50話  Holy valentine for you.

 二月初めの白けた空の下、俺は急いで、あいつが普段、勤務している教会へ出かけた。もちろん、中に入ることはできない。クリスマスでもないのに見事に醸成された神聖な空気が、信者の出入りと共に、近辺へ漏れ出しているのが分かる。その外壁の前にたどり着いた途端、中から目当ての人物が飛び出してきた。黒いカソックに身を包んだ、若い司祭……エクソシズムを修めた正真正銘のエクソシスト、マイケルだ。邪悪の気配に敏感な彼は、教会の中からでも、俺の接近に気がついたらしい。明るいブラウンの髪を風にそよがせながら、駆け寄って来た。
師匠せんせい! 今日はどうなさったんです? ぼくの力が必要になることでも?」
「ああ。今こそ、お前が必要だ」
 何の因果か、悪魔である俺のことを力のあるエクソシストだと勘違いしている司祭は、大きな目を輝かせた。
「本当ですか! ぼくでお役に立てることであれば、何なりとお申し付けください! 火の中でも水の中でも、飛び込んで見せますよ!」
 こいつは、悪魔を何だと思っているのだろう。ホラー映画の見過ぎではないだろうか。
 しかし、その情熱は、単純にありがたい。
「実はな、マイケル。お前の同僚の……あの、影の薄い、美しい金髪碧眼の司祭がいるだろう。あいつの所在を知りたいんだ」
「金髪碧眼で、影が薄い……」
 人間に対して印象を薄められる天使は、邪悪に敏感なマイケルにとっても、やはり印象が薄いようだ。少しばかり間が空いたが、やがて司祭は「ああ!」と声を上げた。
「先輩のことですね! え、師匠は、先輩と、お知り合いだったんですか?」
「まあな。……それで、どうなんだ? 俺は、出張だと聞いたんだが……どこに派遣された?」
 俺の問いに、司祭はキョトンと首を傾げた。
「出張? いえ、先輩は出張なんてしてないはずですよ。聞いていません」
「は……」
「確か、一週間くらい休みをいただくとお話なさっていました。何か、やることがあるとか」
 今度は俺が、黙る番だった。
 あいつは、出張をしていない? じゃあ、あのメッセージは何だったんだ?
「師匠? 大丈夫ですか? ただでさえ顔色がお悪いのに、蒼白になってますが……」
「いや大丈夫だ大丈夫教えてくれて助かったよありがとうなそれじゃあ」
 息継ぎというものを完全に忘れてしまった俺に、マイケルは尚も言葉をかけてくれようとしていたが、俺はそれどころではなかった。ふらつく足取りで家に帰り、もう一度よく、受け取ったメッセージを見直す。
『明日から一週間、遠方に行かなくてはならないんだ。その間、連絡は取れなくなるけれど、心配しないでくれ』
「遠方に行かなくてはならない……」
 この文章から、俺はてっきり、教会の仕事で出張に行くのだとばかり思っていた。悪魔のように世界中を飛び回る仕事はなく、行動範囲の限られている天使が遠方に行くとなれば、それは所属している教会の仕事だと考えるのが普通だからだ。だが確かに、どこにも「仕事で出張に行く」などとは書いていない。
「俺の早とちりだった、のか……」
 天使は、出張しているわけではない。何の用事かは書いていないが、嘘のつけない天使が打った文章だから、そこに偽りはないだろう。
 だが、そう分かったからと言って、俺の気持ちが明るくなるわけでは、全然なかった。むしろ、気はますます滅入っていく。
 出張ではなしに遠方に行くとは、どういうことだ?
 あいつに限らず、天使にはそもそも「私事」という概念が希薄だ。全知全能のご主人サマのために身を粉にして働く天使たちは、よほどのことがない限り、個人の用事を優先したりなどはしない。よほどのこと。よほどのこととは、何だ?
 机に向かって頭を抱え、俺は呻いた。あいつが仕事を休んでまでする何事かなんて、思いつかない。ひょっとして、何か……百年前のあのときのような不調が、起きたのではないか。天使としてはあるまじき、悪魔を思い慕ったが故の堕天の兆候が、再び、現れたのではないか。俺とあいつの間にあるこの感情は、あのとき、天からの祝福を得た。だが、それが永遠なのか……いつか気まぐれのように失われてしまうのではないか、という危惧が、頭から離れたことは、実はない。
 それは最悪の想像だが、他にも、嫌な想像が次々と思い浮かぶ。堕天の兆候ではないにしても、あいつの身に何か起きたのではないか。人間であるならば「お人好し」と形容されて然るべきあの天使は、人間の不良どもに絡まれたときでも、絡まれているという自覚を持っていなかった。夏に海辺で仕事をしていたときも、俺が介入しなければ、人間体を薬漬けにされていたかもしれない。いくら天使が奇跡を行使できたとしても、それが事態に間に合わないことだって、あるかもしれないのだ。
 あとは、以上二つの想像よりは遥かにマシだが、俺個人にとっては最悪なパターン。俺以外に好きな相手でも、できたのかもしれない、という想像だ。もちろん、あいつと俺の関係性が弱まるなどということは、あり得ないとは思っているが……、しかし、現に、あり得ないと思っていた恋が、成就しているのだ。この世に、あり得ないことなどない。あの天使にとっての初めての恋は俺だったかもしれないが、第二の恋が存在していたとしても、おかしなことはないのだ。
「いや……いや、さすがに、それは……それはないだろ」
「お、お兄様、お帰りなさい。暗い部屋でひとり、ぶつぶつ言ってるのは怖いわよ……」
 ギョッとしたように言いながら、どこからともなく現れたダイアナが、照明をつけてくれた。
「ああ、悪いな……心配をかけて」
「お兄様の心配をするのは、使い魔として当然よ。その感じだと、出張先が特定できなかったの?」
「まあ、そんなところだ……」
 正確な答えを返す気にもなれず、俺はそのまま、机に顔を伏せた。
「お兄様……」
 ダイアナがオロオロとしているのを感じながら、暫く、そのままの姿勢で考えた。あいつは、出張には行っていない……となると、本当にひょっとするとだが、在宅している可能性も、あるということだ。
 俺は、つい数十分前にもしたように勢いよく立ち上がり、天使の家へ向かった。
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