38話 ある天使の肖像

 それから半年ほど、男は教会に通った。彼の仕事道具はとても多く、筆だけでも何種類もあった。彼はそれらを桶にまとめて入れ、細い腕で何度も持ち上げて運んだ。朝、まだ涼しいうちからやって来て、室内の聖人画の前に座ったり立ったり、いっときも休まずに働いた。私は日に何度か、彼に水差しとコップを提供し、少しずつ雑談をした。私は専ら、描かれている聖人についての話を。彼は専ら、施している修復の内容を。私が話しかけると、彼は決まって、はにかんだような笑みを見せた。もしかして会話するのが苦手なのかもしれないと思ったこともあるが、何度か話してみて、そうではないことが分かった。彼は、少なくとも私と話すことを嫌がってはいないようだった。
「貴方の仕事のお陰で、最近、教会の中が見違えたように明るくなりましたよ」
 あるとき私がそう言うと、男は大いに照れて、下を向いてしまった。
「い、いえ、私などは、まだまだで。本業の方もさっぱりで」
「さっぱりとは?」
「私は人物の肖像画を主に手掛けているんですが、あまり注文がなくて」
 聞けば、彼にはよいパトロンもいないと言う。それでも自分には絵しかないので、と男はまた頭を掻いた。言われてみれば、彼はいつも同じ作業着だ。画家はそういうものなのかと思っていたが、話を聞くとそういう訳でもないようだし、線が細いのも、食が細いゆえなのかもしれなかった。
 私が言葉を探していると、男は「あ」と声を上げた。そして、おずおずと切り出した。
「神父様。神父様さえよろしければ、私に肖像画を描かせていただけないでしょうか」
「え? 私の肖像画を?」
 驚く私に、男は珍しく積極的に頷いた。心なしか、身を乗り出してまでいるようだ。
「初めてお姿を拝見したとき、その神聖な佇まいに、私の心は打たれてしまいました。ですが、なぜでしょう。こうして面と向かってお話しているときには、神父様のお姿もお顔もはっきり分かるのに‥‥‥家に帰って思い返してみると、どうしても、ぼんやりとしか浮かんでこないのです。私はそれが悔しいのです」
 芸術家というものは、誰でもこうなのだろうか。私にはその出所がよく分からない熱情が、彼の目の中に浮かんでいる。私の印象が曖昧になってしまうのは天使に特有の性質のせいだが、それに言及してきた人間はこの男が初めてだった。少々うろたえはしたが、しかし、そういう気持ちを寄せてもらえるのは嬉しい。少しだけ人間に近づけるような、そんな気がした。
「いいですよ。私などでよければ」
 そう返答すると、男の頬は紅潮した。
「ありがとうございます。実は、ずっと前から申し出ようと思っていたのです。不躾なお願いなので、言い出せずにいましたが」
 画家は言いながら、何度も頭を下げた。そんなに喜ばれるようなことをした覚えはないが、人間が喜ぶ様子は見ていて嬉しいものだ。早速、翌日から描いてもらうという話になって、その日は別れた。
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