女難

 一週間が過ぎた。全ての講義において、あの女が目に見える範囲にいた。一週間全ての講義が被っているだなんて。
「あ、あの」
「はいっ?」
 変だと思っていた時に当の相手から突然声をかけられ、俺は慌てて姿勢を正した。女が今日も地味なワンピース姿で机の前に立っていた。
「これ、この間のお礼です。よかったら」
 言葉と共に差し出された物を反射的に受け取ってしまい、後悔している間に女はいなくなっていた。家に帰ってから包みを開くと、出てきたのは手作りクッキーだった。
「うわあ」
 親しくない人からのお手製のお菓子は扱いに困る。どうしようか……。
 その時、小さな紙が落ちた。拾い上げると、俺もよく使うメッセージアプリのIDが書いてあった。
「ええ……」
 これはもちろん、連絡を取りたいという意思表示だろう。タイプの女性からならきっと嬉しいだろうが、別にそうでもない相手からアプローチをされても……。
 とりあえず紙は机にしまい、クッキーは冷蔵庫に入れた。普通に友達として付き合いたいということかもしれないし、それならそれでいいけれども……。
 翌朝大学へ行くと、すぐ隣に彼女が座った。
「お、おはよう」
 一応挨拶したけれど、女は大きな眼で俺を見つめるばかりだ。
「えっと、何か?」
「あ、いえ、その、昨日から待ってるんですけど、あのアプリでフォローしてくれないなって」
 連絡先をくれた意図を聞いてみようと思っていた気持ちが、唐突にしぼんだ。この女に連絡先を教えるのはためらわれる。
「あのアプリ……使ってなくて」
 女は目をぱっと見開いて、勢いよく頭を下げた。
「それは知りませんでした……! 小風こかぜ君と仲良くなりたくて……気持ち悪かったですよね! ごめんなさい!」
 言いながら女は何度も頭を下げ、その度に机に額を打ちつけた。ごつ、ごつ、と音がして、周りの学生たちも何事かとこちらを見ている。
「やめてください! そんなに打ちつけたら……!」
 ようやくその動きは止まり、女はしかしそのまま立ち上がって姿を消してしまった。机に、微かに赤い染みがついている。何が何やら分からない。
 呆然としていると、ぽんと肩を叩かれた。
「うわあっ」
「悪い悪い。驚かせた。大丈夫か?」
 声をかけてくれたのは高校からの友人だった。大学デビューとかで派手な金髪に染めた髪をツンツンと立ててはいるが、人懐こい笑顔のいい奴だ。
「ヒガシ……見てたのか」
「まあね。なあ、カラオケでもどう」
 そう誘われて、四限はサボることにした。よく二人で訪れるカラオケ屋の個室で、ヒガシは「それで?」と促してくれた。思えば昔からこうだった。ヒガシは俺に悩みがあるといつも察して、二人きりになれるところで相談に乗ってくれたものだ。
「うん、実はさ……」
 俺はここ一週間に起きたことを、全て話した。俺の考えすぎかもだけど、と言うとヒガシは首を振った。
「いや、それストーカーだって! 変な奴に好かれちまったな」
「うう……やっぱりそうなのかな。でも、ただ友達になりたいだけなのかもだし」
「どんだけ優しいんだよ」
 ヒガシは笑いながらも「まあ、そこがお前のいいとこなんだけどな」と頷いた。
「とにかくお前が困った時には必ず助けるからな。一緒に警察だってどこだって行ってやるから……」
 そこでヒガシは不意に言葉を止めた。
「ヒガシ?」
「あれ」
 ヒガシの目線はドアに注がれていた。俺の座るところからも見えるそのドアは大半が目隠しのためにすりガラスになっている。ただ上下部だけは普通のガラスになっているので、誰かが立つと足元は必ずそこに覗く仕様だ。
「あ」
 今、そこに女の脚が見える。スカートの影が揺れ、すりガラス越しにも細身のシルエットが分かる。微動だにしない。こちらを見つめているようにも思える。
「ひいっ」
 まさかあの女が。
 ドアが開いた。
「ご注文の品、お持ちしました」
 入ってきたのは女性店員だった。
「な、なんだ……」
「びっくりしたな……。あ、ドリンクありがとうございます」
 二人して、互いの顔を見合わせて笑い合った。店員を見送ってホッと息をついていると、部屋のすぐ外から、今の店員の声が聞こえてきた。誰かと話しているようだ。
「お客様はこちらのお連れ様でしょうか?」
 ヒガシと再度顔を見合わせる。慌てて彼は席を立ち、ドアを開けた。
「今そこに誰か?」
 俺も一緒に顔を出す。店員の姿しかない。
「はい、女性のお客様が。部屋を間違われてしまったようで」
 俺たちの形相に驚いたのか、店員はすぐに行ってしまった。俺たちもドアを閉め、先ほどとは違う笑いを交わした。引き攣った笑いを。
「な、なんか気持ち悪いな」
「だな……」
 そそくさと店を出て、俺はそのままバイト先へ向かうことにした。
 別れ際、ヒガシは俺の肩をぽんぽんと叩いた。
「ま、あまり気にしないようにな!」
「うん。ありがとう」
 気にしないようにと言われても難しいが、今はどうすることもできない。さっきの出来事は気味悪いが仕方ない。気を取り直して、バイトに励むとしよう……。
 俺は心なしか重くなった体を励ましながら、バイト先の居酒屋へ向かった。
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