ゾンビは悲しい
「こちら温めますか」という問いにぼんやり「お願いします」と返し、しかし一向に動き出そうとしない店員に目をやって、そう言えばこの子も随分前からゾンビになってしまってたんだっけと気づく。可愛い子だったのに、今はよく口にしていた言葉を繰り返し、視点の合わない眼球をぐるぐるさせるだけだ。
仕方ないので、無駄に力強いその手から弁当をもぎ取り、金だけ払って外へ出る。日差しは眩しいが、雪がちらちら舞っている。そこここに転がったままの人の姿があり、俺はそれらをスケート選手のように避けて、滑り歩く。
みんなゾンビだ。関節の動きが悪くなっていて、氷でコケてそのままなのだ。ゾンビだから感覚はないだろう。でも姿は人間のままだから、顔を氷にくっつけているのはなんだか物悲しい。このゾンビの家族は、このゾンビがここでこうしていることを知っているのだろうか。
きっと知らないのだ、知っていたら放置はしない。もしくは、その家族らもゾンビになってしまったか。
ゾンビは悲しい。
魂は死んでいるのに、肉体だけが惰性で生きている。寄生虫に操られて自我を失くしたカタツムリみたいなものだ。ただ、彼らを操る寄生虫は存在しない。ゾンビはただゾンビとして動いている。生きているのではなく。ただ死んでいないだけの存在として。
いつのまにかこの町にも随分とゾンビが増えた。どんな理由で死んだとしても、なぜだかその死体はなかなか腐らず、よく動く。理由を解明しようとして彼らを解剖した専門家たちも皆ゾンビになり、恐らくこれは一種の感染症なのだろうというところで落ち着いた。生前より丈夫で、不思議に燃えない死体。
車通りの絶えた大きな車道を悠々と歩き、自宅に帰る。冷たい弁当を口に放り込む。それから仕事道具をまとめてリュックのように背負い、台所を覗いた。
「母さん、行ってきます」
「行ってらっしゃい。気をつけて」
もう永遠に歳を取らなくなった母さんは、生前、よく口にしていた言葉で俺を見送る。
人を襲わないゾンビ。
ホラー映画やアクションゲームですっかり「人を襲うゾンビ」という概念と仲良しになっていた俺たちは、そんなものが存在し得るなんてと驚愕した。現実のゾンビたちは、映画やゲームよりもっとずっと大人しくて穏やかで、そしてどうしようもなく悲しかった。人を襲わない、生きていない、けれど生前の動きを憶えている、人間の形をしたもの。彼らがいつになったら腐敗し、動きを止めるのか、今のところ誰にもわからない。
ゾンビの人権が取り沙汰されるより早く、企業はそれらを、人件費のかからない戦力と判断した。可愛いかった、コンビニ店員。ゾンビの家族たちは、ただ無意味に動かれるより、それが例えタダ働きであっても、生前と同じように働いているゾンビを見ている方が慰められたらしい。家族の承諾さえ得られれば、企業はゾンビを働かせ放題だ。だから街には生きている人間と同じくらいのゾンビがいて、虚な眼差しで労働している。
そうは言っても、家族を死んだ後まで働かせるなんてと思う人間もたくさんいる。そういう人たちはだいたい、しばらくの間、ゾンビと共に暮らす。だが、そんな不自然なことが長く続けられるはずもない。
死体は死体なのだ。例え生きているように動いているとしても。生きているように感じられたとしても。
生きて歩いている人間と、死んで動いているゾンビと、氷の上に転がっているゾンビとの間を渡り歩き、俺は職場にたどり着く。かつては遊園地だったというだだっ広い敷地に、安っぽいが一応は機能する、何軒ものモデルハウス。そのひとつひとつに、俺の上司が預かったゾンビたちが住んでいる。
上司は不在のようだった。事務所で昨晩までの記録を確認してから、俺はでかいクローゼットの中に半身を入れて、目当ての品を引っ張り出す。
