ゾンビは冷たい
節約のため凍てつくモデルハウスから歯をガチガチ言わせながら出てきたところで、俺は彼女と鉢合わせした。生きた人間である彼女は、濃いアイシャドウの下から俺を睨むように見ていた。
「お婆ちゃんを解放してあげて」
事務所に通すと、彼女は椅子にふんぞり返った。
「お婆ちゃんは立派な人だった。こんな所に閉じ込められていい人じゃない」
俺はともかくも温かい飲み物を作ろうとして、やかんを火にかけた。コンロの火力を調節しながら、「こんな所」という言葉を噛み締めた。
彼女はキッチンに引っ込んだ俺に聞こえるように、声を張り上げた。
「この罰当たり」
来客用カップにインスタントコーヒーを入れ、自分用には砂糖多めの紅茶が入ったマグカップを持って、俺は彼女の前に戻った。ハタチそこそこだろう彼女は、金に染めたボブを揺らしながら、カップをさっさと空にした。
「俺たちは、お婆ちゃんを閉じ込めている訳じゃないんだよ」
「パパが頼んだんでしょ」
彼女が名乗った名前は確かに、彼女の言う「お婆ちゃん」の引受書にあった。それを確認しながら、俺は慎重に言葉を選ぶ。
「お父さんは、君がここにいることをご存知なの」
「知らない。言ってないもん」
タイトなミニスカートの裾から突き出た編タイツの脚を、彼女はさっと組んだ。蹴られるかと思った。説明してもわかってもらえる自信がなかったので、俺はため息を我慢して、外へ続くドアを再び開いた。
「ついて来て」
「何よ、お婆ちゃんを解放するまで出て行かないんだからね」
「別に追い出そうってんじゃない」
宥めながら外へ出て、元遊園地の元観覧車辺り、ピンクのモデルハウスを目指して歩き出す。
歩いている最中、彼女はずっと喋っていた。お婆ちゃんは死ぬ直前まで教師を務めていて、教え子全員に慕われていて、自分には特別甘くて優しくて、自分が訪ねるといつも特別な挨拶をしてくれた、そんなお婆ちゃんをこんな所に閉じ込めるなんて。
俺は彼女に、ピンクのモデルハウスのドアノブを捻らせた。
「お婆ちゃん!」
彼女は、部屋の隅に蹲るように座っていた小柄なお婆ちゃんに駆け寄った。お婆ちゃんは白濁した目玉を音の聞こえる方へ向け、彼女の細い手を弱々しく握り、「私の大好きな子が来てくれたねえ」と言った。
彼女はどうだと言わんばかりにこちらを向く。俺は頷いて、戻るように手招きした。彼女と入れ替わるように、俺はお婆ちゃんに近づいた。お婆ちゃんは俺をじっと見つめて腕を握り、「私の大好きな子が来てくれたねえ」と言った。
「なんで」
振り向くと、彼女はたださえ大きな目を見開いて仁王立ちしていた。
「それは、私のためだけの言葉なのに」
「これがゾンビというものなんだ」
事務所に戻りがてら、俺は他のハウスも彼女に見せて回った。どのハウスのゾンビも俺を歓待し、愛する家族に対するのと同じように振る舞った。彼女は困惑しきり、事務所に戻っても黙ったままだった。
上司はまだ戻って来ない。来客を残して帰る訳にもいかず、俺はひとり、何度も時計に目をやった。
「やっぱり、こんなのおかしい」
一時間ほど経った頃、突然呟き、彼女は立ち上がった。
「お婆ちゃんに変なことしてないか、また見に来るから」
「また?」
声が裏返る。
「変なことなんて」
「それを確認するって言ってるの」
きつい声だけ残して、彼女は去った。ドアの隙間から、冷風が吹き込んできた。
それからというもの、毎日のように彼女はやって来た。俺の後についてモデルハウスのゾンビたちの様子を眺め、お婆ちゃんとふれあい、俺が食べるつもりで作ったサンドイッチを毎回半分食べてしまった。食べながら毒にも薬にもならない会話をして、午後の仕事も眺めて、日が暮れる頃に帰ってしまう。
