。つまりナオトは、綺子に転売をしているフリをして、ただただ、自分のポケットマネーを渡していただけ、ということである。とはいえ、綺子の転売をもっと強く止められる立場にあったにも関わらず、それを放置して、彼女の悪事の助長と、それに伴う被害を拡大させたことには、きっちりと罪が当て嵌まる。
そして、もうひとつ。裁判で焦点になったこと。全ての終幕を飾った、『綺子邸の火事』について。
ナオトは火事が起こったあの日、綺子の家にいた。彼は綺子の家に配備されていた家事ロボットの管理と統率を、当然のように、彼女から丸投げされていたので。正式に合鍵を所持していた。
事件当時も、家事ロボットのアップデート情報を確認するために、綺子邸を訪れていたところ。充電中だった家事ロボットのケーブルが激しいショートを起こしたことで、散った火花が、その近くに纏めて置いてあった紙製品のごみ袋に引火した、というのが、ナオトの弁明だった。
しかし、現場検証をした消防の見解は、違った。出火場所は、ナオトの証言通り、家事ロボットの充電スタンドで間違いない。だが、そこから、ほんの僅かだが、引火性を有する薬品の成分が検出されたのである。
この消防が出した情報をもとに、裁判では検察側からはナオトへ「綺子への恨みから、ナオトが彼女の家へ放火したのではないのか?」という旨の質問が、何度も、何度も、投げられた。が、ナオトは頑として首を縦に振らず。何度も繰り返される同じ質問に対して、彼自身もまた同じ答えを返していた「火事については、僕は何も知りません」と。
結局、引火性のある薬品の成分は検出されたが、それ以外の「ナオトが放火した説」を推すための物的証拠も、状況証拠も、なにひとつもないことから。ナオトは放火の罪には問われない身となった。
ほぼほぼ、被害者に近い容疑者であることから、世間からはナオトを擁護する声、反対に、非難する声も。どちらも同じような割合で、主にSNS上にて、飛び交った。
そんな世論のことは知ってか知らずか。裁判所がナオトに下したのは、彼が心血を注いで勤めていた鈴蘭には、もう二度と関わることを許さない、という主旨の通達。それに加えて、もうひとつ、彼の今後の人生を左右する、重要な報せ。―――それは…―――。
【Room EL】
昼休憩の終わりが見えそうな時間帯。ツバサは自分のデスクに収まり、あの手作りリボンチャームに手入れが必要な個所がないかを、確認していた。
綺子に盗まれたときは、この世の終わりのような気分に陥り、Room ELに帰室した瞬間、職場であるにも関わらず、子どものように泣いてしまった。あの時、ルカがツバサを抱き締めてくれながら、「オレが取り戻すよ」と言ってくれたのは、本当だったし。泣きじゃくるツバサを見ていたソラが、「…クソガキ…潰す…」と、かなりの殺気を含んだ台詞を小声で呟いたのを、彼女の耳は拾ってしまっていた。
結局。盗まれて転売されたリボンチャームは、ルカが綺子から買い取ることで取り戻してくれていた。ツバサが恐縮していると、ルカはからりと笑い、「経費だからヘーキヘーキ」と言いながら、リボンチャームをツバサの手元に、優しく乗せてくれたのだ。その瞬間、嬉しくて、また涙を滲ませたツバサであった。
ソラはその場面が展開されているときは、かつて綺子が囲っていたラボの研究者を然るべき機関に護送する任務についていて、残念ながら不在だった。しかし、ルカから連絡を受けたのか、ツバサの個別メッセージに、直接、ソラからスタンプが届いた。デフォルメされた猫のキャラクターが、ハートマークを抱えているもの。
このリボンチャームには、今回の案件を越えた途端、一気に愛着が倍増してしまった。これからはより一層、大切にしよう。とツバサは改めて考える。すると。
昼休憩を終えるチャイムが鳴った。
昼休憩前から外回りに行ってしまったソラは、一体、いつ帰ってくるのだろう…、とツバサが考えていると。出入り口が開閉する音が聞こえた。噂をすれば影が差す。
外回り用のコートを羽織ったままのソラは、「ただいま」と一言告げると。真っ直ぐにルカを見て。
「おいでになったぞ。出迎えてくれ、ルカ」
と、端的に言った。来客なら、事務員のツバサに言いつけるはずなのに。ソラは、ここの一番の上司であるルカに、直接、出迎えろと告げた。ローザリンデでも来たのか、と思いつつ、とりあえず、お茶の準備だけはしようと。ツバサがデスクから立ち上がろうとしたときだった。
悠然と歩いてくる、ルカ鳴らないヒールの音に相反して。ソラの後ろから、すなわち出入り口方面から、コツコツ、とヒーツが鳴る音がした。
何か。そう、第六感、果ては、本能とでも言うべきか。
事前情報はなにひとつないはずのに。確信めいた予感を抱いたツバサが、ソラの背後から出てきた人物に視線を移した。
「お久しぶりです。その節は大変お世話になりました。
また、お逢いできて光栄です」
