運命の鐘
月島は大きく溜息を吐きながら未だ寒い北海道の凍るような夜の白い空気を吐き出しつつ、兵舎を回っていた。
士官学校卒業から約三ヶ月、軍曹である月島には縁のない役目が回ってくる。
というのも、兵舎の見回りはもっと下の階級の者が交代でするものなのだが、この時期になると必ず、出るのだ。
特にこの第七師団には鶴見中尉を慕っている者がとにかく多い。
逆に反発しているものも多いが、心酔の度合いがもう違う。鶴見を慕うものは皆、とにかく盲目的に鶴見を信頼しそして好いている。
が故に、少しでもえこひいきされようものなら我が強ければ強いものほど、鶴見との関係に嫉妬し、ある時は暴挙に出ることもある。
暴挙といっても、単なる暴力で済むのならいいが、そうならないのはやはり、男しかいないこの環境のせいもあるだろう、尻を狙うのだ。
性的に女として扱うことでその相手から威厳を奪い、従わせようとする。忌まわしいことだが第七師団にもそういう連中がいる。
そういった連中から新規に軍隊に入ってきた軍人を護るのが月島の仕事である。
今宵も、兵舎から見える丸い月をぼんやりと眺めながら、寒々とした廊下を歩く。
ここ第七師団の兵舎には、あまり使われていない便所がある。どこの兵舎にもそういった場所はあって、やはり第七師団の兵舎にも存在し、暴挙はそう言った場所で行われることが多い。
そのため、月島の足はいま現在、その便所へ向かっている最中だ。
今夜は犠牲者が出ないといいが。
自分の当番の時にそういった事件に出くわすと、当たり前のことで助けなければならない。できれば面倒事は避けたい月島だ。
だがしかし、事は起きてしまっていた。
というのも、便所に近づくにしたがって数人の気配と共にぼそぼそとした話し声も聞こえる。
持っていたランプを後ろ手に持って近づいていくと、話し声はさらに大きなものになり、ごそごそごといった布ずれの音も聞こえる。
これは、お楽しみの最中だろうか。できれば間に合って欲しい。
そういった希望を胸に、すっと便所の中へと足音を消して入り、後ろから様子を窺う。
「おいっ、そっち押さえろ、そっちだそっち!」
すると、何かがぶつかるような音がしてすぐ後、肉を激しく叩きつけたような音が聞こえた。
「ちっ、この鹿児島の山猿ボンボンが! 大人しくしろ! お前も痛くされたくないだろ? イイコにしてりゃ、いい目見させてやるからよ」
その言葉に呼応するように、何かが激しく動く音がし、また叩きつけられたような音が響く。
「ぐうっ! う、うっ……」
「おい、早く挿れねえか! 誰か来ちまうだろ。見つかったら……」
そこで、月島が動いた。ずいっと便所の中へと足を踏み入れ、後ろ手に持っていたランプを掲げると、そこには見覚えのある色黒の兵士が半分洋服を剥かれており、下半身には何も身につけてはいなかった。
そして、口にはふんどしの猿轡と来ている。
青年兵士は眼に涙を溜めながら突然現れた月島を見ていて、その眼からぽろりと涙が零れ落ちた。
「随分愉しそうじゃないか。俺も混ぜてくれないか」
その言葉に、青年は絶望的な表情を浮かべるが、青年を囲っていた三人の男たちは月島の姿を確認すると同時に、後ろへとずり下がった。
「つ、月島軍曹! あ、あのこれはっ、その」
「また貴様らか。いい加減にいびりを止めるつもりはないのか、貴様らには。いいか、見逃すのはこれで最後だ。止めなければ、俺が直々に鶴見中尉に貴様らのことをバラす。そうなればどうなるか、分かってのことだろうな。……さっさとこの場から去れ!」
その月島の怒号に、全員が慌ててはだけていた前を整えながら便所から飛び出して行く。
そして残されたのはきっといつかもう一度見ることになるだろう予感のあった、鯉登音之進その人だった。
この男とは因縁がある。というのも、鶴見の一芝居に付き合わされたあの苦い思い出。利用されるのは構わないと思えど、気分がいいものではない。
しかし、やはり鶴見の思惑通りになった。確か鯉登は海城学校に在籍していたはず。それが、いきなりの宗旨替えで陸軍の士官試験に受けて合格。そして晴れて第七師団へ。まさしく鶴見が思い描いていたそれそのものだ。鶴見が欲していたのは鯉登平二の海の力だったが、その息子も手に入ったとあれば思わぬ副産物というわけだ。
苦々しい思いを胸に、改めて鯉登の顔を見る。鯉登はどうやら、自分の顔は覚えていないようだった。
月島は初めて出会ったフリをして、屈みこんで身を縮める鯉登の顔をランプで照らした。
「うん、どうやら未だ無事だったようだな。間に合ってよかった」
口から猿轡であるふんどしを外してやると、激しく噎せ込んだ鯉登は涙で濡れた眼で月島を怯えた眼で見つめてくる。
「おはんは……」
「俺を知らないか。軍曹だ、月島軍曹。なんだ、覚えが悪いなお前は。さ、それよりもさっさとふんどしを締めて身だしなみを整えろ」
しかし、どうやら襲われたことがかなり堪えているらしく、身体が震えてどうにも上手くふんどしを巻けないようだ。仕方なく、溜息を吐いた月島はなるべく陰部を見ないようにして鯉登の腰に巻き付けていく。
すると、ぐすっとぐすっと本格的に泣き始めてしまい、もう一つ溜息を吐いた月島は鯉登の頭に手を置き、優しく撫でてやる。
こんな風に優しくする覚えはないのだが、今の彼はどうやったって放ってはおけない状態にあるような気がした。
「何をいつまでも泣いている。軍人だろうが、お前は。軍人が容易く涙など見せるもんじゃない。泣き止みなさい。もう大丈夫だから。ほら、手拭いを今……」
ごそごそとポケットの中を探ったその瞬間、ふわっと鯉登の身体が動き月島の身体に寄せられる。
「オイはっ……情けんなか男ですっ……!」
ドキッと、月島の心臓が大きく鳴った瞬間だった。腕の中の鯉登の身体は細かく震えていて、鼻を何度も啜り上げている。
ボンボンだと思う。こういうことが男でも在り得るということさえ知らないのだ。だからこそ、これだけ怯えているのだろうとは思うが。
今回の事件で何度目になるだろう溜息を吐いた月島は、ぎゅっと鯉登の身体を抱いてやり、後頭部の髪を優しく梳いてやる。
「よしよし、もう二度とこんなことは無いよう、鶴見中尉にはそれとなく伝えておく。もちろん、お前の名前は出さない。だから、泣き止んでくれないか」
「すんもせん……」
そっと腕の中から出て行った鯉登の眼は、濡れて揺れていてランプの明かりが当たるとさらにゆらゆらと光を混ぜて、その一粒がぽろりと零れ鯉登の黒い肌を頬の丸みに沿って流れ、あごに雫を作りぽたっと床に落ちた。
その音が、やけに大きく感じた月島だった。
この男との縁の深さを感じたような、そんな運命の音。
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