「お婆ちゃんは死んだのに、なんでまだ動かなきゃならないんだろう」
お婆ちゃんが、生前好きだった行動を律儀に取り続ける様を見つめながら、彼女は言った。
「ゾンビはそういうもんなんだ」
「そういうもんって何? 魂がなくなった体なんて意味がない。お婆ちゃんの魂は、とっくにここにないじゃない」
そうだ、ゾンビには魂がない。
魂がないから相手構わず愛情表現をするし、ところ構わず生前と同じ行動をとる。だからそこらにいるゾンビたちは絶えず怪我をし続けて、修復し得ない新しい傷で覆われていく。俺たちは、そういう予期せぬ怪我からも、預かったゾンビを守っているのだ。
「魂がないお婆ちゃんなんて」
彼女は最近、お婆ちゃんに会おうとしない。代わりに、俺といるときに、よく笑うようになった。
「アンタの上司はいけすかないけど、アンタはいい人だね」
「そりゃどうも」
俺も笑うことが増えた。くだらない冗談なんて、母さんが死んでから思いつきもしなかったのに。
家では母さんとふたりきり、職場には滅多に生きた人間など来ない。そんな中で多くのゾンビと関わって、という日々が続いていたから、コロコロと表情の変わる可愛い女の子と話せるのは、いつのまにか日々の楽しみになっていたらしい。
彼女が来る時間が近づくと、ソワソワする自分に気がついてしまった。
その日は朝から吹雪で、職場の敷地内の積雪も凄かった。俺は朝の業務を終えて紅茶休憩をとっていた。そろそろ彼女が来る頃だと思ったが、なかなか来ない。雪で遅れているのかもと思い直した昼過ぎに、ようやく顔を出した。
「アンタの母さんもゾンビなんだっけ」
ひどく疲れた様子の彼女は、そう尋ねた。
俺が小学生のとき両親は離婚した。母さんはひとりで俺を育てて高校まで卒業させてくれた。社会に出た俺の面倒を見てくれた会社の社長さんがいい人で、母さんに早く楽をさせてやれと、多くの仕事を任せてくれるようになった。出世とまではいかずとも多忙の身となった俺は、なかなか実家に帰れなかった。盆と正月には必ず帰ったが、家にひとりで付き合いもない母さんと顔を突き合わせるのが、だんだん息苦しくなっていった。
よく笑う人だった。俺のことを一番に思ってくれる人だった。
なのに俺は、母さんのことを思い出すことが少なくなっていった。母さんの笑顔を引き出すこともできなくなっていった。
病院から連絡をもらって駆けつけたときには、もう遅かった。俺のよく知る母さんはもういなかった。けれど、ベッドにはまだ動く、まだ笑う、母さんがいた。
「ねえ」
彼女の声でハッとする。
見ると、額に汗を浮かべた彼女が、俺に手を差し出していた。思わず握り返して、ようやく気がつく。彼女の服の赤い模様は、服の柄ではなかった。
「魂がないまま動き続けるゾンビは可哀想だよ。もう本当にお別れしよう。そして、生きてる人間同士で新しい生活をしよう」
世界中にゾンビが溢れている理由は、企業が無賃金労働者を確保したいからでも、ゾンビたちがほぼ腐らず燃えもしないからでもない。
殆ど生前と同じ見た目で動いて話す人間の形をしたものを本当に塵に還すような行為をする勇気が、多くの人には備わっていないからだ。
ピンクのモデルハウスへ足を運んだ。頼んでおいた除雪も遅れているようで、彼女の足跡を辿るようにして進んだ。
部屋の中は鉄臭かった。見るまでもないと直感が告げたが、確認しない訳にはいかない。俺の網膜はそれを映して、俺の胃は痙攣して、俺の背はのけぞって、俺の体は逃げ出して、そして吐いた。
ゾンビは冷たい。生きていないから当然だ。人間は温かい。生きているから当然だ。事務所の前で震えながら俺を待っていた彼女の体は冷え切っていたが、それでも温かった。生きているから。
