39話 少女と悪魔

 繁忙期は過ぎたにもかかわらず溜まっていた仕事をどうにか片付け、ほっとしているところに、天使が訪ねて来た。疲れているときに見る愛しい姿は、ご主人サマからのお褒めの言葉なんかよりも、よほど効く。
「どうも、人界は落ち着かないね。主が何を考えているのか、少しでも知られればと思うよ」
 コウモリが運んで来た紅茶に口をつけながら、天使はため息をついた。美しい眉が、愁いにひそめられる。個人的な悩み事なら何とかしてやれるが、人界全体の流れに関しては、俺にしてやれることはない。自分のそういう無力さに腹立たしさすら感じながら、俺は静かに相槌を打つ。
「俺のところのご主人サマは、お前のところのご主人サマよりは、分かりやすくて助かってるよ。基本的方針は、いつでも変わらないからな」
「そうか、そういうところはちょっと、羨ましいかな」
 この天使は、時おり本当に、天使としてどうかと思う発言をする。それでいて、魂は他の何者よりも汚れない白さを保っているのだ。まさに、奇跡としか言いようがない。顔を合わせる度に更新される、その白さへの感嘆に身を浸す。
 天使は、お代わりの紅茶を運んで来たコウモリを面白そうに眺めながら、「そう言えば」と口を開いた。
「お前は前に、ヒト型の使い魔も使役できるとか言っていたな。ヒト型っていうのは、どんな感じなんだい」
 可能ならば見てみたい、という気持ちが、声から滲み出ている。普通、天使は、与えられた役割に関係のないことには、あまり興味を向けないものだ。天使に恋した悪魔である俺が変わり者なら、この天使もこの天使で、やはり変わり者だ。
「ふん……実は俺も、ひとり、お前に紹介したいと思っていたところだ。ちょうどいいから、呼んでやるよ」
「おお!」
 天使は、美しい瞳を見開いて笑みを深めた。俺は指を鳴らして、使い魔の名前を呼ぶ。
「ダイアナ」
「はぁい」
 可愛らしい声が聞こえ、空中から少女……ダイアナが現れる。広がるスカートの裾を押さえながら着地したダイアナは、俺に向かって首を傾げた。
「何か用事かしら、お兄様?」
「ああ。こちらのお客様に、ご挨拶を」
 そこで初めて天使の存在に気が付いたらしいダイアナは、慌ててそちらに向き直った。にこにこと自分を見守っている天使を見て、少女の使い魔は、顔を赤くした。
「あっ、あの……、お噂はかねがね……。だ、ダイアナです。よろしくお願いしますっ」
「ご丁寧に、ありがとう。こちらこそ、どうぞよろしく」
 ダイアナが照れているのは、目の前の天使が、俺の愛と崇拝の対象であることを知っているからだろう。俺がわざわざ言わなくとも、コウモリや他の使い魔の連中から聞いている筈だ。
 ダイアナは、俯いてはにかんでいる。元・敬虔なクリスチャンである彼女の心中は、あまり穏やかではないかもしれない。
「しっかり挨拶できたな。それじゃあダイアナ、外出して来ていいぞ」
「え、本当? やった! 買い物してもいい?」
「ああ。ただし、街中を歩く時は……」
「姿を変える! 分かってるわ」
 ありがとうお兄様、とお辞儀をして、ダイアナはぱっと姿を消した。天使はその桃色の唇を半ば開いて、驚いたような顔をした。
「使い魔なのに、人間たちの中に混じらせていいのか」
「ああ。あいつは特別なんだ。使い魔にする際の契約で、俺の与えた仕事を遂行するとき以外は、基本的に自由にさせてる」
 へえ、と感心したような天使に、ダイアナを使い魔にした、いきさつを話してみようかと思い立つ。俺が人間の命を救おうとしたなんて話をしたら、一体こいつは、どう思うのだろう。
「あいつは元は、人間でな」
 俺が話し始めると、天使は身を乗り出した。少女の使い魔と同じ色の髪と瞳が、好奇心に輝く。秋の穏やかな午後が、ゆっくりと過ぎていく。
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