All love forgotten
店は結構路地の入り組んだところにあって、店構えは古ぼけていて怪しげな店に見えたものだ。
月島には悪いが、こんなところと思っていたが味は確かだったことをよく覚えている。あれから、外食の時はあの店が多くなった。
外で蕎麦を啜る時はその店と決まったようなものになっていて、徐々に縮まっていく距離が嬉しかった頃だ。
あの店で初めて食べたのは確か、月島オススメの鰊そばだった。店内はそれなりには清潔にしてあったが、それでもやはり私には不潔に思えて、しかし月島が平常運転だったのできっと、私は挙動不審だったと思う。
随分と不思議そうに、月島が見てきたから普通にしていたが実はかなり引いていたのだ、あの時、あの店に。
だがしかし、食べた鰊そばの味は本物でつい夢中になって行儀作法も関係なく啜り込んでいると、正面で月島がそれは優しく笑っていてくれた。
きっと、格好悪いが美味しいのだなと、そう思っていたのではないか。気の付く月島のことだ、多分、そう思ってくれていたのだ。
彼の優しさに触れるたびに、気づかないところで惹かれていっていたのを私自身、覚えがあるかどうかと聞かれると、それは不確かだ。
ただ、気づいた時にはもう手遅れで、来てはいけないところまでいつの間にか来てしまって、引き返し方も分からず、ただただ月島に惹かれるばかりの毎日だった。
あの鰊そばの店ではよく酒も飲んだ。蕎麦の後には必ず熱燗を頼んで、夏には冷酒だったが何故だろうか、熱燗を二人で舐めるように啜った記憶しか殆ど無い。
またあの熱燗がたまらなく美味く、月島の酒の飲み方が好きだった。心底に美味しいと思っているだろう、満足げな表情が私にはかわいく見えて、それが見たくてやたらと勧めたこともあった。
酒に酔うと頬が赤くなって、笑顔が増える。その笑顔がまた朗らかで、酒が入っていないと見れない笑顔があったので、その朗らかな顔が見たくて酔って歩けなくなるまで酒を勧めまくった時。
あの日、初めて二人で朝を迎えた。
このことは細部までよく覚えている。というより、思い出したい。あの時の気持ちを。月島を一番にと思っていた、あの時の大切な想いを。
酒を飲ませ過ぎた月島は何だかやたらと陽気になっていた。声のトーンも少し高めで、足元が覚束なかったので思わず握った手の熱さ、あの熱さもきっと、忘れないだろう。燃える様に熱くて、少し湿気っていた。大きなあの手は、誰の手を掴むのだろうと感傷的な気分にもなったものだ。
そして何より忘れられなかったのが、手を握った瞬間の月島の表情だった。驚きの中にも何処か、照れのようなものが入っていて、あの時、振り解こうとしたのだろう、月島は。けれど、そうしなかったのはやはり、彼の優しさだろうと思う。
だから、つい聞いてしまったのだ。今から思えば、禁句のあの一言。
「つきしまっ……!! ……い、いいか、私でも。私でも、お前を……おまえとっ」
「はい? なんでしょう」
月島は、分かっていたはずだった。握っていた手が、熱くなったから。じわっと、手のひらが熱くなったから、だから分かってると思っていた。
「茶屋へ、行こう。早くお前を独り占めしたい。お前を私の、私だけのモノに……」
聞こえていたのか聞こえなかったのか。それは私には分からなかったが、月島はついてきた。無防備にもほどがある笑顔を浮かべて、ついてきたのに。
だがしかし、私の知っている茶屋といっても、父上に連れていってもらった健全な茶屋くらいしか知らず、途方に暮れていると月島が繋いでいる手をくいっと引いてきた。
「こっちです。行きましょう」
「……済まない、月島。格好悪いな、私は。ありがとう」
その手を強く握って先導する月島の後ろを歩く。ここでもまた、かなり入り組んだ路地を歩かされ、辿り着いた茶屋はなんだか、薄ぼんやりとしていた。
出入口も蛍みたいな小さな灯りが印象的で、営業しているのか不安になりそうな茶屋で、だがしかし月島は慣れた様子で扉を開け、そして中に入っていく。
さすがに手は解かれてしまったが、温みは未だしっかりと手に残っている。それがやけに嬉しくて、何度も手を握ったり開いたりしていると、女将が奥からやってきて、挨拶もなく「二階の奥、突き当りのお部屋が空いております」とだけ言い、月島は「そこでいい」と答え、靴を脱ぎ始めてしまった。
慌てて私も靴を脱いで月島の後に続く。
ここで、月島と色事。心臓が壊れたみたいに胸の中で叩きつけるように鳴っていて、情けなくも手が震える。
なにしろ、初めてだったのだから仕方が無かったのだと許して欲しい。あの時の私はとことん、格好悪かったと思う。
部屋に着くと、月島はぽすんと布団の上へ座って立ち竦む私を見上げた。
そしてくいくいと手を引いてきたので慌てて私も布団に乗り、あまりの恥ずかしさから月島に背を向けてしまい、言い訳めいたことを口にしてしまっていた。
「あ、あのっ、月島。わ、私はその……こういうことをするのは初めてで、だから……つ、つきしま?」
「服、脱ぎましょうか」
「え、いや、だからっ……! も、もうちょっと何か会話を、会話、かいわ……会話っ、話を」
けれど月島は服を脱ぎ出してしまい、軍服の上下をさっさと脱いでしまうと、信じられない行動に出た。
「では、おやすみなさい。同衾にはなりますが、構いませんよね。私はもう眠たいです。兵営へは、明日の朝帰りましょう。……鯉登少尉殿も、隣へどうぞ」
そう言ってごそごそと布団に潜り込んでしまった月島から、すぐに寝息が聞こえ出す。
「え……え? ちょ、月島? おい、ちょっと……」
私の気持ちを知ってか知らずか、健やかな寝息を立てて寝入ってしまった月島のその後ろ姿を見つめているうち、妙な気持ちになってきた。