38話 ある天使の肖像

 秋が過ぎ、冬になった。初雪が降ったその日、教会壁画の修復は完了した。色褪せていた聖人たちは鮮やかに蘇り、日曜に礼拝に来る信者たちの評判も上々だった。仕事の後片付けを手際よく行う画家に礼を言うと、彼はやはりいつものように微笑んだ。
「頼まれた仕事をしたまでです。喜んで頂けたのならよかった」
 報酬を受け取った彼は顔を綻ばせ、初めて、私を食事に誘ってくれた。
 街の小さな店で、彼は手にしたばかりの金貨を使ってご馳走してくれた。教会やアトリエで見るのとは違う、芸術から離れた男の朗らかな顔を、私はそのとき初めて見たのだと思う。
「神父様。よい仕事に携わることが出来て、本当に嬉しく思います。よきご縁、それを導いてくれた主に感謝しています」
「こちらこそ、存分に力を発揮していただきまして、ありがとうございます。信者も喜んでおりますよ」
 笑い合いながら食事を終え、アトリエに向かう道で、男はぽつりぽつりと話しだした。首都にいる師匠の容態が思わしくない。急な話ではあるが、もう明日には荷物をまとめて、この街を発たなくてはいけない。
 まだひと月ほどは滞在すると聴いていたので驚きはしたが、そういう事情なら早く向かうに越したことはない。行って顔を見せて、安心させておやりなさい、と言うと、男は頷いた。しかし、まだ何か気がかりな様子で、歩調も遅い。
「‥‥‥神父様、それでお願いなのですが」
「私で出来ることなら、何でも協力しますよ」
 交通手段の手配などだろうかと思いながらそう請け合うと、男は思い切ったように顔を上げて、私の目をまっすぐに見つめた。
「今晩で、あの肖像を仕上げたいのです。わがままなのは重々承知で申し上げます‥‥‥、神父様のひと晩を、私にいただけませんか」
 他人の時間を奪うことへの罪悪感と天秤にかけて、それでもなお、彼がやり遂げたいことなのだ。これまでのやり取りからも、それはよく伝わってきた。どうせ、天使には睡眠の必要はない。彼がそれで安らかに出発できるのなら、私に文句はなかった。
「ひと晩、眠らないくらい、どうということはありません。結構ですよ」
 私の答えに、男は夜目にも分かるほど、表情を輝かせた。何度も礼を言われながらアトリエに着き、すっかり片付けの済んだ室内で、これまでと同じようなやり取りを交わしながら、夜を過ごした。
 明け方になって、彼は完成した絵を見せてくれた。そこには、紛れもない、私の姿があった。ひとつの表情、ひとつの定められたポーズをとる私ではない。彼と幾晩にも渡って交わした言葉、感情が、ひと筆ひと筆に乗ったそれは、彼と過ごした私に他ならなかった。精緻な筆遣いに、彼の真心がこもっているのがよく分かり、胸が暖かくなる。
「素敵な絵になりましたね。これは、正真正銘、私に他なりません」
 朝の清浄な日に照らされた絵を見て言うと、男は涙ぐんだ。
「描かせていただきまして、ありがとうございました。本当は写しを作って神父様にも差し上げたかったのですが、今は時間がありません。首都に戻って写しを作り、必ずお手元にお届けしますから」
「いえいえ、私のことなどは、お気になさらないでください。こうして描いていただけて、貴方のためになれたのですから、これ以上のことはありませんよ」
 本当にありがとうございます、と何度も頭を下げる男に見送られながら、私はその家を後にした。恐らくその日のうちに街を出立した彼とは、それから暫くの間、会うことはなかった。彼と再会したのは、それからおよそ二十年後のことだ。
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