50話  Holy valentine for you.

 天使の家には、誰もいなかった。主人不在の白く清潔な部屋に陣取って、もう四日になる。つまり、あのメッセージを受け取って、もう一週間が経つということだ。あれから、天使が家にいないことを知った俺は、とにかく一週間は待とうと決めた。そのために、あの後、この四日分ほどの仕事を急いで片付けて来たのだった。
 あいつは家にいない、出張でもない、ただ休みをとって、音信不通。いくら考えても、その行き先に、心当たりが全くない。まして、俺に何も言わずに行ってしまうような場所なんて。天使がスマートフォンを家に忘れたという可能性も、ここに来てすぐ調べた結果、なくなった。
 これは絶対に、何かあったのだ。
 だから、メッセージを信用して一週間は待って、それでもあいつが帰ってこなかったら、そのときは探しに行く。そう決めて、それからずっと、この椅子に座っているのだった。
「ご主人様……、気ばらしに、コーヒーでも召し上がりませんか」
 ダイアナと一緒についてきた、コウモリの使い魔が言う。俺はその透き通る羽根を撫でながら、首を振る。
「気を遣わせて悪いな。だが、大丈夫だ」
 何かを口にする気力すらなかった。こんな不安は、本当に、百年前のあのとき以来だ。きっと使い魔たちも、俺のそんな感情を敏感に察知しているのだろう。ダイアナとコウモリ以外は表に現れないが、ざわついている気配があった。
 小さな部屋の、小さな窓の外が、夕日で染まっていく。やがて、紅は深い藍色に沈んで、消えた。
 夜が来た。一週間目の。
「……もう待ってられん。探しに行く」
 立ち上がってドアノブに手をかけたのと、ドアが開いたのとは、同時だった。
「え」「あ」
 そこには、口をポカンと開けた、俺の天使が立っていた。抜ける晴天の瞳が、ぱちぱちと瞬く。
「え? ど、どうしたんだいラブ?」
「どうしたって……。いや、お前こそ、今の今まで、どこで何をしてたんだ。メッセージの既読すらつかないから、俺は心配して……」
 あとは言葉にならなかった。一気に体から力が抜けて、俺はその場にしゃがみ込んだ。
「わあ、大丈夫か。ほら、とりあえず椅子に座ろう。な?」
 優しい手に促されて、俺は再び、慣れ親しんだ椅子に戻った。隣に椅子を引きずってきた天使は、俺の背中を撫でた。たった一週間ぶりのその温もりが懐かしくて、安心する。
「そうか、心配をかけてしまったみたいだね……悪かったよ。心配しないでくれと書いても、お前は私のことを気にしてくれるんだな」
 百年前も、そうだったもんな、と、穏やかな声がそばで言う。
「でもそう考えると、お前の目を逃れるために天界に行くことにしたのは、やっぱり正解だったな」
 聞き捨てならない言葉に、俺は顔を上げた。
「天界に行っていたのか? ……俺の目を逃れるために?」
 意味がよく分からない。首を傾げる俺に、天使はちょっと視線を泳がせた。
「ああ。……えっと、その……お前はほら、勘がいいだろう。私が何かしていたら、必ずやって来る。だけど、こればかりは、こっそり仕上げたかったんだ」
 そこでようやく、俺は天使が何か、袋を抱えていることに気がついた。
「バレンタインの、お菓子だよ。百年前は、お前からもらったままだったから……今年は私が渡そうと、ずっと思っていたんだ」
 ハッピーバレンタイン、と、照れ臭そうに、包みを手渡される。俺は、返事をする間もなく気を失いそうになった。この一週間、天使のことで頭がいっぱいになっていて、聖バレンタインの祝祭のことなど、完全に忘れ去っていた。
「……あ、ありがとう、エンジェル……」
 何とか受け取って、声を絞り出す。
「本当はここでラッピングをしてから渡しに行くつもりだったんだが……まさか、お前がいるとは思っていなかったから」
「中身を見ても?」
「もちろん」
 紙包をめくっていくと、中には小さめのチョコレートケーキがワンホール。素朴なデコレーションがこいつらしい。以前も俺のためにケーキを作ってくれた天使の、少々危なっかしい手つきを思い出し、思わず頬が緩む。これを作るのに、時間がかかったのだろう。……いや、それにしても、かかりすぎではないか。
「天使サマ、これを作るのに一週間かかったのか?」
 俺の疑問に、天使は頬を染めて俯いた。
「いや、その……完璧に仕上げたかったから五日ほど練習して、六日目に完成できたから帰って用意をしようと思ったんだけれど……気持ちを込め過ぎたらしくて……神聖なケーキになってしまったんだ。その聖気を抜くために、一日、人間界をうろついていた」
「…………そうか」
 聖水が悪魔に効くのは、それが純粋な信仰心に晒されてできたものだからだ。それを造ることは信仰心に篤い人間にも可能だが、天使は祝福することで、水以外のものにも聖気を込めることができる。それは、聖水と同じ効果……俺くらいの悪魔でも触れただけで消滅する神聖さを備える。しかし、そんな祝福は、なかなか為されない技でもある。それを、目の前の天使は、無意識に行ったと言う。俺への気持ちを、込めただけで。
 俺の手の中にあるのは、天使が祝福したケーキだ。
「ちゃんと抜けてるんだろうな。下手をすると、俺は消えちまうぜ」
 笑いながら尋ねると、天使も微笑んだ。
「大丈夫。人間界のいろんなところをうろついてきたから、たっぷり邪気を吸って、代わりに神聖さは抜けているはずだよ」
「…………」
 何だか、非常にもったいない気がする。
 複雑な気分になりつつも、俺は指を鳴らした。ティーポットとカップを天使の前に。俺の前には、湯気を立てているコーヒーを。
「それじゃあ、天使サマのケーキをいただくとしよう。……で、自分の分はあるのか?」
「もちろん。お前と一緒に食べたかったからね」
 ニコニコと、天使はもうひとつの袋から、同じケーキを取り出した。
「ふふ。元々、聖バレンタインの祝祭なんて、私にとってもお前にとっても、そう特別なものではなかったはずなんだがな。あのときから、お前のお陰で、特別になった」
 ありがとう、と、天使は言う。
 ああ、俺は何を心配していたのだろう。一瞬でも、この俺への愛情が薄れたかもしれないなどと。そんなことは、あり得ないのだ。これからも、永遠に。
「礼を言うのは、俺の方だ。エンジェル……いつも特別を、ありがとう」
 カップを、軽くぶつけ合わす。会ったことのない聖人に感謝しながら、久しぶりのティータイムが始まった。
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