月見泥棒

 私の住む地域では中秋の名月に供えるお菓子を門前に置いておき、誰でも取って行っていいことになっている。供えられた菓子を月が持って行ったのだとし、喜ぶ訳だ。
「お月見くーださい!」
 そんな声を上げながら、楽しげに取って行く子供も多い。夕方から隣家の門に提げられたお菓子の袋が、見るたびに薄くなってゆく。
 私は門前に菓子を置くことはせず、ただ縁側で月見団子をつまみつつ、昇り行く美しい満月を見上げた。中秋の名月は必ずしも満月と重なる訳ではないのだが、今年は見事に重なってくれた。
 月を見るのは好きだ。大多数の日本人と同じく、その光に惹かれるというのは大きい。けれどもそれ以上に、月の光を見ると、何か大切なことを思い出しそうになるのだ。ずっと昔に出会った、何か大切な……。
 最近は仕事の繁忙期で、ろくに寝られず疲れが溜まっていたのだろうか。暑すぎも涼しすぎもしない心地よい風にまどろんでいるうちに、いつしか寝転び、本格的に寝入ってしまっていたらしい。気がつくと、完全に夜になってしまったようだった。ゆっくりと体を起こして、あたりを見回す。
「……え?」
 思わず声が出た。そこは、自分が寝転んだあの縁側ではなかったから。
「どこ、ここ」
 私の呟きは、周りを囲う白い石壁に反響した。つやつやと煌めく石壁でできた部屋は内側から発光しているように静かに輝き、それでいてとても静かだ。こんな場所、知らない……筈だけれど、なぜだろう。どこか見覚えがある。
「月の宮殿へ、ようこそ」
 背後からかけられた声にびっくりして振り向くと、そこにはひとりの少年が立っていた。白いシャツに白いパンツ、白いソックス、白い靴。白い建物の中に溶け込んでしまいそうな服装の中で、その目だけがほとんど赤に近い茶色をしていた。
「え、だ、誰?」
 自分とひと回りほど年の違う子供に対して我ながら笑ってしまうくらい怯えながら、私は尋ねた。少年は人懐こい笑みを浮かべ、右手を差し出した。
「ぼくはここに住んでるんだ。他に誰もいないから、名前もない。好きに呼んでいいよ」
「名前がない……?」
 相変わらずちんぷんかんぷんだけど、私はとりあえず差し出された手を握った。なんだかふわふわとした、雲のような手だ。
「お供物の隣にいたから、つい招待してしまって。怖がらせてしまってごめんね。少しの間だけお話に付き合ってよ。そうしたらちゃんとお家に帰すからさ」
「…………?」
 全然、訳がわからない。
 きっとこれは夢なんだ。そうに違いない。少年につられて歩き出しながら、私はそう考えることにした。
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