3話 狡猾に、純粋に

 自分の中にそんな感情が存在し得るのだと気がついた時には、もう遅かった。街路で見かけたら目で追わずにはいられない。人間どもに道徳心を芽生えさせるため、あいつが囁く神の言葉に、耳をそば立てずにはいられない。
 一体いつからだったろう。十八世紀か、十九世紀だっただろうか。少なくとも、自分の中の感情を自覚してから、二世紀以上は経過している。悪魔である俺にとって、二世紀なんてのは大した時間ではない。でも、決して短い時間でもない。俺の頭は、どうにかなってしまったんだろう。人間の姿をとって長いこと経つから、きっとどこかの回路がいかれちまったんだ。
 あいつのことが気になって仕方ないなんて。
 天使というのは大概そうだが、あいつも例に漏れず金髪で穏やかな顔立ちの人間の姿をしている。物腰も柔らかで、他の天使とほぼ変わらない。仕事ぶりだって遜色ない。日々、人が善を為すように、小事から大事まで心を砕き、神の使い走りに奔走している。他の天使と何も変わらない。それなのになぜか、あいつのことだけが気にかかる。
 人間のことをもっとよく知りたくないか、と声を掛けた時、あいつは疑うことを知らない子どものように頷いた。俺が悪魔だと知っている癖に。天使の良くない習性だ。でも、俺には都合が良かった。
 そもそも、聖なる空気を身に纏う天使と邪なる空気を身に纏う悪魔との接触は、そう簡単ではない。お互いが何かしらの契約を結び、同じ目的の為に動く時のみ、その接触は可能になる。そうでなければ即、戦争だ。
 俺の指があいつに触れた時、その想像通りの弾力と柔らかさに心が躍った。今からこれを汚していくのだと考えると、俺の本質的な部分が、魂が、喜びに震えた。けれどそういう悪魔としての本能とは別のところで、個としての俺は、別の願望を強く意識した。
 こいつの笑顔を見たい。俺に向けられる、笑顔を。
 あいつが俺の腕の中で初めての感覚に泣きながら悶えた時、すぐにでも自分のものにしてしまいたいという衝動を堪えるのは大変だった。悪魔として人間を堕落させる為に、そういう知識も技術も持っている。あいつが以降抵抗する気を完全に失うくらい、快楽に溺れさせてしまうのは簡単だ。一人の天使をこちら側に堕とすことは、悪魔としてはむしろ本分だ。
 だが、それはしたくなかった。それをすると、俺の欲しいものは永遠に手に入らない。永遠……。死の可能性が限りなく低い俺たちにとって、永遠ほど恐ろしい尺度は無い。
 だから、俺は生温い程に優しく、あいつに接した。大したことはしていない、本当に。思春期に達した少年に、その生理的焦燥感を解消するやり方をそっと囁いてやるくらいの手ほどきしかしていない。それでも、そんな感覚があるのだとも知らなかったあいつは喘ぎ、俺に縋り付き、俺の手の中で果てた。生殖機能の無い俺たちは寝台を汚すことすら無い。まったく、俺たちのご主人サマ方は良い趣味をしている。
 あいつが夢うつつのまま俺の腕に抱かれていた数分間は、幸せだった。悪魔としての使命や本能はどこかへ置き去りにして、このままその華奢な身体を感じていたかった。いや、身体なんてなくても良いとさえ思った。肉体なんか牢獄だ。肉体という枷さえ無ければ、人がああも容易く堕落の道を選ぶことも無いだろう。
 でも、その枷が無ければ、あいつの心をこちらに向けさせることすら出来ない。俺という存在に意識を向けさせることすら。何せ、俺は悪魔であいつは天使なのだから。何もしなければ、俺は数多いる悪魔の一人に過ぎなかった。
 覚醒したあいつが十字を切った時、それを突きつけられた気がした。俺が何をしても、あいつにとって俺がただの悪魔であることは変わらないのかもしれない。だが……少しでも可能性があるなら、俺はそれを手放したくない。あいつにとって、俺が特別になる可能性があるのなら。
 あいつの純白の魂が純白のまま、俺という漆黒を選んでくれる時が、いつか来るかもしれない。邪悪には決して向けられないあいつの笑顔が、俺に向けられる時が。
 その為なら、俺は何だってしよう。時間はたっぷりあるのだ。狡猾に、純粋に、悪魔のやり方で、行こうじゃないか。
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