穏やかな男声。柔らかい口調。女神のような美貌の微笑み。薄紫色と黄色のオッドアイ。
「ROG. COMPANY協賛の更生プログラムに基づき、本日より、特殊対応室に配属されました。
鈴ヶ原ナオトです。医者です。こちらの医療的衛生面におけるアシスタントと、現場において発生した傷病の手当が、主な担当になります。ご指導のほどよろしくお願いします」
ナオトはそう言って、にこり、と朗らかに笑った。
『これ』が、ナオトが裁判所から下された、もうひとつの通達。
膨大な量の司法取引と、少しの情状酌量。そして何より、ROG. COMPANYが提案した、更生プログラムに賛同したことで。ナオトは、『Room ELに配属させられる』という形で、自ら、『ROG. COMPANYという巨大な檻』に入って来たのだ。此処はヒルカリオは埋め立てによって出来た、人工の島。その中心におわす、この会社ビルの中に。正誤はどうあれ、かつては、敵に回した陣営のド真ん中の、その更に、深淵まで。飛び込んできたのだ。
こういうとき、いまいち、上手い返しが出来ない自分自身を、ツバサが微妙に歯痒く思っていると。ソラが彼女に視線を向けて、口を開いた。
「これから、俺たち3人で分担して、ナオトの監査役を請け負うことになる。とはいえ、肩ひじを張る必要はない。新しい同僚が出来たくらいの気持ちで、接してやってくれ」
「かしこまりました…」
ツバサはナオトが仲間入りすることに、別におかしな気持ちは抱いていない。監査役とやらも、初めは躓くかもしれないが。ルカとソラに倣いながら、そして、自分なりに模索しながら経験していけば、きっとこなせるだろう。そんな風に思っていた。
「改めまして、オレは、ルカ。ここで分からないことがあったら、何でも言ってね。よろしくね~、ナオト~♪」
「事務員のツバサです。よろしくお願い致します…。私もここに配属されて、まだ日が浅い身ですが…、精一杯、サポートします」
自己紹介を済ませたルカとツバサに、ナオトは丁寧に会釈をした後。
「夢のような気分です。このような素敵な場所で働けるなんて…」
そう言ったナオトの目は、何処か夢見心地にも見えた。監視付きで、行動制限もあるが…。それでも、医者として、大手玩具会社に再就職が出来たことが嬉しいのだろうか。ツバサはぼんやりとそんな風に考えた。だが、ソラにしては珍しく。呆れたような目をして、ナオトを見やりながら、口を開く。
「ここまでの道中で事情は全て聞かせて貰ったから、まあ、多少は浮かれるのも分かるが…。
仕事中は気を引き締めてくれ。そして、日々、励むように」
「ええ、勿論です。推しの顔に泥を塗る訳にはいかないですから」
ソラの叱責にも似た檄に、ナオトはにこやかに答えた。『推し』という言葉に反応したツバサが見えたのか、彼女の方を向いたナオトが、笑みを深める。
「大丈夫です。僕は基本、箱推しなので」
「? 推しがいるんですか?」
「ええ、いますよ。僕の目の前に、ずらりと」
「目の前に、ずらり…?
……! え、ま、まさか…?!」
ナオトが何を言っているのか。ツバサは一瞬、呆けたが。すぐに合点がいった。が。理解しただけで、納得はしていない。故に、信じられないものを見るような目で、ナオトを見てしまう自分を、どうか許して欲しい。と、切に願った。
「同僚たちが、推しを目の前にすると語彙力が飛ぶ、と言うのを、そこそこ見聞きしては来ましたが、…本当なんですね。
推しを前にすると、脳が複雑な読解を自動的に放棄する感覚を覚えました。これは医学的な証明が無い分、非常に興味深いテーマですね」
ナオトが少しだけ早口気味で喋る。テンションは上向いているが、言葉選びには地の聡明さが際立っているあたり、やはり、彼は医者らしく頭が良い人物であることが伺える。
「ねえ?何の話してんの~?オレにも分かるように説明してよ~?」
ルカだけは、どうやら状況が飲み込めていないらしい。ルカが何も考えていないとき特有の、能天気な声が聞こえる。その都合の良いポンコツ具合。今だけ、ツバサとソラに、分けてはあげてはくれないだろうか。無理だ。現実逃避にしかならない。諦めて、現実を受け入れるしかないのだ。受け入れた以上、もう、後戻りは出来ない。
よもや、本社内ではすっかり化け物やら怪物やらと、恐れられる存在になってしまったのに。その一方で、まさか推される側に回る羽目にもなろうとは…。
「あなた方は、僕を助けてくださったご恩に加え、怨敵を裁き、更に、僕へ仕事という名の更生の機会を与えてくださったのです。
これを尊ばずして、報わずして、何をすればいいのか…、さっぱり分かりません。なので…―――」
ナオトがオッドアイを細めて、うっそりと微笑んで、続ける。
「―――皆さま。どうか、これからの僕の、生涯の最推しであってくださいね♡」
女神のような美しい笑みを浮かべた、ナオトの唇から。最上級の愛の言葉が、紡がれたのだった。
――――fin.