デキる月島は今日も憂鬱~金曜日の夜編~


 それはきっと、封印していた過去の記憶が邪魔してるんだ。彼が、俺を名前で呼んだりするから。
 あの子は、元気にしているだろうか。今の俺には音之進さんがいるけれど、彼女の傍には一体、誰がいるんだろう。
 俺の手で、幸せにしてあげたかった。二人で、幸せになりたかった、けど、それはもう一生、叶わない。
 どれだけ手を伸ばしてももう、二度と彼女は俺の腕の中に戻ってくることは無い。あんな後悔など、二度としたくないと思って誰とも付き合わずにいたのに……彼が、音之進さんが俺の心に転がり込んできた。
 突然のことでとても驚いたが、すぐに彼に惹かれた。好きになった。でも、名を呼ばれたことで気持ちが一気に彼女に向かうのが分かった。未練、というものだろうか。未だ、俺はあの子を愛しているのか? もうどうやっても届かないあの子を想っていたって仕方がないのに。だったら、いま俺の傍に居る音之進さんを大切にしてあげないと。彼の気持ちを、護ってあげないと。
 そう思うのに、何故身体は動いてくれないのだろう。いま戻れば、未だ間に合う。彼に愛してると言えば、元通りだ。なのに……どうして、俺は。
 逡巡していると、微かにかちゃっと扉の開く音がして、思わず俯くとぺたぺたと足音がする。
 そして、背を向ける俺の隣に座ると、そっと肩にパジャマをかけられた。
「風邪を、引いてしまうぞ。……寒いだろう」
「……放っておいてください。先に、寝ていてくれていいですから」
 なんでこんな憎まれ口しか叩けないんだ。これじゃあ、ますます彼を怒らせてしまう。悲しませてしまう。
 すると、とんっと肩甲骨辺りに何かが当たった感触がして、ずりっという音でそれが彼の頭だということが分かった。
「月島……私が、悪かった。軽率に、名前なんて呼ぶべきじゃなかったな。気分を害してしまって、本当に済まない。悪いと……思っている。けれど、想い人の名前も呼べないなんて、悲しいなっ……!!」
 言葉に詰まった彼が、ぐすっと鼻を啜ったのが分かった。
 なにも言えずにいると、鼻を啜りながら背中に擦り寄られ、腕が身体に回ってくる。
「お前がそんなに名前で呼ばれるのがいやなら、もう二度と呼ばない。……一生、口にしたりしない。だから、許して欲しい。……ごめんなさい……」
「音之進さん……」
「ごめんなさいっ……!! 私の気持ちがそんなに、お前の重みになっているなんて、知らなかった。ただ、私は後悔したくないだけなんだ。前に……一度、ひどい後悔をしたことがある。もっと好きと伝えておけばよかった、愛してると、たくさん言っておけばよかったと思うことがあって……それ以来、私はもうそんな思いをしたくなくて、自分がそう思ったらちゃんと伝えておこうって、そう思っていたけれど……それが、相手の重みになってしまうなんて、思わなかった……」
「それはっ……だって、あなたはすごく簡単に言ってしまうから……だから、そんな風に思っているなんて、知らなくて……」
 何だか、居心地が悪くなってくる。これじゃあ、俺独りが駄々捏ねてるみたいじゃないか。彼がそんな気持ちを持って言葉にしてたなんて、それこそ知らなかったことだし……。
「兄さあ……私に兄がいることは知っているだろう。兄はもう、この世に居ない」
「え……はっ? 居ないって……それは」
「私が八つの頃に、兄さあは死んでしまった。あの頃の私は幼すぎて、兄さあに本当に好きだと、兄さあを愛していると言い損ねてしまって……兄さあが死んで、漸く気づいた。遅すぎたと。だから、それからはちゃんと、そう思ったら伝えたいと思って生きてきてお前と出会って……だから、お前にも遅すぎると思う前に、伝えたいんだ、私の気持ちを。愛してるって、気持ちを、お前にだけは。だって、もう兄さあはっ、もうっ、いないんだからっ……!!」
 ぐすぐすぐすっと鼻を啜り、本格的に泣き始めてしまう彼の身体を抱きしめたくて、腕を振り解いて振り向き、ぎゅっとその身体をきつく抱きしめた。
「すみませんっ!! こちらこそ、そんな事情があるなんて知らなくて……な、泣かないでください。そんなに、泣いたらいけません。俺まで、悲しくなってしまう……」
「兄さあっ……兄さあに逢いたいっ……!! 逢って、謝って愛してると言いたい。私だって、軽々しく口になどしていないっ。言う時はいつも……ドキドキするし、緊張もする。手も震える。けれど、伝えておかないと、居なくなってしまった時に後悔するだろうから……でも、お前が重荷に感じるのなら、もう言わない。口にしない」
「そんなっ……」
 彼からも腕が回り、ぎゅっと抱きしめ合うと細く息を吐いた彼が涙声でこんなことを言った。
「重荷、なのだろう……? お前は、私の気持ちが。だから、言わない。二度とお前に愛してるなんて、言わないから……傍に、居て欲しい……」
 その言葉に、じわっと眼に涙が湧くのが分かった。
 こんなことを言わせたいわけじゃない。こんな風に、泣かせたいわけでもない。何も分かっていなかったのは、俺の方だったんだ。
「……音之進さん、ごめんなさい……俺が、悪かった。何もかも、今のは俺が悪い。ただ……本当に、俺は何も分かっていなかったんだって、そう思いました。あなたの気持ちも、過去の話もその心の在り処も、何も分かってなかった。俺は……ばかだ。大馬鹿野郎だ。だから、俺も素直になります。ごめんなさい、音之進さん。そして……俺も、あなたを愛してます。だから、二度と言わないなんて、言わないでください。たくさんください、あなたの気持ちが欲しい。両手に余るほどの愛を、俺にくれませんか。言葉で欲しい。心で欲しい。態度でも欲しい。何もかも、あなたに関するものすべて、欲しいっ……!!」
「つきしまっ……本当に? 言っていいのか? 重荷じゃない? 無理してないか」
 それに対して、俺は涙を零しながら首を何度も横に振った。
「嬉しいです、あなたの気持ち……すごく嬉しくて、俺には勿体無いくらいだ……好きです、愛しています、音之進さん。俺にはもう、あなただけだっ……!!」
「つきしま……私も、私も同じだ。お前だけしか、欲しくない。愛してるんだ、心の底からお前を、愛してる……」
 少しだけ身体を離し、俺たちは互いの頬を両手で包み込み、この世で一番気持ちイイと思う、真綿の柔らかな口づけを交わした。
 これが俺たちの、誓いだ。誰もなにも言わせない。俺が彼を愛していて、そして音之進さんも俺を愛している証拠。
 その後、寝室に戻ってから俺たちがまた抱き合ったかどうかはまた、べつの話。

Fin.
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