薄汚れた青緑のツナギ。もう自分の皮のような気さえするそれに着替えて、鏡に向かって軽く髪を整える。今から向かうモデルハウスに住むゾンビの、息子に扮する。
モデルハウスとは言うが、要は人が三人ほど入れるスペースが、部屋を模して作られているだけだ。各ゾンビが生前暮らしていた部屋と、そっくりに誂えてある。俺は茶色いハウスに入って、安楽椅子に座っていた爺さんゾンビに手を上げて挨拶した。爺さんゾンビは、歯の抜けた口内を見せて『笑った』。
爺さんゾンビは寿命で亡くなった。少なくとも、長生きしてから亡くなった。長いこと音信不通だった息子は爺さんがゾンビになってしまってから帰ってきて、その体にすがりつき、どうしようもなくて、ここを頼った。いつまで続くのかわからない死後の、その幸福を、少しでも味わわせてやりたい、と。
俺の仕事は、ゾンビの暮らしを少しでも幸福にしてやることだ。生前暮らしていたのと似た部屋で、生前愛していた人の訪問を待ちながら、『余生』を過ごす彼ら。俺は爺さんゾンビの息子になりきって、その歓待の言葉を聞く。
「遠いのに、ご苦労さん」
しわがれ、聞きづらい、けれども確かに発される言葉。
俺はモデルハウスのゾンビたち全員の待ち人だ。子供、甥姪、兄弟姉妹、もしくは母や父、何にでもなる。ゾンビたちにとって、俺が本物に見えるかどうかは関係ない。ただその燃え滓で動く脳が、薄ぼんやりとでも、俺を知っている人間だと認識しさえすればいい。
終日、俺は簡単な扮装で敷地を巡る。
「ワタシらは、終わりの見えないままごとを仕事にしてる」
煙草の煙の奥から、上司がいつか吐き出した言葉。あまりに言い得て妙な言葉。この新規事業は、果たして来年まで保つものなのか。いいペースで顧客は増えているし、ゾンビは食費も電気代も要らない。そしてこの仕事は、誰も不幸にしていない。
そう思っていた。彼女に会うまでは。
仕方ないので、無駄に力強いその手から弁当をもぎ取り、金だけ払って外へ出る。日差しは眩しいが、雪がちらちら舞っている。そこここに転がったままの人の姿があり、俺はそれらをスケート選手のように避けて、滑り歩く。
みんなゾンビだ。関節の動きが悪くなっていて、氷でコケてそのままなのだ。ゾンビだから感覚はないだろう。でも姿は人間のままだから、顔を氷にくっつけているのはなんだか物悲しい。このゾンビの家族は、このゾンビがここでこうしていることを知っているのだろうか。
きっと知らないのだ、知っていたら放置はしない。もしくは、その家族らもゾンビになってしまったか。
ゾンビは悲しい。
魂は死んでいるのに、肉体だけが惰性で生きている。寄生虫に操られて自我を失くしたカタツムリみたいなものだ。ただ、彼らを操る寄生虫は存在しない。ゾンビはただゾンビとして動いている。生きているのではなく。ただ死んでいないだけの存在として。
いつのまにかこの町にも随分とゾンビが増えた。どんな理由で死んだとしても、なぜだかその死体はなかなか腐らず、よく動く。理由を解明しようとして彼らを解剖した専門家たちも皆ゾンビになり、恐らくこれは一種の感染症なのだろうというところで落ち着いた。生前より丈夫で、不思議に燃えない死体。
車通りの絶えた大きな車道を悠々と歩き、自宅に帰る。冷たい弁当を口に放り込む。それから仕事道具をまとめてリュックのように背負い、台所を覗いた。
「母さん、行ってきます」
「行ってらっしゃい。気をつけて」
もう永遠に歳を取らなくなった母さんは、生前、よく口にしていた言葉で俺を見送る。
人を襲わないゾンビ。
