37話 悪魔は猫がお好き

 なぜ、こんなことに。
 人間より遥かに低い視点から見上げた私の悪魔が、優しい笑顔で私の頭を撫でる。慣れた筈の掌の感触が、この姿ではまた違って感じられて、喉が鳴る。……猫の喉が。

 とある任務のため、子猫の姿をとって街を歩いているときだった。間の悪いことに、ぽつぽつと雨が降り始めた。もうだいぶ前からヒゲの具合で、降り出しそうだなと思ってはいたのだが、目的地へたどり着くよりよほど早く、降り出してしまった。人間たちがそれぞれの傘を勢いよく開いて悠々と歩いているのを羨ましい気持ちで見ながら、もう変身を解いて帰宅しようかと考え始めたところを、カラスの強襲にあった。
 おそらく獲物がなかなか取れずにむしゃくしゃしていたのだろう。ちょうど公園の茂みで、人間の姿に戻ろうとしていたときに、不意に追いかけ回され、突かれそうになった。
「にゃっ……! にゃ、にゃ……」
 変身を解くに解けず、逃げ惑う私の周囲で、ふと雨が止み、カラスの気配も、さっとなくなってしまった。
 なんだろう、主が憐れんでくれたのか、などと思いながら小さな頭を巡らせると、全身を黒で統一した、よく知る男が、黒い傘を私の頭上に掲げてくれているのだった。
「子猫か。襲われてたみたいだが、もう大丈夫だ。カラスにはよく言って聞かせておいた」
 悪魔はそう言って、優しく微笑む。
 そう言えば、この悪魔はカラスも使い魔として使役できるのだ。そんなことを思い出しながら、礼を言おうと開いた口からは。
「にゃー」
 猫の鳴き声が飛び出した。
 びっくりして、自分の姿を見直す。もう人間の姿に戻れた気でいたが……変身が解けていない。
「にゃあ? にゃ……にゃー?」
「ん? なんだ、行くところがないのか。それなら雨が止むまで、俺の家にでも来るか」
 違う、そうじゃない。私だ。変身が解けないんだ。
 必死の訴えにも、愛する悪魔は気が付かない。そのまま私を抱き上げて、腕の中に収めてしまった。
「ベンガルのグリッターか。どこかの家から逃げ出したか?」
 相変わらず優しく言葉をかけてくれる悪魔は、すいすいと人混みをかき分けて歩いていく。私に雨粒のひとつも当たらないのは魔法ではなく、単純に、彼がしっかりと自分の胸に私を引き寄せているからだろう。落ち着いた鼓動が背中に伝わってきて、変身が解けないという事態にも関わらず、ほっとする。
 やがて彼の住むマンションに着き、私は勝手知ったる黒い部屋に、猫として降り立った。
「にゃー……」
 どうしたものか。困り果ててウロウロする私に、悪魔はふふっと笑った。
「まあゆっくりしていけよ。雨は暫く止みそうにない」
 こんな状態でなければ喜んでゆっくりするところなのだが……と悲しくなりつつ、悪魔が随分と猫に優しいことも気になっていた。前に話してくれた使い魔の中に、確か猫はいなかった筈だ。まあ、悪魔本人も使い魔の種類を全て覚えてはいないようだったから、なんとも言えないが……。
「にゃっ?」
 不意に再び抱き上げられ、毛が逆立つ。悪魔は構わずバスルームへ向かい、乾いたタオルで私の体を拭いてくれた。保護してもらう前に毛に染み込んでいた冷たい雨粒を丁寧に拭ってもらい、混乱していた頭がようやく少し、落ち着いた。
「よーし、落ち着いたな」
 にっと笑い、悪魔は私を連れてソファに座った。どうやら言葉も通じないらしいので大人しくされるがままになっていると、人間の姿のときにもされるように、しげしげと見つめられる。
「日光の下でならもっと輝くんだろうが……金の混じった、綺麗な毛並みだ。瞳も、美しいブルー……俺は、お前によく似た天使を知っているよ」
「にゃー、にゃん、にゃー」
 それは私だよ、と訴えるも、悪魔は分かった分かったと頷くばかりだ。
「そうだ、カラスに追いかけ回されて腹が減ってるだろう。何かを腹に入れれば、大概の生き物は回復するもんだ。何を食いたい?」
「にゃにゃあ」
 特にお腹は減っていないから、どうにか気がついて、人間の姿に戻してくれ。
 必死の願いを込めて前足を振るも、悪魔には、猫の可愛らしいおねだりにしか映らなかったらしい。どこから取り出したのか、チューブに入った猫用のおやつを持った彼は、楽しそうに、それを私の目の前に差し出した。
「ほら、豪邸の猫が食べるような高級なやつだぜ。美味そうだろ」
 チューブの開いた口から、猫には堪らない、魚と何かが混ざったような魅惑的な香りがする。特にお腹は減っていない筈が、その誘惑に耐えかねて、いつの間にかかぶりついていた。
「うんうん、美味いだろ」
 私が食べるのをとても嬉しそうに眺めていた悪魔は、私の食事が終わると、待っていたと言うように、数種類の猫じゃらしを取り出した。
「さて、腹ごなしの運動もしないとな」
「にゃあ……」
 運動、は、あまりしたくないのだが……。
 しかしまたも、猫の体は私の意に反して反応した。悪魔の手によってまるで生きているかのように動く猫じゃらしのヒラヒラに、足が勝手に動いてしまう。
「ほらほら」
 悪魔は私が反射的に足を動かすのを目を細めて眺め、これでもかと、遊び疲れた私の頭を撫でた。もはや反応する気力を失って床に横になった私の背を、犬にでもするように、わしゃわしゃと撫で回した。
「にゃあー……」
「あはは、もう疲れたのか?」
 私ですら滅多に見たことのない爽やかな笑顔で、悪魔は言う。その笑顔が私に向けられていることは嬉しいのだが、私ではない猫に向けられているのだと考えると、複雑な気分になってくる。
 この悪魔が、こんなに猫好きだとは知らなかった。
 しかし、そんなことも考えていられないほど、瞼が重い。
「にゃ……」
「眠くなったか。食べて遊んで寝て、いい御身分だ」
 面白そうに言いながら、悪魔は私を膝の上に乗せた。人間のときには乗ったことのないその場所で丸まり、猫の抗いがたい眠気に屈したそのとき、頭上から優しい声が、眠りの端まで届いた。
「おやすみ、エンジェル」
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