38話 ある天使の肖像
そのころ私は田舎の小さな教会で、司祭の職に就いていた。教会は小さいだけではなくとても古く、石造りでなければとうに、どこかから隙間風が吹いてきていてもおかしくはなかった。埋め込み式のステンドグラスから差し込む日の光は美しかったが、壁面を飾る聖人たちの絵は劣化が激しい。
その日、私はひとりで午後の祈りを捧げていた。その地方の住人のほとんどは農民で、日曜日以外に説教を聴きに来る人は稀だった。私も、教会の仕事よりも近隣の農作業の手伝いや、子どもたちへの教育活動に従事している時間の方が長いくらいだった。しかし、その日は来客の予定があったので、色づいた陽光を浴びながら、古びた演壇に向かって、主へ祈っていたのだ。
「‥‥‥天使様」
そんな呟きが聞こえて目を開けると、教会の入り口に、ひとりの男が立ち尽くしていた。大きなショルダーバッグを携えた農夫らしからぬ身なりの男は、ぽかんと口を開けて私を見つめている。
私はそっと自分の背中を見て、翼が出てしまっていないことを確認し、男に声を掛けた。
「今、何と仰いましたか?」
「あ、い、いや、すみません。ここの神父様でいらっしゃいますね」
男はしどろもどろに言いつつ、近づいて来た。生まれてこのかた力仕事などしたことがないのではないかと思われる細身で、ひょろっと背ばかりが高い。穏やかな顔立ちや佇まいから、清廉な気質が伝わってくる。
「私、ここの絵の修繕を頼まれて来た者です」
「ああ、市長に頼んでいた画家の方でしたか。お待ちしておりました。どうぞ、よろしくお願いします」
握手をした手は案外硬く、絵筆を握り続けたことによるタコがあちこちにあった。よく見れば、男の着ている服には、あちこち絵具がこびりついている。
「それでは、さっそく絵を見せていただけますか」
仕事への熱心さには、先ほどの発言をなかったことにしてしまいたいという気持ちが混じっているようにも思えた。恐らく、口にするつもりはなかった言葉だったのだろう。しかし、私が天使だとばれてしまったのだとしたら、それはなかなかの問題だ。詳しく話を聞きたいところだが‥‥‥。
そんなことを考えながら、壁画を見せて回る。画家は真剣な眼差しでそれらを見つめ、時おり、節くれだった指で撫でた。
「古いが、丁寧な仕事ですね。この教会を建てた人は、よい画家に頼んだのでしょう」
教会内を一周し、会衆席に座った画家は、そう言った。
「やはり本業の方は、そのようなことがお分かりになるんですね。私は門外漢で」
「いやあ、私は絵しか取り柄がありませんから。同じように絵を愛する人の作品は、見れば分ります。神父様も、信仰のある人は、見ればお分かりになるのではありませんか」
画家は謙遜なのかそう言って笑い、「それでは今日はこれで」と立ち上がった。初めの言葉の真意を、まだ確認できていない。仕方なく単刀直入に聞いてみることにして、私は細い背中に声を掛けた。
「ところで、最初、ここに来たとき仰っていたのは、どういう意味だったのですか」
ゆっくり振り返った画家は、真っ赤な顔で、しきりに頭を掻いた。
「申し訳ありません、ばかなことを。その‥‥‥神父様が祈ってらっしゃる姿が、ステンドグラスを通した光に照らされて、あまりに神々しかったものですから、つい‥‥‥」
なんだ、そういうことか。
天使だとばれた訳ではなかったらしいと分かり、私は胸をなでおろした。もし万が一にも正体に気が付かれてしまっていたら、この男の記憶を少し弄らねばならないところだった。
「ああ、そうでしたか。どうかお気になさらないでください。芸術に通じていらっしゃる方は、感性が豊かなのですね。明日からの修復作業、どうぞよろしくお願いします」
男は恐縮したように頭を下げて、教会を出て行った。
その日、私はひとりで午後の祈りを捧げていた。その地方の住人のほとんどは農民で、日曜日以外に説教を聴きに来る人は稀だった。私も、教会の仕事よりも近隣の農作業の手伝いや、子どもたちへの教育活動に従事している時間の方が長いくらいだった。しかし、その日は来客の予定があったので、色づいた陽光を浴びながら、古びた演壇に向かって、主へ祈っていたのだ。
「‥‥‥天使様」
そんな呟きが聞こえて目を開けると、教会の入り口に、ひとりの男が立ち尽くしていた。大きなショルダーバッグを携えた農夫らしからぬ身なりの男は、ぽかんと口を開けて私を見つめている。
私はそっと自分の背中を見て、翼が出てしまっていないことを確認し、男に声を掛けた。
「今、何と仰いましたか?」
「あ、い、いや、すみません。ここの神父様でいらっしゃいますね」
男はしどろもどろに言いつつ、近づいて来た。生まれてこのかた力仕事などしたことがないのではないかと思われる細身で、ひょろっと背ばかりが高い。穏やかな顔立ちや佇まいから、清廉な気質が伝わってくる。
「私、ここの絵の修繕を頼まれて来た者です」
「ああ、市長に頼んでいた画家の方でしたか。お待ちしておりました。どうぞ、よろしくお願いします」
握手をした手は案外硬く、絵筆を握り続けたことによるタコがあちこちにあった。よく見れば、男の着ている服には、あちこち絵具がこびりついている。
「それでは、さっそく絵を見せていただけますか」
仕事への熱心さには、先ほどの発言をなかったことにしてしまいたいという気持ちが混じっているようにも思えた。恐らく、口にするつもりはなかった言葉だったのだろう。しかし、私が天使だとばれてしまったのだとしたら、それはなかなかの問題だ。詳しく話を聞きたいところだが‥‥‥。
そんなことを考えながら、壁画を見せて回る。画家は真剣な眼差しでそれらを見つめ、時おり、節くれだった指で撫でた。
「古いが、丁寧な仕事ですね。この教会を建てた人は、よい画家に頼んだのでしょう」
教会内を一周し、会衆席に座った画家は、そう言った。
「やはり本業の方は、そのようなことがお分かりになるんですね。私は門外漢で」
「いやあ、私は絵しか取り柄がありませんから。同じように絵を愛する人の作品は、見れば分ります。神父様も、信仰のある人は、見ればお分かりになるのではありませんか」
画家は謙遜なのかそう言って笑い、「それでは今日はこれで」と立ち上がった。初めの言葉の真意を、まだ確認できていない。仕方なく単刀直入に聞いてみることにして、私は細い背中に声を掛けた。
「ところで、最初、ここに来たとき仰っていたのは、どういう意味だったのですか」
ゆっくり振り返った画家は、真っ赤な顔で、しきりに頭を掻いた。
「申し訳ありません、ばかなことを。その‥‥‥神父様が祈ってらっしゃる姿が、ステンドグラスを通した光に照らされて、あまりに神々しかったものですから、つい‥‥‥」
なんだ、そういうことか。
天使だとばれた訳ではなかったらしいと分かり、私は胸をなでおろした。もし万が一にも正体に気が付かれてしまっていたら、この男の記憶を少し弄らねばならないところだった。
「ああ、そうでしたか。どうかお気になさらないでください。芸術に通じていらっしゃる方は、感性が豊かなのですね。明日からの修復作業、どうぞよろしくお願いします」
男は恐縮したように頭を下げて、教会を出て行った。