寒い月
五月といえど、北海道の春はまだ遠い。厳しい寒さが遠のいていくわけでもなく、永遠に居座り続けるのではないかと思わせるような、そんな日々が続く中、月島は黙々と日々を過ごしていた。
何か変わりがあるわけでもなく、いいことも悪いことも怒らない毎日。
だがしかし、そんな月島の日常にある変化が起こっていた。というのも、一月半ほど前、同じ第七師団に在籍する兵士を性的な目的を持った輩から助けたことで始まった、鯉登音之進という男についてだ。
ボンボンの彼は人を疑うことをあまりすることが無い。いつでも真っすぐ前を向いて、自分の信じていることをやり遂げようとする彼は軍人にはあまり向いていないように思えた。
裏をかくことばかりを覚えてはいけないが、彼はあまりに真っ直ぐすぎる。そして、鶴見が好き過ぎる。
以前ならば鶴見信仰者がいても、そのまま放っておくが何故か鯉登となると、彼の口から鶴見の名を聞くたびになにか、腹の中の奥底で黒く、ドロリとしたものが動くような感覚がする。
それがいやで、あまり彼とは関わり合いになりたくないと思えど、そうはさせてくれないのが鯉登だ。
今も、昼食を食べ終わると同時にすぐにでも鯉登が傍に来て、嬉しそうに月島の顔を覗き込んでくる。
「……なんだ。飴なら持っていないぞ」
「いえ、飴は要りません。ですが、今日の昼食で月寒あんぱんが配給されたでしょう? ぜひ、月島軍曹と景色のいいところで食べたくてお誘いにまいりました」
「もう俺は食った。残念だったな」
だがしかし、彼は不敵に笑いずいっと二つのあんぱんを差し出してくる。
「どうした、二つも持って。一人一つずつの配給だろう。どうして二個も」
「隣に座ったヤツから買い取りました」
このボンボンが、という言葉を、月島は済んでのところで飲み込んだ。こんなことを言えば、彼を傷つけてしまうだろう。いたずらに人を不快にさせることは無い。
仕方なく頷き、席を立つ。
「二つあるのならば、では一つもらおうか。行くぞ、鯉登。いいところがある」
「……はい!」
ちょこちょこと後ろをついてくる彼を気にしながら、月島が案内した場所は見張り台にもなっている兵舎の屋上だった。
ここはあまり人が来ない。
だから何だという話だが、何となく彼と二人きりでいるところを見られたくないのだ。それは、後ろめたい気持ちがあってのことか、純粋に彼があまり好きではないのか、よく分からなくなっている自分がいる。
そのことについてはあまり深く考えたくない。
なるべく鯉登の方を見ないようにして、屋上の隅へと腰掛けると、すぐにでも隣へ座って上機嫌であんぱんを差し出してくる。
どうやら、かなり好かれてしまっているらしい。
彼を乱暴から救ったのは仕事だからであって、決して彼が好きなわけではないと言いたいが、こうして無条件で慕われるのもまた、悪い気がしないのは事実。
差し出されたあんぱんを受け取り、口へと運ぶと彼も倣ってあんぱんを頬張っている。
暫し無言が続くと、ぽつりと彼が言葉を零した。
「……月が、寒いんでしょうか」
「なに?」
「いえ、このあんぱんの名前、月が寒いと書いて月寒あんぱんと言うでしょう? だから、月が寒がっている日にでも、作られたのかなと」
月は寒くはならないぞ。そう思ったが、黙っているとまた彼が話し出す。
「月島軍曹も、寒いですか?」
「何でそこに俺が出てくるんだ。それに、べつに寒くない」
「そうでしょうか。いつも軍曹は寒そうな顔をしているから……何となく、温めてあげたくなって」
また心臓が妙な具合に鳴り始めた。
彼は一体、何を言おうとしているのだろうか。聞いてはいけないような、聞きたくてたまらないような、複雑な気持ちだ。
「それは、なんだ同情か? なら勘弁だな。俺は寒くても平気だ」
すると、今度は鯉登が難しい顔になり、その目線は月島の手に移動し、ちょんっと人差し指で手の甲を突かれ、その指はすぐに引っ込んだ。
「冷たい……月島軍曹は、冷たいですか。温かいですか」
「それは、冷たい。俺は冷たい人間だ。温かくはないよ。だから、お前も俺に付き纏うのは止めて、独りで立ちなさい」
すると、鯉登は淋しそうな顔をして俯いた後、いきなりのことだったので対処できなかったが、がばっと月島に抱きついてきたのだ。
そして、涙声でがなり始める。
「オイはっ……必ず月島軍曹よりも上に行って、あなたを独占してやる! あなたが寒くないように、オイが温める! もう二度と……そんな悲しい顔をさせないためにも!」
「鯉登……」
「絶対に上に行く! だからあんまり淋しいことを、言わんでくださいっ……! 悲しい顔をして、言わんでくださいっ……!」
最後は涙声になり、抱きついたままぐすっと鼻を啜る彼。つい背中に腕を回してしまうと、彼の身体がピクッと動く。
「……抱擁、ですね。月島軍曹は、冷たくないです。いつだってあったかくて、優しくて……」
言葉は続かなかったが、何となく彼が言いたいことが分かった気がして、丸くなった背を優しく撫でてやる。
「そうだな。俺がもうこれ以上、凍えないようにお前には頑張ってもらわないと。期待してるぞ、鯉登」
「はいっ……! でも、今はこのままがいいです。このまま……いつまでも軍曹の腕の中に居たい。安心するんです、とても。やっぱり、月島軍曹は温かい」
そう言って、さらに身を寄せてくる彼に、月島は妙な感情が心の内から湧き上がってくるのを感じていた。
彼に、愛されてみたい。そうすれば、この孤独からもジレンマからもなにもかもから逃れられるのだろうか。
こうして、真っ直ぐな彼が無条件で身を寄せてくれれば心の穴は満たされる。彼のいうところの温かくなることができる。
この甘えたも、いつまで続くのだろうか。
できれば自分限定でいつまでも続いて欲しい。彼が上司になっても、何になったとしても。
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