34話 貴方のお仕事
悪魔は夏の間、忙しい。人々が開放的な気分になり、行動範囲や活動時間帯が広がるからだ。それに合わせて、天使も忙しくなる。そうした悪魔の活動を牽制するためだ。そのため、私と彼とは、夏の間中、ほとんど二人きりで会うことが出来ない。
そんな中、どうにか予定を合わせて久々に会ったとき、愛する悪魔は嘆息を漏らしつつ話してくれた。
「誘惑も簡単なことじゃないんだぜ。俺のご主人サマの悪魔遣いの荒さと言ったらない。海辺に保養に来る政界関係者を、女性の姿で誘惑して掌中に入れろとさ。簡単に言ってくれる」
そう、確かにそう言っていた。
姿形は変わっても、彼の、燃える炎の魂を隠した瞳は、すぐに分かる。だから海辺で妙齢の女性の姿をとった彼を見つけたとき、私は危うく声を掛けてしまいそうになった。悪魔としての仕事中に、天使である私が迂闊に声を掛けるのは良くないと、思いとどまったから良かったものの。
「しかし、あいつは私に気がつくだろうか……」
思わず独り言が漏れる。姿を変えているのは彼だけではない。私もだった。
白いレースのような飾りのついた女性用の水着は肌にぺたりと張り付き、いつもと勝手が違って、少々、動きにくい。今日は久々に女性の姿をとって、不埒な衝動に身を任せそうになっている人間を諭し、その心の孤独を癒してやるようにと、上司から指示されたのだ。男性の姿よりも女性の姿の方が、そういう人間を見つけやすいと大天使が言うのでそうしてはみたが、早くもその指示への疑念が湧いてきていた。
「へい彼女、可愛いね。今、暇? 良かったら俺たちとクルージングでもどう?」
目の前でへらへらと笑う男たちの心の中には、確かに不埒な心がある。しかし、それは至って平均的なものだ。誰の心の中にでもある、普遍的なものだ。大天使が言っていたような、あと一歩で深い闇へ堕ちてしまいそうな、ぎりぎりのものではない。
だから私は、今日で五度目となる口上を述べる。
「お誘いありがとうございます。でも、そろそろ連れが戻って来ますので」
「ええー、マジかー残念」
特に残念そうでもない男たちは波のように引き、私はまたひとりで浜辺を歩き出す。
バカンスで浜辺はごった返し、家族連れに恋人同士にと賑わっている。ちょっと見た限りでは、空気には愛情が満ち、人々の楽しい感情が相互的に作用して、天使には心地よいばかりだ。こんな中に、大天使が言うような人間が、本当にいるのだろうか。
そう思って歩いていると、また、数人の取り巻きを連れた男に声を掛けられた。
「ねえ君、ひとり?」
ああ、こういう人間のことか。
その男を見て、私はすぐにそう思った。見た目はどこにでもいるような穏やかそうな男だが、内心には何か、巧妙に隠そうとしている、どす黒いものがある。
「はい、ひとりです」
「へえ、こんなに可愛いのに」
男はじろじろと、私の全身を舐め回すように眺めた。清純な人間の少女であったならば、その無遠慮な視線に、いたたまれなくなったことだろう。
男は不意に私の腰を掴んで、引き寄せた。どうすべきか一瞬迷ったが、こういう人間の孤独を癒すのが目的なのだから、抵抗すべきではないと判断した。おとなしくされるままの私に、男は笑う。
「へえ、抵抗しないんだ。もしかしてオレのこと……」
「貴方が大臣の愛息子であることは、よく存じ上げておりますわ」
男の言葉を遮り現れたのは、黒髪に黒い水着の女性……私の悪魔だった。
「なっ」
たじろいだ男の腕にするりと自身の腕を絡め、悪魔は瞬く間に私を男から引き離した。上目遣いに彼を見上げ、悪魔はその、殆ど肌が剥き出しの胸元を押し付ける。
「こんなお嬢さんよりわたくしの方が余程、貴方を楽しませられますのに。わたくし、さっきからずっと貴方に声を掛けようと思っていたんですのよ」
甘い声でそう囁かれ、男の口元は歪んだ。
「そ、そうか。それもそうだな。それじゃあ親父のクルーザーにでも……」
「そんな、まどろっこしい。どこか落ち着けるところに案内してくださらない」
悪魔の指が、男の脇腹をそっと撫でる。男は焦ったように、その手を握った。
「わ、分かった、行こう」
呆気にとられる私の目の前で、男たちが急ぎ足で去って行く。私の悪魔を連れて。
「えっ、あ……」
