All love forgotten


 一時間後、私たちはすっかり息を上げて顔を赤らめながら茶屋を後にした。身体の熱も引かないまま、朝の寒々とした秋の道を歩き、顔を見合わせて笑い合い、路地に誰も居ないのをいいことに私は月島に甘え、肩に手を置いて擦り寄ると彼も擦り寄ってくれた。
 あの時は、確かに幸せだった。そして、彼もそう思っていると思っていたのに。考えたくは無いが、私の独り善がりだったのかもしれない。
 けれどあの時はそんなことを思いもせず、ただひたすら自己満足の海に浸り切っていて何も見えていなかった。
 ただ、月島が隣に居て笑ってくれていることが嬉しくて、あの時はそれだけがすべてだった。私の、何もかもだった。
 未だ離れたくなくて、路地の隅に引っ張り込み抱き寄せるとすぽっと腕の中に入ってくれる。
「まったく、甘えたですねえ鯉登少尉殿は。どうしました」
「未だ……離れていたくない。折角手に入ったお前がまた、遠くへ行ってしまいそうで……」
 自分でもその時は何を言っているのか分からなかったが、きっと予感めいたものを感じていたのだと思う。
 月島が、腕の中にいても心はどこか遠くへ行ってしまっていると、そういったことがなんとなく、分かっていたのだ。彼を好きな男としての勘が、働いた。
 けれど、月島は腕の中でころころと笑い、背中に腕を回してくる。
「私は腹が空きました。何か食べて兵営へ帰りましょう。ほら、離してください」
 優しい声だ。この声が聞きたかった。私のモノになった月島の、私だけに寄せられる声、これが聞きたかった。
「いやだっ……月島っ、未だもうちょっと……このままで居させてくれないか。あと数分、いや、数秒でいいからお前を、私だけのモノに」
 言葉は途中で途切れた。というのも、路地に人が来た所為で月島が私を突き飛ばしたのだ。
 危うく尻もちをつきそうになるほど強く押しやられ、思わず彼を見ると冷静を絵にかいたような、冷たい雰囲気の彼が居て、さっさと歩き出して路地から出ようとしている。
「待っ……つきしまっ……!!」
 まるで、私と彼の距離のようだと思った。遠く遠く離れて行く彼を引き留める方法すら分からず、こうして私たちは離れていくのだと、何となく思った。
 そしてそれは、現実になる。
 もっと早くに気づいていれば何か変わったのかもしれないが、その時の私はただ浮かれるばかりで、彼の気持ちのこれっぽっちも分かっていなかった。
 その距離を埋めるよう、慌てて月島の隣に並び二人で食堂を探す。
「月島、何か食べたいものはあるか。お前の好きなものでいいぞ」
「じゃあ……私の知っている定食屋に入りましょうか。品数が豊富で、どれもとても美味しいんですよ」
「そこへ行こう。お前のいま食べたいものを、私も食べてみたい」
 その言葉に、月島は薄っすらと笑って頷いた。何を思って頷いたのかは分からない。嬉しかったのか、はたまたばかにしたのか。
 甘えたことをぬかすなと、言いたかったのか。
 今なら分かる。きっと後者だろう。それすらもあの頃の私には分からず、自分のいい方ばかりに解釈して、隣を歩く月島の特別になれたと、勘違いをして歩いていた。
 辿り着いた食堂はやはり薄汚れていて、客の層もあまりいいものではなかったが月島はここがいいと言う。
 ならばと思い、無理やり笑顔を浮かべていろんな食べ物のにおいが飛び交う中、何が食べたいか聞いてみることにする。
「月島はなににする? というより、私はあまりこういう店に馴染みが無いから何を食べていいか分からんのだ。何がオススメだ?」
「そうですね……やはり、焼き鮭定食でしょうか。朝はやはり、魚が食べたいです」
 それを聞き、すぐに女将に焼き鮭定食二つと申しつけ、改めて店内を見ているとくすくすと月島が笑った。
「まるで、借りてきた猫ですね。誰も取って食いはしませんよ」
「いや……あの鰊そばが美味い蕎麦屋もそうだが、私には何もかもが新鮮に見えて……」
「美味いですよ、ここの焼き鮭」
 二人同時ほどに運ばれてきた焼き鮭定食は、本当に美味しかった。油の乗った鮭はいい焼き具合で、漬物も野菜のおかずもどれをとっても美味く、そう言えば腹が減っていたことを思い出し、思い切りがっついていると月島が正面で笑っている。
「本当に美味しいな、焼き鮭。お前の舌に間違いが無いことがここに来て漸く、確定したな。鰊そばといい、お前は何でも知っているな。感心する」
 すると、笑みを深めて白米を抓み、口を動かしながら首を横に振った。
「あなたが知らなさすぎるんですよ。まだまだ、美味いものを知っているのでまた、一緒に食べに行きましょう」
 彼は分かっていたのだ。どう言えば私が悦ぶのか、知っててそう言っていた。今ならそう思える。
 何もかもを知ってた上で、私は完全に彼に遊ばれていたのだ。
 そう思いたくは無いがあの頃から私は手のひらで転がされる運命にあったのだと思う。きっと、愉しかったのだろう。彼はいつも自分が転がされてばかりいるから、転がせる私という人間を見つけ、漸く自分でも転がすことができると、彼も浮かれていたのだ。
 でなければ、その後と説明がつかない。
 そんな人間を好きになった覚えなど、無かったはずなのに、どうしてこんなことになってしまったのか。
 残酷すぎる。どうして私たちは出会ってしまったのだろうか。神がいるなら問いたい。何故、引き合わされたのか。
 私が彼を好きになるのは必然のことで、弄ばれるのも決まっていたならば何故、私は男だったのだろう。
 男という性でなければ、悲劇も何も起こらなかったはずなのに、何故。
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