ホラー映画やアクションゲームですっかり「人を襲うゾンビ」という概念と仲良しになっていた俺たちは、そんなものが存在し得るなんてと驚愕した。現実のゾンビたちは、映画やゲームよりもっとずっと大人しくて穏やかで、そしてどうしようもなく悲しかった。人を襲わない、生きていない、けれど生前の動きを憶えている、人間の形をしたもの。彼らがいつになったら腐敗し、動きを止めるのか、今のところ誰にもわからない。
ゾンビの人権が取り沙汰されるより早く、企業はそれらを、人件費のかからない戦力と判断した。可愛いかった、コンビニ店員。ゾンビの家族たちは、ただ無意味に動かれるより、それが例えタダ働きであっても、生前と同じように働いているゾンビを見ている方が慰められたらしい。家族の承諾さえ得られれば、企業はゾンビを働かせ放題だ。だから街には生きている人間と同じくらいのゾンビがいて、虚な眼差しで労働している。
そうは言っても、家族を死んだ後まで働かせるなんてと思う人間もたくさんいる。そういう人たちはだいたい、しばらくの間、ゾンビと共に暮らす。だが、そんな不自然なことが長く続けられるはずもない。
死体は死体なのだ。例え生きているように動いているとしても。生きているように感じられたとしても。
生きて歩いている人間と、死んで動いているゾンビと、氷の上に転がっているゾンビとの間を渡り歩き、俺は職場にたどり着く。かつては遊園地だったというだだっ広い敷地に、安っぽいが一応は機能する、何軒ものモデルハウス。そのひとつひとつに、俺の上司が預かったゾンビたちが住んでいる。
上司は不在のようだった。事務所で昨晩までの記録を確認してから、俺はでかいクローゼットの中に半身を入れて、目当ての品を引っ張り出す。
薄汚れた青緑のツナギ。もう自分の皮のような気さえするそれに着替えて、鏡に向かって軽く髪を整える。今から向かうモデルハウスに住むゾンビの、息子に扮する。
モデルハウスとは言うが、要は人が三人ほど入れるスペースが、部屋を模して作られているだけだ。各ゾンビが生前暮らしていた部屋と、そっくりに誂えてある。俺は茶色いハウスに入って、安楽椅子に座っていた爺さんゾンビに手を上げて挨拶した。爺さんゾンビは、歯の抜けた口内を見せて『笑った』。
爺さんゾンビは寿命で亡くなった。少なくとも、長生きしてから亡くなった。長いこと音信不通だった息子は爺さんがゾンビになってしまってから帰ってきて、その体にすがりつき、どうしようもなくて、ここを頼った。いつまで続くのかわからない死後の、その幸福を、少しでも味わわせてやりたい、と。
俺の仕事は、ゾンビの暮らしを少しでも幸福にしてやることだ。生前暮らしていたのと似た部屋で、生前愛していた人の訪問を待ちながら、『余生』を過ごす彼ら。俺は爺さんゾンビの息子になりきって、その歓待の言葉を聞く。
「遠いのに、ご苦労さん」
しわがれ、聞きづらい、けれども確かに発される言葉。
俺はモデルハウスのゾンビたち全員の待ち人だ。子供、甥姪、兄弟姉妹、もしくは母や父、何にでもなる。ゾンビたちにとって、俺が本物に見えるかどうかは関係ない。ただその燃え滓で動く脳が、薄ぼんやりとでも、俺を知っている人間だと認識しさえすればいい。
終日、俺は簡単な扮装で敷地を巡る。
「ワタシらは、終わりの見えないままごとを仕事にしてる」
煙草の煙の奥から、上司がいつか吐き出した言葉。あまりに言い得て妙な言葉。この新規事業は、果たして来年まで保つものなのか。いいペースで顧客は増えているし、ゾンビは食費も電気代も要らない。そしてこの仕事は、誰も不幸にしていない。
そう思っていた。彼女に会うまでは。
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