21話 薔薇色の円環
ちょっと席を立っている間に、連れの男は料理を運ぶ男性店員と親しげに言葉を交わしていた。私にはあまり見せないような澄ました笑顔に、なんとなく胸がざわつく。と同時に、相手の店員が発するある特殊な気配と、それが意味する事実に、大きな疑問符が浮かぶ。
私が近づくと、店員は皿を置いて行ってしまった。連れの男は、吸い込まれそうな黒い瞳で私を見た。
「お前がいない間に、追加の紅茶を頼んどいたぜ、エンジェル」
「ありがとう。……なあ、今、店員と何を話してたんだ」
私の問いに、男はちょっと驚いたような顔で答えた。
「やけに馴れ馴れしい店員でな、ご友人とランチですかと聞いてきたから、恋人とのデートだと答えてたんだよ。……なんだ、天使サマもやきもち妬いたりするもんなんだな」
「やきもち?」
今度は私が驚く番だった。知識として知ってはいたが、どういうものなのか実感したことがなかった……これが、それなのか。
「そうか、これが嫉妬という感情か。なるほど、たしかに愉快ではないな」
「だろ。まあ、俺にとってはそういう負の感情は心地良いもんだがな」
「はは。悪魔だもんな」
目の前の男は私にはとても優しく、何をするでもまず私を第一に考えてくれる。そのせいで一緒に過ごしているとつい忘れてしまいそうになるが、こういうときに、そうかこいつは悪魔だったなと思い出す。天使である私には本来芽生えるはずのない、愛を教えてくれた、唯一の悪魔。
「それにしても、お前と一緒にいると、毎日新しい感情を発見できて楽しいな」
私の言葉に、悪魔は微笑む。
「そいつは良かった。俺も、毎日色んなお前を見られて楽しいよ」
席に着いて暫く、私は紅茶を、悪魔はコーヒーを飲みながら、昨今の天界と地獄の事情について話した。その間にも、先程の店員がちらちらと視界に入る。どうしても気になってしまうが、目の前の男との時間は大切だ。私たちには無限の時間があるが、その全てを、相手の側で過ごしたい位なのだから。敏感な悪魔のことだ、私が店員を気にしていることには気付いているのだろうが、ただの嫉妬だと思っているのだろう。それについては特に何も言わない。
ちょうど話がひと段落した頃、悪魔が懐から黒いスマートフォンを取り出して画面を見た。
「すまない、ちょっと電話してくる」
「ああ、待ってるよ」
悪魔同士の会話ならわざわざ電波など使わないだろうから、恐らく人間からの電話なのだろう。急ぎ足で店を出てゆく男のすらっとした背中を見送ってから、私はあの店員を呼び止めた。
「何かご用ですか」
長髪を後ろで束ねた明るい顔立ちの店員は、にこやかに言う。……やはり。数メートル離れればまったく気がつけないほど薄められている上、恐らく同類以外にはまず見破られないであろう完璧なカモフラージュだが、こうして近くで注意してみると、確信が持てる。
濃厚な、聖なる空気。
「貴方のような方が、こんな所で何をなさっているんですか」
私が声をひそめて言うと、相手は目元を緩めた。
「なに、私だって人間の中に混じってみたいと思うことくらい、あるのだよ」
「ご冗談を……。大天使ともあろう方が、このような一般の市井に混じる必要などないでしょう。それに……」
言葉を探して少し言い淀んだ私の言葉を、人間の姿の大天使が引き取った。
「お前の悪魔に声をかけた」
「……ええ。どういうつもりですか」
まさかとは思うが……、一度認められた私と彼の関係が、否定されたのではないか。そんな私の警戒に、大天使はにこやかに答えた。
「お前が恐れるようなことは何もないよ。主は、お前たちを変わらず祝福してらっしゃる」
「それなら、なぜ」
「主は遠くにいらっしゃるからな。お前たちの様子を、代わりに見に来たのだよ。それに私としても、お前の交友相手がどんな悪魔なのか知りたくてね」
その言葉に、偽りはなさそうだ。そもそも私たち天界の者に、嘘はつけないのだが。
一応、懸念は晴れたが、それでも何となく良い気はしなかった。大天使は私の様子に、鷹揚な笑みを浮かべた。
「あらかじめお前に言わず、彼に声を掛けたのは悪かった。どうやら要らない感情まで抱かせてしまったようだ。だが、まあ安心しなさい。あの悪魔は、魂の底からお前のことを愛しているよ」
「…………っ」
顔が熱い。何も言えなくなった私に、大天使は励ますように微笑んで、立ち去ってしまった。それと入れ替わるように、悪魔が戻って来る。
「待たせたな。……どうかしたか、エンジェル? 顔が赤いぞ」
頬に、彼の冷たい掌が触れる。その優しい指先をそっと握ると、悪魔は不思議そうな顔をした。
「エンジェル?」
「大丈夫だ。ただ、お前に愛されて幸せだなと思っただけだよ」
幸せに弱い悪魔は硬直し、少しの間、私の顔を見つめていたが、やがてぎこちなく口を開いた。
「……あー、ああ。それは良かった」
いつも冷静な彼の、こういう面を見られるのも、私だけなのだ。そこに、嫉妬など生まれる余地はない。
「何であれ、天使サマが幸せなら、それが俺にとっての幸せだ」
悪魔は微笑み、私も笑う。
