デキる月島は今日も憂鬱~金曜日の夜編~


 その眼は何故か揺れていて、黒目がどこか不安そうだ。
「つきしま……キス、キスを」
「音之進、さん……? どうかしましたか? その顔……」
「私は女ではないからな。そ、そういうところをまじまじと見られると……さすがに、は、恥ずかしい」
 あんなことやこんなことまでしておいて、今それを言うか?
 けれど、不安がっているのならばそれを取り除いてあげたい。心からの安心を、彼に与えたい。
 俺からも彼の頬に手を伸ばし、すりすりと撫でるとその手に擦りついてきた彼の顔は本当に幸せそうで、うっとりと笑いながらさらに擦り寄ってくる。
「ん……つきしま……好き、大好き」
 だいぶ熱が引いたようだから、驚かさずゆっくりと近づいて……。
 そのままちゅっと音を立てて唇に口づけを落とすと、彼が「んっ……」と鼻にかかったような甘い声を出した。その声に押されるよう、さらに唇を強めに押しつけると彼の腕が首に引っかかり、さらに求められているような気がしたので、試しに唇を啄むように吸ってみると彼からも吸い返され、とうとう応戦になり、ひたすらに甘い唇を味わう。
 やはり、事後のキスは甘ったるいのに限る。彼をより深く、感じられるような気がして好きだ。
 まるで互いの気持ちをなぞり合うような口づけに没頭した後、そっと唇を離すと、彼が顔を寄せてきて擦り寄ってくる。
「んー……! つきしまっ、好きっ……」
「ああ、もう分かりましたから。そう何回も言わなくても……」
 どうにも照れてしまう。彼は根が素直な分、こういうことも億面も無く言えてしまう。その素直さが、とても羨ましい。
「だって好きなんだ。好きなものを好きと言って、何が悪い。私は、音之進はお前が大好きなんだ」
「はあ……」
 て、照れる。照れてしまう。そんなに言わなくてもいいのに……どうして、言えてしまうんだろう。
 簡単に、挨拶みたいに。
 俺なんてそういう言葉を使う時はいつだってドキドキして、まるで若い小娘みたいな風になってるのに、彼はまるで歌でもうたうように愛の言葉を使ってくる。
 そう言われて嬉しいはずなのに、何故か身体が重くなってくるような感覚がする。もういい、言わなくていい。充分に伝わっているから、これ以上……俺を、俺の気持ちを、搔き乱さないでくれっ……!! 雁字搦めに、縛らないでくださいっ……!!
「……ハジメ」
「……え?」
「好き、愛してる……基、ハジメが……好き……」
 その言葉を聞いた途端、一瞬で世界から音が無くなった。
 ただ自分の、どぐどぐと妙な具合に鳴る心臓の音だけが耳に木霊し、後はなにも音が入って来ない。
 彼は今、なんて言った? ハジメ……? それは、俺の下の、名前……。
「ハジメ? どうした、基……? つきしま……?」
 月島、基。はじめ、ハジメ……『基ちゃん』。彼女の呼び声がする。俺を唯一、名前で呼んだあの子。彼女だけがすべてだった、昔の日々。
 もう戻ることはできない、彼女との愛しい時間。
「なあ、ハジメ? どうしたんだ、何か言ってくれ。どうして固まってしまうんだ」
「そ、んな……なんで、下の名前で呼ぶんです! べつに、いつもみたいに月島でいいじゃないですか!! 軽々しく……馴れ馴れしく名前で呼んでっ……!! 図々しいです!!」
 そこまで言って、我に返った。
 音之進さんはかなり動揺しているようで、顔を青くしながら唇を震わせて、しきりに瞬きを繰り返している。
「あなたはいつもそうだ!! 愛の言葉の重みも考えてなくて、すぐに好きだ好きだと言い重ねて、それで俺の心が喜ぶとでも思っているのですか! だとしたら、勘違いもいいところです。あなたの言葉は重い。重すぎる!!」
「つきしま……?」
 じんわりと彼の眼に涙が盛り上がるが、どうしても今は止まれそうにない。
「大体、名前呼びにしてもそうです!! あれはっ、俺の名前のハジメというのはあの子以外に、使って欲しくなっ……!!」
 慌てて口を押えたが、時既に遅し。
 泣きそうに歪んでいた顔は、すぐに怒りの形相へと変わり、人差し指で俺の胸を突きながら責めてくる。
「お前っ……あの子というのはあれか、先ほど話していた癖毛で色白の女のことか!! だったら、今からでもいい、遅くは無いからさっさとその女のところへ行ったらいい!! 私とは真逆の、その女のところへでも行けっ!! ハジメと、お前を呼ぶ女のところへ!!」
 そう言った途端、ぽろっと彼の眼から涙が零れ落ち、それがどうしても見たくなく裸のまま、寝室を出ようとするとすぐに制止の声がかかる。
「ま、待ってっ……待ってくれ月島!! 違う、そうじゃない!! 出て行くな、ここから出るな!! 出てしまったら、私たちの関係が……私の想いがっ……」
 ドアのノブに手をかけ、そのまま無言で寝室を出るとなんの物音もしなくなり、真っ裸のままソファに座って大きく息を吐いた。
 あんなこと、言うつもりじゃなかった。ただ、そのまま流すことができなかった自分の弱さが疎ましい。彼は悪気があって俺の名を呼んだわけじゃない。なのに、俺は大人気も無く怒ってしまった。
 けれど、不思議と後悔はなかった。
 だが、仲違いしたままだと、彼との関係も終わってしまう。愛おしい毎日が、また遠ざかってしまう。それが分かっていながら、何故謝りに行けないんだろう。
 寝室に行って、彼を抱きしめてさっきのは嘘だと、そう言ってキスでもすれば彼はきっと、怒りながらも許してくれるだろう。けれど、どうしてもそういう気になれない。身体が動いてくれない。
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