さっき反射的にしか握り返せなかった手を、今度はしっかりと握って、彼女の目を見た。
「一緒に生きよう」
「お婆ちゃんを解放してあげて」
事務所に通すと、彼女は椅子にふんぞり返った。
「お婆ちゃんは立派な人だった。こんな所に閉じ込められていい人じゃない」
俺はともかくも温かい飲み物を作ろうとして、やかんを火にかけた。コンロの火力を調節しながら、「こんな所」という言葉を噛み締めた。
彼女はキッチンに引っ込んだ俺に聞こえるように、声を張り上げた。
「この罰当たり」
来客用カップにインスタントコーヒーを入れ、自分用には砂糖多めの紅茶が入ったマグカップを持って、俺は彼女の前に戻った。ハタチそこそこだろう彼女は、金に染めたボブを揺らしながら、カップをさっさと空にした。
「俺たちは、お婆ちゃんを閉じ込めている訳じゃないんだよ」
「パパが頼んだんでしょ」
彼女が名乗った名前は確かに、彼女の言う「お婆ちゃん」の引受書にあった。それを確認しながら、俺は慎重に言葉を選ぶ。
「お父さんは、君がここにいることをご存知なの」
「知らない。言ってないもん」
タイトなミニスカートの裾から突き出た編タイツの脚を、彼女はさっと組んだ。蹴られるかと思った。説明してもわかってもらえる自信がなかったので、俺はため息を我慢して、外へ続くドアを再び開いた。
「ついて来て」
「何よ、お婆ちゃんを解放するまで出て行かないんだからね」
「別に追い出そうってんじゃない」
宥めながら外へ出て、元遊園地の元観覧車辺り、ピンクのモデルハウスを目指して歩き出す。
歩いている最中、彼女はずっと喋っていた。お婆ちゃんは死ぬ直前まで教師を務めていて、教え子全員に慕われていて、自分には特別甘くて優しくて、自分が訪ねるといつも特別な挨拶をしてくれた、そんなお婆ちゃんをこんな所に閉じ込めるなんて。
俺は彼女に、ピンクのモデルハウスのドアノブを捻らせた。
「お婆ちゃん!」
彼女は、部屋の隅に蹲るように座っていた小柄なお婆ちゃんに駆け寄った。お婆ちゃんは白濁した目玉を音の聞こえる方へ向け、彼女の細い手を弱々しく握り、「私の大好きな子が来てくれたねえ」と言った。
彼女はどうだと言わんばかりにこちらを向く。俺は頷いて、戻るように手招きした。彼女と入れ替わるように、俺はお婆ちゃんに近づいた。お婆ちゃんは俺をじっと見つめて腕を握り、「私の大好きな子が来てくれたねえ」と言った。
「なんで」
振り向くと、彼女はたださえ大きな目を見開いて仁王立ちしていた。
「それは、私のためだけの言葉なのに」
「これがゾンビというものなんだ」
事務所に戻りがてら、俺は他のハウスも彼女に見せて回った。どのハウスのゾンビも俺を歓待し、愛する家族に対するのと同じように振る舞った。彼女は困惑しきり、事務所に戻っても黙ったままだった。
上司はまだ戻って来ない。来客を残して帰る訳にもいかず、俺はひとり、何度も時計に目をやった。
「やっぱり、こんなのおかしい」
一時間ほど経った頃、突然呟き、彼女は立ち上がった。
「お婆ちゃんに変なことしてないか、また見に来るから」
「また?」
声が裏返る。
「変なことなんて」
「それを確認するって言ってるの」
きつい声だけ残して、彼女は去った。ドアの隙間から、冷風が吹き込んできた。
それからというもの、毎日のように彼女はやって来た。俺の後についてモデルハウスのゾンビたちの様子を眺め、お婆ちゃんとふれあい、俺が食べるつもりで作ったサンドイッチを毎回半分食べてしまった。食べながら毒にも薬にもならない会話をして、午後の仕事も眺めて、日が暮れる頃に帰ってしまう。
「お婆ちゃんは死んだのに、なんでまだ動かなきゃならないんだろう」
