38話 ある天使の肖像

 そうして、昼間は教会で、夕方から夜にかけては男のアトリエで、彼と過ごすようになった。彼は本当に仕事熱心で、壁画の修繕は予定よりも早く仕上がっているようだったが、私をアトリエに招いて行う、彼の言葉で言えば「趣味」に対しても、相当、力を入れているようだった。それは、彼が私とキャンバスとを見つめる目で分かった。職人の目と言うよりも、それはむしろ、熱心な信仰者のものだった。
 彼のアトリエは、言ってしまえば彼の自宅だった。家財道具などは最低限の物しかなく、小さな寝台が窓際に置いてある程度で、あとは画材しか見当たらない。服などは数着、彼がいつも着ている絵具染みだらけの作業着とさして変わらないものが壁に掛かっているのみだ。床には所狭しと紙や筆、絵具の類が散らばっており、ひとつだけしかない机の上も床と殆ど同じ状況だ。天井から壁にかけては乾くのを待っている作品が吊り下げられ、作品の構想やメモが壁中に貼り付けられていた。賃貸の部屋のようだが、これでは大家さんにいい顔をされないだろう。
 男は部屋の中心に椅子を置いて私を座らせ、自身は寝台に腰かけてキャンバスと向かい合った。
「神父様、その‥‥‥描いている間、話しかけてもよろしいですか」
「ええ、もちろんですよ」
 ただ黙って壁を見つめている、というのも、特に苦痛ではないが、その方が彼の作業がしやすいのなら、それに越したことはない。私としても、普段あまり接する機会のない職業の人間と話が出来るのはありがたかった。
 男は絵筆を使いながら、私に色々な話題を投げかけた。それはときには単なる質問だったり、私の意見を尋ねるだけのものであることも多かった。彼自身がその話題に興味があるという風ではなく、彼の言葉に返す私の表情の動きを追おうとしているように思えた。
「神父様は、何をされているときが、一番、心が休まりますか」
「神父様は、神について、どう解釈されていますか」
「神父様の好きな食べ物は何ですか」
「神父様は、昨今の国内の情勢について、どうお考えですか」
 そんな調子の質問の間に、彼自身についての話も差し挟まった。それによると、彼はここよりも更に田舎の町に次男として生まれ、あらゆることにおいて長男と比較されて育ったらしい。腕っぷしも強く頭もよかった兄は両親の期待を背負っていたが、弟である彼は、兄に匹敵するものの持ち合わせがなかった。手慰みにと地面に描いていた絵を、町に来ていた美術教師が目に留めてくれるまで、彼には何もなかった。期待も愛情も、彼には注がれることがなかったのだ。
「首都から来ていた先生に引き取っていただかなければ、私はあのままごくつぶしの次男坊として煙たがられ、ひとつの自信も持てないまま、生きていたでしょうね」
 そう言う彼の笑顔には、しかし自嘲のかけらもない。ものごとをありのまま見る、そういう性質が、彼を芸術の道に導いたのかもしれなかった。
「その美術教師というのは、今は?」
「少々、体調を崩してはいますが、健在です。でも、私ももういい歳ですから、いつまでもそのお膝元に安穏としてもいられないでしょう」
 だから独立して、数々の町を回りながら画題を探しているのだと、男は言った。実はこの街にも、あと半年ほどしかいる予定はないのだと。
「しかし、‥‥‥神父様のようなお方と出逢えるとは思ってもいませんでした。最初に見たとき、教会に天使が舞い降りたのだと、本当に思ってしまったんです。目の前の天使様を描くために、私はこの街に来たのだと思いました」
 そんなことを話すとき、男の目は潤んだ。彼が私を描くことに、彼が抱えている情熱の、ほとんど全てを傾けているのだということが、それでよく分かった。彼にとって、芸術は恐らく、単なる仕事ではないのだ。
 毎晩、私がアトリエを辞す前に、彼はその日の進行具合を見せてくれた。最初は線の集合にしか見えなかったのが、日を経るごとに色が付き、影が付き、形になっていくのが面白かった。人間の目から見えている私を知ることが出来て、不思議に充実した気持ちになった。
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