32話 気まぐれ

 昔の人間の同僚が新しく店を開いたというので、一緒に開店祝いへ行った帰り道、まだ日も高く人通りの多い道の上で、隣を歩いていた男が不意に立ち止まった。
「どうした?」
 夏だというのに全身をいつものように黒で統一した長身の男は、人混みの中でもひときわ目立つ。突然立ち止まった彼を、周りも不思議そうに避けていく。
 男は、私を見た。
「なあ天使サマ、キスしてくれ」
「え? ……い、良いけど、……ここでか?」
 思わず周囲を見回してしまう。通行人の殆どは、私たちのことなんて気にもしていない。しかし。
「ああ。見せつけてやろうぜ」
「……な、……ど、どうしたんだ急に」
 キス自体は、別に良い。ただ、人前でとなると話が違う。狼狽える私に、男はにっと笑った。
「俺たちは人間じゃないだろ。人間の目を気にする必要なんかない」
「そ、それはそうだが……」
 たしかに、天使は人間に余計な影響を及ぼさないために人間から見た印象は薄い筈だが、だからと言って恥ずかしくないわけではない。
「ど、どうしても今、ここでか?」
「ああ。今、ここで、ココに」
 悪魔が、自らの唇を指す。顔が熱くなるのを抑えられないまま、私は背伸びをした。
1/1ページ
スキ