お婆ちゃんが、生前好きだった行動を律儀に取り続ける様を見つめながら、彼女は言った。
「ゾンビはそういうもんなんだ」
「そういうもんって何? 魂がなくなった体なんて意味がない。お婆ちゃんの魂は、とっくにここにないじゃない」
そうだ、ゾンビには魂がない。
魂がないから相手構わず愛情表現をするし、ところ構わず生前と同じ行動をとる。だからそこらにいるゾンビたちは絶えず怪我をし続けて、修復し得ない新しい傷で覆われていく。俺たちは、そういう予期せぬ怪我からも、預かったゾンビを守っているのだ。
「魂がないお婆ちゃんなんて」
彼女は最近、お婆ちゃんに会おうとしない。代わりに、俺といるときに、よく笑うようになった。
「アンタの上司はいけすかないけど、アンタはいい人だね」
「そりゃどうも」
俺も笑うことが増えた。くだらない冗談なんて、母さんが死んでから思いつきもしなかったのに。
家では母さんとふたりきり、職場には滅多に生きた人間など来ない。そんな中で多くのゾンビと関わって、という日々が続いていたから、コロコロと表情の変わる可愛い女の子と話せるのは、いつのまにか日々の楽しみになっていたらしい。
彼女が来る時間が近づくと、ソワソワする自分に気がついてしまった。
その日は朝から吹雪で、職場の敷地内の積雪も凄かった。俺は朝の業務を終えて紅茶休憩をとっていた。そろそろ彼女が来る頃だと思ったが、なかなか来ない。雪で遅れているのかもと思い直した昼過ぎに、ようやく顔を出した。
「アンタの母さんもゾンビなんだっけ」
ひどく疲れた様子の彼女は、そう尋ねた。
俺が小学生のとき両親は離婚した。母さんはひとりで俺を育てて高校まで卒業させてくれた。社会に出た俺の面倒を見てくれた会社の社長さんがいい人で、母さんに早く楽をさせてやれと、多くの仕事を任せてくれるようになった。出世とまではいかずとも多忙の身となった俺は、なかなか実家に帰れなかった。盆と正月には必ず帰ったが、家にひとりで付き合いもない母さんと顔を突き合わせるのが、だんだん息苦しくなっていった。
よく笑う人だった。俺のことを一番に思ってくれる人だった。
なのに俺は、母さんのことを思い出すことが少なくなっていった。母さんの笑顔を引き出すこともできなくなっていった。
病院から連絡をもらって駆けつけたときには、もう遅かった。俺のよく知る母さんはもういなかった。けれど、ベッドにはまだ動く、まだ笑う、母さんがいた。
「ねえ」
彼女の声でハッとする。
見ると、額に汗を浮かべた彼女が、俺に手を差し出していた。思わず握り返して、ようやく気がつく。彼女の服の赤い模様は、服の柄ではなかった。
「魂がないまま動き続けるゾンビは可哀想だよ。もう本当にお別れしよう。そして、生きてる人間同士で新しい生活をしよう」
世界中にゾンビが溢れている理由は、企業が無賃金労働者を確保したいからでも、ゾンビたちがほぼ腐らず燃えもしないからでもない。
殆ど生前と同じ見た目で動いて話す人間の形をしたものを本当に塵に還すような行為をする勇気が、多くの人には備わっていないからだ。
ピンクのモデルハウスへ足を運んだ。頼んでおいた除雪も遅れているようで、彼女の足跡を辿るようにして進んだ。
部屋の中は鉄臭かった。見るまでもないと直感が告げたが、確認しない訳にはいかない。俺の網膜はそれを映して、俺の胃は痙攣して、俺の背はのけぞって、俺の体は逃げ出して、そして吐いた。
ゾンビは冷たい。生きていないから当然だ。人間は温かい。生きているから当然だ。事務所の前で震えながら俺を待っていた彼女の体は冷え切っていたが、それでも温かった。生きているから。
さっき反射的にしか握り返せなかった手を、今度はしっかりと握って、彼女の目を見た。
「一緒に生きよう」