仕上げのチーク
一月の最後の土曜日は、学校がお休みの日だった。母とふたりで昼のワイドショーを見ていたとき、家のチャイムが鳴った。対応に出た母と一緒に入って来たのは赤瀬さんだった。
「こんにちは……突然お邪魔してすみません」
ひと目で、いつもと違うのがわかった。暖色の膝丈ワンピースと夢可愛い刺繍の入ったタイツがよく似合っているけれど、肝心の表情が……暗い。暗いどころではない、泣き腫らした跡が、頬や目元、鼻のあたりに滲んでいる。
「赤瀬さん、どうしたの。何があったの」
思わず立ち上がると、赤瀬さんは力なく笑い、そのままその顔を歪めて両手で隠した。
「……ごめん、青威君に相談したくて……っ」
泣きじゃくる赤瀬さんを椅子に座らせて、母が出してくれたお茶を勧めて、背中をさすってあげた。よく聞けば、どうやらデート中ちょっとしたことで彼氏と口論になり、途中で逃げ出して来てしまったらしい。
「うっ……私、私も悪いと思うけど、でも、彼の言い方も悪かったと思うの……っ。でも、でも」
「大丈夫、落ち着いて話して? ね?」
赤瀬さんは差し出したティッシュで鼻をかみ、うええと泣き続ける。
「でも、……でも、私、仲直りしたい。こんなことで彼と終わったりしたら……そんなの……」
赤瀬さんが今の彼氏と付き合うために、たくさん努力したのはよく知っている。ぼくのアドバイスを取り入れて、最初は苦手だったメイクも練習したし、一緒に服を買いに行ったときは、相手の好みをリサーチしたメモを見せてくれたっけ。
本当に好きなんだ、彼のことが。
「赤瀬さん、ちょっと待ってて。ぼくのとっておきを持って来る」
「え? とっておきって……?」
さっと立って、部屋からメイクボックスを持って来ると、赤瀬さんは赤くなりかけた目を丸くした。
「それ、青威君の?」
「うん。仲直りするなら、そんな青ざめた顔じゃだめだよ。とびっきり赤瀬さんらしい、可愛さを持っていかないと」
ぼくはボックスを開いて、まずはメイク落としを差し出す。涙と多分鼻水と、ここまで来るときの汗とで、元々していたらしいメイクは崩れまくってしまっていた。赤瀬さんは少し恥ずかしそうに受け取って、顔を拭き始めた。
「あ、青威君がメイクしてくれるの……?」
「赤瀬さんさえよければ」
赤瀬さんはますます恥ずかしそうに、でも確かに頷いた。
「人にメイクしてもらうの初めてで緊張するけど……、よろしくお願いします」
指で塗る化粧下地だけは赤瀬さんに自分でやってもらって、そこから先はぼくがすることにした。赤瀬さんの肌に馴染みやすそうな明るめの色合いのファンデーションを選んで、スポンジで塗っていく。
「ぼくはよく、姉さんたちにこうしてメイクしてあげるんだよ」
「青威君、お姉さんいたんだ。そっか、それでメイクに興味を持ったの?」
「うん」
いくつか持っているアイシャドウのうち、どれが今日の赤瀬さんにぴったりか考えつつ、ぼくは話を続ける。
「姉さんが二人で、ぼくが末っ子だったから、家族みんなで可愛がってくれて。子どもの頃は、姉さんと、姉さんの友達と遊んでばかりいたんだ。幼稚園のときは人形遊びやままごと、小学生になったら一緒に占いの本を読んだりして」
「ふふ、青威君っぽい」
「でしょ。他の男の子たちが外で遊んでいたのに、そこには混じらなかったんだ。姉さんの友達とは、今でも遊ぶくらい仲良しなんだよ。小学生高学年の頃かな。姉さんたちはその頃中学三年生で、母さんのお化粧道具を借りたりして、少しずつメイクをしだしたんだ。それを見ていて、ぼくもやりたいなと思った。姉さんたちがなんだか一気に大人になった気がして、羨ましかったのかも。それで、ぼくも見よう見まねでやってみたんだけど」
予想がついたのか、目を閉じた赤瀬さんはなんだか面白そうに口角を上げた。ぼくはその瞼に、赤系のカラーでグラデーションをつけてゆく。
「物凄い顔になっちゃったんだ。頬なんて真っ赤でさ。塗ってるときは楽しかったんだけど、鏡を見てびっくりしたのを覚えてる」
「チーク塗りすぎたの?」
「そう」
さっきメイク落としで拭き去ったマスカラを、まつ毛に塗っていく。均等に、ダマにならないように、慎重に。
