ゾンビは丈夫だ

「仕事内容を理解して応募したのか?」
 まだモデルハウスがふたつしかなかった元遊園地の入口で、俺は上司になる人間から煙草の煙を吹きかけられた。温かい風が吹いていた頃のことだ。
 俺が頷くと、面接は終了した。母さんのいる家から歩いて通える、特別な技能は不要な職場。仕事内容は二の次だった。
 毎朝、母さんに「行ってきます」を言った。毎晩、母さんに「ただいま」を言った。何年もの間しなかったことを、罪滅ぼしのように。母さんは必ず「行ってらっしゃい」「おかえり」と返してくれた。
 そして今日も、雪に濡れて帰宅した俺を、いつも通り迎えてくれた。俺は目を伏せる。
「……ただいま」
 俺はタンスの奥から引っ張り出して来た母さんの古いスキーウェアを彼女に貸して、自分もスキーウェアに着替えた。寒さとはもう無関係の母さんを脇から挟むようにして、俺たちは長い道程を歩き出した。
「アンタの母さん、小さいね」
 彼女の言葉に「君のお婆ちゃんもね」と返そうとして喉が詰まった。彼女のお婆ちゃんはもういない。雪礫が顔に当たって、耳がじんじんする。
「君がいなくなったら、君の家族はびっくりするね」
「しないよ。ウチはもうとっくに崩壊してるもん」
 彼女はあっけらかんと言う。
「ウチはお婆ちゃんを中心に回ってたんだ。でもお婆ちゃんが死んで」
『死んで』の部分に、ぐっと力がこもった。
「パパはおかしくなっちゃった。お婆ちゃんはまだ死んでないんだって言って、私たちには決して会わせようとしなかった。だから、お婆ちゃんがあんな風になってるって私は知らなかった」
 アンタの職場のことも最初は介護老人ホームだと思ってたもん、と彼女は雪山を蹴り上げた。
「ママはパパのことを見捨てたけど私は見捨てられなかった。どうしたらいいのか分からなくて、とりあえずお婆ちゃんに会って、もしお婆ちゃんがパパの言うようにしっかりしているのなら戻って来てもらおうって」
 今日ので、もうどうしようもなくなっちゃったけど、と彼女は笑う。
「でもいいんだ。アンタと一緒に新しい場所で生きていけるから」
「君は強いな。……俺は……」
 ほとんど人のいない開けた道は、ただひたすらに白く目を刺す。明るすぎて、先に何があるか分からない道。母さんがよろける。
 待ちはずれの山道も雪深く、俺と彼女は母さんの体を押すようにして進んだ。かろうじて直近の除雪跡が微かな道になっていて、俺たちは無言で歩いた。
 降っていた雪はやみつつある。目当ての崖までは、あと少しだ。ひと足ごとに、ピンクのモデルハウスが浮かぶ。コマ撮りのように思い出される、あの惨状。
「……大丈夫?」
 彼女が、俺の顔をじっと見ていた。
「大丈夫ではないかな」
 俺は彼女のように強くない。強くないから、もう抜け殻と言っていい筈の母さんと、ずるずると同居した。自分の愚かさが少しでも薄れるような気がして、毎日話しかけた。
 そんな人間に、リュックの中の物を使える筈がなかった。
 目的地に着いてしまった。決心なんてついてはいない。けれど、やらなければいけない。俺たちが過去のくびきを逃れて新しい日々に進むために、必要なことなのだ。
 寒さのためだけではなく、全身が震えた。
 苦労してリュックのジッパーを開け、中から簡単な組立式ツルハシを取り出した。手が震え、組み立てに時間がかかった。少し前から晴れ間がのぞき、母さんが、舞台女優のように照らし出されている。
 ここは隣県との境道で、山際から少しはみ出るように、見晴らしのよい崖がある。木製の手すりにもたれた母さんと、それに向き合う俺たちは、山の斜面と崖との、狭い箇所に立っている。
「私がやるよ」
 彼女は素早く、俺の手からツルハシを取り上げた。
「アンタは覚悟だけしてくれればいい」
「で、でも」
「任せて」
 彼女は身振りで俺を遠ざけた。
 俺は情けなくも、その厚情に甘えることにした、せざるを得なかった。
 無理なのだ。
 俺は、彼女と母さんの両方を視界に入れられる所まで下がった。
 ゾンビは丈夫だ。それは、ピンクのモデルハウスの室内を見たなら誰でもいやでも実感することだ。そんなゾンビを完全に塵に還そうと考えれば、弔いの儀を家で行うわけにはいかない。ツルハシでできるだけのことをしてから、崖下へ落とす。それが、俺たちにも母さんにも、最も簡便な方法だと思われた。
 太陽の光が、雪で覆われた山の斜面に反射する。彼女が振り上げたツルハシの切先に、その光が移る。
 ああ。
「母さん」と呼びかけそうになったそのとき、足元がふらついた。現在の状況に、精神が参ってしまったのか……と思ったが、違う。視界に映る彼女と母さんも、同じようにふらついている。
「地震だ」
 俺の小さな声は、彼女にも母さんにも届かなかっただろう。
 一瞬の強い揺れがきて、山の斜面に積もっていた雪が、彼女の上に降りかかった。彼女は刹那、宙空を見上げ、口を開いた。「お」の形に開いた。そしてそのまま、大量の雪の下に消えた。
 雪崩だった。規模は小さいかもしれないが、人ひとりを飲み込むには十分な量の雪が瞬間で落ちてきた。雪はそのままの勢いで崖の下へ滑り落ちていった。俺はすぐに駆けつけたが、彼女がいた所にはもう、誰の姿もなかった。大量に崖下へ流れ落ちた雪の名残だけでも、俺の背丈ほどは積もっていた。
 考えなしに突っ込んだ手は千切れるように痛み、彼女がその下にいたとしても為す術がないことが分かった。頭で考えたことに体の実感が遅れてついてきた。
 何も考えたくなかった。
 その場にくずおれた俺の耳は、足音を捉えた。ぼんやり見上げる。
 母さんが近づいて来たのだった。どうやら地震のお陰で立ち位置がずれて、雪崩には巻き込まれなかったらしい。
「母さ……母さん……」
 母さんの、もう半年以上替えていない上着の裾にすがりついた。雪崩がなければ既にこの世にはない、その足元に蹲った。
 唇が震える。涙が凍ってゆく。
 母さんが、ぎこちない動作で俺の手を取った。冷え切った、がさついた、こわばった、つっぱった皮膚が、俺の手に擦れる。
 撫でられているのだ、と気がついた。遠い昔、俺がまだ泣き虫だったころ、母さんはこうして手を撫でてくれた。そして必ず。
「痛いね、痛かったね」
 そう。こう言ってくれたのだ。
 痛かった。ずっとずっと、痛かった。
 忙しさを理由に大切な筈の母さんから遠ざかったことも、母さんがゾンビになってしまったことも、決して取り返しのつかないことを取り返そうとしていたことも、母さんはもういないのだと思い込んで別れを告げようとしていたことも、今、共に歩き出そうとしていた人を失ったことも。
 痛い。痛いよ、母さん。
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