互いの幸せが互いの幸せであるという、薔薇色の円環のもとに、私たちはいる。願わくは、この円環が永遠に途切れぬよう。こうして微笑み合う日々が、いつまでも続きますように。
私が近づくと、店員は皿を置いて行ってしまった。連れの男は、吸い込まれそうな黒い瞳で私を見た。
「お前がいない間に、追加の紅茶を頼んどいたぜ、エンジェル」
「ありがとう。……なあ、今、店員と何を話してたんだ」
私の問いに、男はちょっと驚いたような顔で答えた。
「やけに馴れ馴れしい店員でな、ご友人とランチですかと聞いてきたから、恋人とのデートだと答えてたんだよ。……なんだ、天使サマもやきもち妬いたりするもんなんだな」
「やきもち?」
今度は私が驚く番だった。知識として知ってはいたが、どういうものなのか実感したことがなかった……これが、それなのか。
「そうか、これが嫉妬という感情か。なるほど、たしかに愉快ではないな」
「だろ。まあ、俺にとってはそういう負の感情は心地良いもんだがな」
「はは。悪魔だもんな」
目の前の男は私にはとても優しく、何をするでもまず私を第一に考えてくれる。そのせいで一緒に過ごしているとつい忘れてしまいそうになるが、こういうときに、そうかこいつは悪魔だったなと思い出す。天使である私には本来芽生えるはずのない、愛を教えてくれた、唯一の悪魔。
「それにしても、お前と一緒にいると、毎日新しい感情を発見できて楽しいな」
私の言葉に、悪魔は微笑む。
「そいつは良かった。俺も、毎日色んなお前を見られて楽しいよ」
席に着いて暫く、私は紅茶を、悪魔はコーヒーを飲みながら、昨今の天界と地獄の事情について話した。その間にも、先程の店員がちらちらと視界に入る。どうしても気になってしまうが、目の前の男との時間は大切だ。私たちには無限の時間があるが、その全てを、相手の側で過ごしたい位なのだから。敏感な悪魔のことだ、私が店員を気にしていることには気付いているのだろうが、ただの嫉妬だと思っているのだろう。それについては特に何も言わない。
ちょうど話がひと段落した頃、悪魔が懐から黒いスマートフォンを取り出して画面を見た。
「すまない、ちょっと電話してくる」
「ああ、待ってるよ」
悪魔同士の会話ならわざわざ電波など使わないだろうから、恐らく人間からの電話なのだろう。急ぎ足で店を出てゆく男のすらっとした背中を見送ってから、私はあの店員を呼び止めた。
「何かご用ですか」
長髪を後ろで束ねた明るい顔立ちの店員は、にこやかに言う。……やはり。数メートル離れればまったく気がつけないほど薄められている上、恐らく同類以外にはまず見破られないであろう完璧なカモフラージュだが、こうして近くで注意してみると、確信が持てる。
濃厚な、聖なる空気。
「貴方のような方が、こんな所で何をなさっているんですか」
私が声をひそめて言うと、相手は目元を緩めた。
「なに、私だって人間の中に混じってみたいと思うことくらい、あるのだよ」
「ご冗談を……。大天使ともあろう方が、このような一般の市井に混じる必要などないでしょう。それに……」
言葉を探して少し言い淀んだ私の言葉を、人間の姿の大天使が引き取った。
「お前の悪魔に声をかけた」
「……ええ。どういうつもりですか」
まさかとは思うが……、一度認められた私と彼の関係が、否定されたのではないか。そんな私の警戒に、大天使はにこやかに答えた。
「お前が恐れるようなことは何もないよ。主は、お前たちを変わらず祝福してらっしゃる」
「それなら、なぜ」
「主は遠くにいらっしゃるからな。お前たちの様子を、代わりに見に来たのだよ。それに私としても、お前の交友相手がどんな悪魔なのか知りたくてね」
その言葉に、偽りはなさそうだ。そもそも私たち天界の者に、嘘はつけないのだが。
一応、懸念は晴れたが、それでも何となく良い気はしなかった。大天使は私の様子に、鷹揚な笑みを浮かべた。
「あらかじめお前に言わず、彼に声を掛けたのは悪かった。どうやら要らない感情まで抱かせてしまったようだ。だが、まあ安心しなさい。あの悪魔は、魂の底からお前のことを愛しているよ」
「…………っ」
顔が熱い。何も言えなくなった私に、大天使は励ますように微笑んで、立ち去ってしまった。それと入れ替わるように、悪魔が戻って来る。
「待たせたな。……どうかしたか、エンジェル? 顔が赤いぞ」
頬に、彼の冷たい掌が触れる。その優しい指先をそっと握ると、悪魔は不思議そうな顔をした。
「エンジェル?」
「大丈夫だ。ただ、お前に愛されて幸せだなと思っただけだよ」
幸せに弱い悪魔は硬直し、少しの間、私の顔を見つめていたが、やがてぎこちなく口を開いた。
「……あー、ああ。それは良かった」
いつも冷静な彼の、こういう面を見られるのも、私だけなのだ。そこに、嫉妬など生まれる余地はない。
「何であれ、天使サマが幸せなら、それが俺にとっての幸せだ」
悪魔は微笑み、私も笑う。
互いの幸せが互いの幸せであるという、薔薇色の円環のもとに、私たちはいる。願わくは、この円環が永遠に途切れぬよう。こうして微笑み合う日々が、いつまでも続きますように。