「そうしたら、そのときちょうど遊びに来てた姉さんの友達が、綺麗に直してくれたんだ。メイクが上手な人で、ささっと」
マスカラをしまいながら、あのときの姉さんの友達の手際と言葉を思い出す。
『チークはね、血色をよく見せるために塗るんだよ。真っ赤にすればいいわけじゃないんだ。ほら』
「びっくりしたんだ。ぼくが塗りたくったときとは違って、鏡の中には、血色のいいぼくがいた。女の子みたいなぼくじゃないよ。ぼくはぼくのまま。でも元のぼくの肌の温かみが、より強調されていたんだ」
赤瀬さんは目を開き、じっとぼくの話を聞いている。ぼくはその唇に合うリップを選ぶ。健康的な、ピーチピンク。
「そのとき、びびっときたんだ。メイクって、変身のためにするんじゃない。元々の自分が持っているよいところ、魅力を最大限に引き出して、前を向いて堂々と生きていくためにするものなんだって」
仕上げに、チーク。リップの色と同系色のものを、頬骨の辺りに馴染ませていく。さっきまで混乱と不安で暗くなっていた顔色が、ぱっと明るくなる。
「完成。鏡どうぞ」
メイクボックスから取り出した手鏡を見て、赤瀬さんは歓声を上げた。
「うわあ、すごくいい……! え、嘘、自分でやったときより可愛い。青威君、魔法使いみたい」
当たり前だ。ずっと君を見てきて、その可愛さを最大限引き出すにはどうすればいいのか、ずっと考えていたぼくがやったんだから。
「これできっと、落ち着いて仲直りできるよ。大丈夫。赤瀬さんなら……彼氏への思いをちゃんと伝えられるよ」
赤瀬さんは立ち上がり、ぼくの手をとってぶんぶんと上下に振った。花が咲いたみたいな笑顔が、ぼくに向けられている。
「ありがとう、青威君! 私、青威君みたいな友達がいて、本当によかった! 急いで彼のところに行って、仲直りして来る!」
「いってらっしゃい」
ばたばたと玄関ドアから出て行く後姿は、昼の日差しに溶けて行く。その背中が小さくなるまで、ぼくは見送った。仕上げに使ったチークを、そっと手の中に握り込んで。
「こんにちは……突然お邪魔してすみません」
ひと目で、いつもと違うのがわかった。暖色の膝丈ワンピースと夢可愛い刺繍の入ったタイツがよく似合っているけれど、肝心の表情が……暗い。暗いどころではない、泣き腫らした跡が、頬や目元、鼻のあたりに滲んでいる。
「赤瀬さん、どうしたの。何があったの」
思わず立ち上がると、赤瀬さんは力なく笑い、そのままその顔を歪めて両手で隠した。
「……ごめん、青威君に相談したくて……っ」
泣きじゃくる赤瀬さんを椅子に座らせて、母が出してくれたお茶を勧めて、背中をさすってあげた。よく聞けば、どうやらデート中ちょっとしたことで彼氏と口論になり、途中で逃げ出して来てしまったらしい。
「うっ……私、私も悪いと思うけど、でも、彼の言い方も悪かったと思うの……っ。でも、でも」
「大丈夫、落ち着いて話して? ね?」
赤瀬さんは差し出したティッシュで鼻をかみ、うええと泣き続ける。
「でも、……でも、私、仲直りしたい。こんなことで彼と終わったりしたら……そんなの……」
赤瀬さんが今の彼氏と付き合うために、たくさん努力したのはよく知っている。ぼくのアドバイスを取り入れて、最初は苦手だったメイクも練習したし、一緒に服を買いに行ったときは、相手の好みをリサーチしたメモを見せてくれたっけ。
本当に好きなんだ、彼のことが。
「赤瀬さん、ちょっと待ってて。ぼくのとっておきを持って来る」
「え? とっておきって……?」
さっと立って、部屋からメイクボックスを持って来ると、赤瀬さんは赤くなりかけた目を丸くした。
「それ、青威君の?」
「うん。仲直りするなら、そんな青ざめた顔じゃだめだよ。とびっきり赤瀬さんらしい、可愛さを持っていかないと」
ぼくはボックスを開いて、まずはメイク落としを差し出す。涙と多分鼻水と、ここまで来るときの汗とで、元々していたらしいメイクは崩れまくってしまっていた。赤瀬さんは少し恥ずかしそうに受け取って、顔を拭き始めた。
「あ、青威君がメイクしてくれるの……?」