思わず追いすがるように腕を伸ばした私に、瞬間、振り向いた悪魔が首を振った。何もするな、ということらしい。
私は腕を下ろし、遠ざかっていく彼らを見つめるしかなかった。
そんな中、どうにか予定を合わせて久々に会ったとき、愛する悪魔は嘆息を漏らしつつ話してくれた。
「誘惑も簡単なことじゃないんだぜ。俺のご主人サマの悪魔遣いの荒さと言ったらない。海辺に保養に来る政界関係者を、女性の姿で誘惑して掌中に入れろとさ。簡単に言ってくれる」
そう、確かにそう言っていた。
姿形は変わっても、彼の、燃える炎の魂を隠した瞳は、すぐに分かる。だから海辺で妙齢の女性の姿をとった彼を見つけたとき、私は危うく声を掛けてしまいそうになった。悪魔としての仕事中に、天使である私が迂闊に声を掛けるのは良くないと、思いとどまったから良かったものの。
「しかし、あいつは私に気がつくだろうか……」
思わず独り言が漏れる。姿を変えているのは彼だけではない。私もだった。
白いレースのような飾りのついた女性用の水着は肌にぺたりと張り付き、いつもと勝手が違って、少々、動きにくい。今日は久々に女性の姿をとって、不埒な衝動に身を任せそうになっている人間を諭し、その心の孤独を癒してやるようにと、上司から指示されたのだ。男性の姿よりも女性の姿の方が、そういう人間を見つけやすいと大天使が言うのでそうしてはみたが、早くもその指示への疑念が湧いてきていた。
「へい彼女、可愛いね。今、暇? 良かったら俺たちとクルージングでもどう?」
目の前でへらへらと笑う男たちの心の中には、確かに不埒な心がある。しかし、それは至って平均的なものだ。誰の心の中にでもある、普遍的なものだ。大天使が言っていたような、あと一歩で深い闇へ堕ちてしまいそうな、ぎりぎりのものではない。
だから私は、今日で五度目となる口上を述べる。
「お誘いありがとうございます。でも、そろそろ連れが戻って来ますので」
「ええー、マジかー残念」
特に残念そうでもない男たちは波のように引き、私はまたひとりで浜辺を歩き出す。
バカンスで浜辺はごった返し、家族連れに恋人同士にと賑わっている。ちょっと見た限りでは、空気には愛情が満ち、人々の楽しい感情が相互的に作用して、天使には心地よいばかりだ。こんな中に、大天使が言うような人間が、本当にいるのだろうか。
そう思って歩いていると、また、数人の取り巻きを連れた男に声を掛けられた。
「ねえ君、ひとり?」
ああ、こういう人間のことか。
その男を見て、私はすぐにそう思った。見た目はどこにでもいるような穏やかそうな男だが、内心には何か、巧妙に隠そうとしている、どす黒いものがある。
「はい、ひとりです」
「へえ、こんなに可愛いのに」
男はじろじろと、私の全身を舐め回すように眺めた。清純な人間の少女であったならば、その無遠慮な視線に、いたたまれなくなったことだろう。
男は不意に私の腰を掴んで、引き寄せた。どうすべきか一瞬迷ったが、こういう人間の孤独を癒すのが目的なのだから、抵抗すべきではないと判断した。おとなしくされるままの私に、男は笑う。
「へえ、抵抗しないんだ。もしかしてオレのこと……」
「貴方が大臣の愛息子であることは、よく存じ上げておりますわ」
男の言葉を遮り現れたのは、黒髪に黒い水着の女性……私の悪魔だった。
「なっ」
たじろいだ男の腕にするりと自身の腕を絡め、悪魔は瞬く間に私を男から引き離した。上目遣いに彼を見上げ、悪魔はその、殆ど肌が剥き出しの胸元を押し付ける。
「こんなお嬢さんよりわたくしの方が余程、貴方を楽しませられますのに。わたくし、さっきからずっと貴方に声を掛けようと思っていたんですのよ」
甘い声でそう囁かれ、男の口元は歪んだ。
「そ、そうか。それもそうだな。それじゃあ親父のクルーザーにでも……」
「そんな、まどろっこしい。どこか落ち着けるところに案内してくださらない」
悪魔の指が、男の脇腹をそっと撫でる。男は焦ったように、その手を握った。
「わ、分かった、行こう」
呆気にとられる私の目の前で、男たちが急ぎ足で去って行く。私の悪魔を連れて。
「えっ、あ……」
思わず追いすがるように腕を伸ばした私に、瞬間、振り向いた悪魔が首を振った。何もするな、ということらしい。
私は腕を下ろし、遠ざかっていく彼らを見つめるしかなかった。