君を地獄へ帰さない

 壁に掛けられた時計から夜がきたと判断して、俺と佐々はそれぞれの寝台に潜り込んだ。照明を消してすぐ、佐々の規則正しい寝息が聞こえてくる。ああ、ちゃんと生きている。佐々は、今、生きている。
 目を閉じると、あの日、ガラス越しに見た地獄が浮かぶ。あのときの佐々は、生きていなかった。父親のストレスの捌け口になることを、甘んじて受け入れてしまっていた。それは、普段、教室で目にする尖った彼とは全然違っていて、俺はどうしようもなく、彼のために何かをしてやりたくなった。
 このまま、出られなくていい。母さんや父さん、愛犬にもう会えないかもしれないのは寂しいけれど、でも、きっと慣れる。人間、何でも慣れだって、父さんもよく言ってる。きっと、このホテルの一室で、佐々とふたりきりの生活にも、慣れることができる。楽しく生きていける。
「ん……」
 隣の寝台から、微かな声がした。佐々の細い声が、しきりに誰かに謝っているのが分かった。
「ごめんなさい……ごめん……」
 俺はそっと寝台から降りて、闇に慣れた目で、佐々を見下ろした。その頬に伝う、水滴を拭う。
 大丈夫。きっと、何とかなる。
 暗闇の中で、佐々が微笑んだ、気がした。
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