「赤瀬さんさえよければ」
赤瀬さんはますます恥ずかしそうに、でも確かに頷いた。
「人にメイクしてもらうの初めてで緊張するけど……、よろしくお願いします」
指で塗る化粧下地だけは赤瀬さんに自分でやってもらって、そこから先はぼくがすることにした。赤瀬さんの肌に馴染みやすそうな明るめの色合いのファンデーションを選んで、スポンジで塗っていく。
「ぼくはよく、姉さんたちにこうしてメイクしてあげるんだよ」
「青威君、お姉さんいたんだ。そっか、それでメイクに興味を持ったの?」
「うん」
いくつか持っているアイシャドウのうち、どれが今日の赤瀬さんにぴったりか考えつつ、ぼくは話を続ける。
「姉さんが二人で、ぼくが末っ子だったから、家族みんなで可愛がってくれて。子どもの頃は、姉さんと、姉さんの友達と遊んでばかりいたんだ。幼稚園のときは人形遊びやままごと、小学生になったら一緒に占いの本を読んだりして」
「ふふ、青威君っぽい」
「でしょ。他の男の子たちが外で遊んでいたのに、そこには混じらなかったんだ。姉さんの友達とは、今でも遊ぶくらい仲良しなんだよ。小学生高学年の頃かな。姉さんたちはその頃中学三年生で、母さんのお化粧道具を借りたりして、少しずつメイクをしだしたんだ。それを見ていて、ぼくもやりたいなと思った。姉さんたちがなんだか一気に大人になった気がして、羨ましかったのかも。それで、ぼくも見よう見まねでやってみたんだけど」
予想がついたのか、目を閉じた赤瀬さんはなんだか面白そうに口角を上げた。ぼくはその瞼に、赤系のカラーでグラデーションをつけてゆく。
「物凄い顔になっちゃったんだ。頬なんて真っ赤でさ。塗ってるときは楽しかったんだけど、鏡を見てびっくりしたのを覚えてる」
「チーク塗りすぎたの?」
「そう」
さっきメイク落としで拭き去ったマスカラを、まつ毛に塗っていく。均等に、ダマにならないように、慎重に。
「そうしたら、そのときちょうど遊びに来てた姉さんの友達が、綺麗に直してくれたんだ。メイクが上手な人で、ささっと」
マスカラをしまいながら、あのときの姉さんの友達の手際と言葉を思い出す。
『チークはね、血色をよく見せるために塗るんだよ。真っ赤にすればいいわけじゃないんだ。ほら』
「びっくりしたんだ。ぼくが塗りたくったときとは違って、鏡の中には、血色のいいぼくがいた。女の子みたいなぼくじゃないよ。ぼくはぼくのまま。でも元のぼくの肌の温かみが、より強調されていたんだ」
赤瀬さんは目を開き、じっとぼくの話を聞いている。ぼくはその唇に合うリップを選ぶ。健康的な、ピーチピンク。
「そのとき、びびっときたんだ。メイクって、変身のためにするんじゃない。元々の自分が持っているよいところ、魅力を最大限に引き出して、前を向いて堂々と生きていくためにするものなんだって」
仕上げに、チーク。リップの色と同系色のものを、頬骨の辺りに馴染ませていく。さっきまで混乱と不安で暗くなっていた顔色が、ぱっと明るくなる。
「完成。鏡どうぞ」
メイクボックスから取り出した手鏡を見て、赤瀬さんは歓声を上げた。
「うわあ、すごくいい……! え、嘘、自分でやったときより可愛い。青威君、魔法使いみたい」
当たり前だ。ずっと君を見てきて、その可愛さを最大限引き出すにはどうすればいいのか、ずっと考えていたぼくがやったんだから。
「これできっと、落ち着いて仲直りできるよ。大丈夫。赤瀬さんなら……彼氏への思いをちゃんと伝えられるよ」
赤瀬さんは立ち上がり、ぼくの手をとってぶんぶんと上下に振った。花が咲いたみたいな笑顔が、ぼくに向けられている。
「ありがとう、青威君! 私、青威君みたいな友達がいて、本当によかった! 急いで彼のところに行って、仲直りして来る!」
「いってらっしゃい」
ばたばたと玄関ドアから出て行く後姿は、昼の日差しに溶けて行く。その背中が小さくなるまで、ぼくは見送った。仕上げに使ったチークを、そっと手の中に握り込んで。
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