夏のたましい
北海道の夏は、とにかく短い。それに、何より過ごしにくいのが特徴だ。朝晩は冷えるが、昼間は身体が蒸れるほどに暑く、汗が止まらない日もあるほどに寒暖差が激しい。
そんな中、稀にだが体調を崩すものもいる。
だがまさか、今まさに気になっている相手、鯉登音之進に当て嵌まるとはさすがの月島も、思ってはいなかった。
というのも、ここのところ顔を見ないと思ってはいたのだ。
懐かれてから数ヶ月。例の忌まわしい事件から彼を救ってからというもの、何かにつけては月島に纏わりついていた鯉登がとんと姿を現さない。
最初は、清々すると思っていた。鬱陶しいのが消えて、スッキリするものだと思っていたが実はそうではなかった。
彼が姿を見せなくなってから、月島の心にぽっかりと何か淋し気な穴が空き、その穴は日に日に大きさを増し、そして暗さを増してゆく。
それはいつか、月島の心を覆ってしまうのではないか、それほどまでに大きく成長した穴を覗きながらの毎日はハリがなく、そしてつまらないものだった。
鯉登の顔が見たい。あの元気な叫び声が聞きたい。
いつしかそう願うようになったが、それで逢いに行くほど月島も月島ではない。ひん曲がってしまった心は整理がつかず、ぐちゃぐちゃにこんがらがった糸は絡みそして縺れては鯉登の笑顔へと変わっていく。
しかし、一体どうしてしまったのだろうか。あんなに慕ってくれていたのが、急に引いてしまうほど鯉登は情が浅い男ではない。
なにかあった。
そう気づくまでには時間がかかったが、それが明らかになったのは逢いに行こうと決めたその日の昼の休み時間だった。
鯉登の姿を探して歩いていたところ、ちょうどいけ好かない男が通りかかり、無視して横を通り過ぎたところでこれ見よがしにこう言ってのけたのだ。鯉登と月島が最近よく一緒に居ることを知りながらの言葉だ。
「そういえばよお、あの鯉登って野郎がいるじゃねえ? あの張り切りボンボン。あの野郎、倒れたらしいぜ。訓練中によお。体力もねえくせに張り切るからだよなあ。鹿児島の田舎へ帰れってんだ。あのお荷物野郎が」
がははははと数人で笑い、その声が遠のいてゆく。月島の足は、後ろへ向かい笑い飛ばした兵士全員を思い切り叩きのめして失神させた後、その足は医務室へと向かっていた。
勝手に身体が動く。
鯉登は無事なのだろうか。今、どうしているのか。重病なのか、それすらも分からない。手と足が震える。
彼を無くすのが心底に怖い。あの屈託のない笑顔を無くすのはいやだと思う。
訓練が始まる時間を待ち、軍曹であるという権限を生かして医務室へと入るが中には誰の姿もなく、思い当たるところといったら兵舎しか無かった。
鯉登がどこで寝泊まりしているのかは把握済みだ。彼が以前のこと、教えてくれたことがあったのだ。
覚えておいてよかった。
その気持ちを胸に、コツコツと靴を鳴らして廊下を歩き、軍曹の自分とは離れている小島のような兵舎へと辿り着き、そして鯉登がいるであろう部屋の扉を開くと、一つのベッドがこんもりと山を作っており、他のすべてのベッドは空でそれが鯉登であることを知らせてくれる。
そっと近づき、顔を確認してみると確かにそれは鯉登であったが、どうやらぐっすりと眠っているようで色黒でも分かるほどに顔色が赤く、そろりと額に手を当ててみるとすぐに手のひらが熱くなる。
これは、相当高い熱を発していると見た。
よくこんな病状で放っておけるものだ。軍医に対して怒りが湧くが、ここは戦場でも無ければただの兵舎だ。多分な期待などしてはいけない。
しかし、こうして額に手を宛がっても鯉登が目を覚ますことは無く、そのまま手を外して丸椅子を持って来てベッドの隣に置き、じっと寝顔を見つめる。
それにしても、特徴的な眉だ。この眉を除けば、結構な美男子なのに勿体ないことだと思う。月島は自分の外見に対し多少なりともコンプレックスを感じていたので何だか悔しくなってくる。
このまま眺めていても仕方がないので、手ぬぐいの持ち合わせを確認し少しでも額を冷やしてやろうと水を求めて席を立ったところで、急に鯉登の表情がひどく歪んだ。
苦しいのだろうか。
慌てて椅子へと座り直し、様子を眺めていると徐に弱弱しく手が上がり、何か言いたげに口をパクパクと開け閉めしている。
席を立ち耳を近づけてみると「兄さあ、兄さあ」そう言って、目尻に涙を溜めては両手で宙を掻いている。その手を取り、ぎゅっと握りしめると少しだけ表情が和らいだ。だがすぐに顔が歪み、苦しそうに荒く息を吐いている。
「鯉登、しっかりしろ鯉登。俺はここに居るぞ、目を覚ませ鯉登!」
必死の呼びかけに呼応するよう、薄っすらと鯉登の眼が開き、その眼は潤みに潤んで今にも涙が零れそうだ。
「鯉登!」
「あれ……つきしま、軍曹……? なんで、ここ。兄さあ……? 兄さあはどこに」
「寝ぼけてるのか。俺は月島だ」
すると、心底ホッとしたような顔つきになった鯉登は淋しそうな顔を見せた。
「具合が悪くなると……必ず、夢に死んだ兄さあが出てくるんです。何故か兄さあは笑っているのにオイはすごく怖くて……でも、兄さあは生前、とても優しい人だったのに何故、夢の中だと笑っているのにあんなに怖い顔をしているのか。オイはいつもその顔に怯えていて……」
「そうか。調子が悪いからそう思えるんだろう。それより、体調を崩したと聞いた。季節柄か、毎年体調を崩すヤツはいるが、お前もそうだとはな。いや、お前の場合は違うか。知っているんだぞ俺は。お前が夜の見回りの者から怒られるほどに夜遅くまで、鍛錬場で身体を鍛えていること」
すると、鯉登は悔しそうな顔を見せ、ぷいと横を向いてしまった。
「オイは……誰よりも強くなりたいんです。月島軍曹よりも、ずっとずっと強くなってオイを笑うやつらを見返してやらないと、第七師団に引き入れてくださった鶴見中尉に顔向けができません。それに……」
ぎゅっと、鯉登が目を瞑ったその拍子にぽろりと涙が零れ落ちる。
「それに、なんだ言ってみろ」
「何故……必死で頑張る者を笑う人間がいるのでしょう。オイが強くなりたいとがむしゃらになればなるほど、同期のヤツらは皆して笑います。そんなに真剣になることは無いだとか、適当な言葉ばかりを吹き込まれ、それに腹を立てると今度は鬱陶しがられる。……オイに、友人はおりません。昔も、今も。だから接し方が分からないのです。それに、稽古とは適当にするものではないでしょう? 頑張ってやるものでしょう? でないと、強くはなれない。生き残ってはいけない。そういうものでしょう?」
さらにぽろぽろと涙を零す鯉登の表情は淋し気で、そして傷ついた人間が浮かべる表情そのものだった。
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