20話 夜を貴方と 心を交わして
「今晩はウチに来ないか」と誘われ、俺は夜に入っていた全ての用事をキャンセルして、あいつのアパートへ足を運んだ。昔あいつが住んでいたような、見た目ボロボロの一軒家ではない、近代的で一般的な、独居者向けの白い建物へ踏み入る。前にも一度、来たことはあるが……今は時間帯が違う。
何の期待もないと言えば、嘘になる。だが、あの純粋な天使のことだ……可能性がないとは言えないが、しかしあるとしても万にひとつだろう。まあ、そんなことは別に良い。俺たちのような霊的存在には、時間だけはそれこそ無限にあるのだから。
前回同様、チャイムを押す前に扉が開き、輝く青い瞳が俺を見上げた。
「来てくれてありがとう、ラブ」
「……こちらこそ、お誘い感謝する。エンジェル」
いい加減「ラブ」という呼びかけにも完全に慣れたいところだが、そんな日は永遠にこないような気がしてならない。
白く清潔な部屋は俺の部屋と同じように生活感がないが、俺の部屋よりも、暖かく明るい雰囲気がある。その場にいるだけで周囲を浄化する、天使の力のせいだろう。俺だから良いが、並の悪魔なら、この建物に近づくことも出来まい。
天使がすすめてくれた椅子に腰掛け、部屋を見渡す。それほどダイニングは広くなく、今は閉まっている簡単な仕切り戸で、寝室との区分が為されている。必要最低限の家具の合間に、グリーンを配しているのがこいつらしい。生真面目な主人の性格が、その生き生きとした葉に表れている。簡素な本棚には不用意に触れたら手が痺れそうな聖書の類が並び、恐らくこれまで人間からプレゼントされたのであろう置物なども飾られている。壁には、植物や聖書の場面を描いた絵画が数点、飾られている。
「そんなにじっくり見るほど、面白いものもないだろう」
「いや ここにあるどれもがお前らしくて、面白いよ」
天使は「ふうん」と首を傾げつつ、俺の正面の椅子に置いていたらしいエプロンを手に取って身に付けた。白いカフェエプロンが、とてもよく似合っている。
「本当はお前が来たらすぐに料理を出したかったんだが、仕上げに火を入れたくて……」
言いながらキッチンへ歩く後をついて行くと、天使は振り返って頬を赤らめた。
「良いから、ゆっくり座っててくれ」
「別に良いだろ。料理してるお前を見ていたい」
耳まで赤くした天使は、困ったように視線を落とした。
「その……準備してるところを見られるのは、何というか……恥ずかしいんだ。この間も、ケーキを完成させる前に見られてしまったし……お前には、完成品だけを見せたいんだよ」
心臓の拍動が狂う。足がよろめきそうになるのを何とかこらえて、俺はひとつ頷いて見せた。
「承知した。そういう気持ちに気づけなくて、済まないな」
「いいや、これは私のわがままだから……。分かってもらえて嬉しいよ、マイラブ」
結局よろめいて、背中が壁に当たった。
おとなしく椅子に座って数分後、天使は湯気のたったシチューと、パン籠をテーブルに並べていった。
「お前のあの完璧な料理に比べたら、本当に大したことがなくて申し訳ないんだが……でも、得意料理なんだ。この間のお礼、にはならないかもしれないが、美味しく食べてもらえたら嬉しいな」
正面に座り、天使ははにかみながら言う。
「お前が俺に作ってくれた料理が、美味しくない訳がない。いただくぜ」
「どうぞ召し上がれ」
緊張を含んだ視線を感じながら、ひと口、シチューを啜る。俺ならもっとスパイスを効かせるところだが、まろやかな口当たりが、こいつらしい。
「うん、美味い」
「本当か 良かった」
にこにこと笑む、その顔を見ながら食べるだけで、どんな料理だろうが最上の逸品になるのは間違いない。
「昔、料理が得意な人間に、ちょっと習って覚えたんだ。こういうのは、ただ知識だけ持っていても、上手く出来ないものだね」
「そうかもな」
実のところ、俺は誰にも料理を習ったことはない。悪魔は人間に関する知識と、それに伴う技術とを、生まれながらに持ち合わせているものだからだ。ましてや、誘惑の対象である人間に何かを習おうなどという発想はなかった。いや、恐らく他の天使たちにも、そんなことは思いつかないのに違いない。食事など睡眠同様、俺たちにとっては、せずに済ましても良いことなのだから。
「はは、お前は本当に変わった天使だよな」
「そ、そうかな……」
俺の言葉の意味が本気で分からないのであろう愛すべき天使は、不思議そうに、パンをちぎってシチューに入れた。俺もパンを手に取り、シチューを掬って口に入れる。ざらざらした堅いパンが、良い塩梅にふやけて食べやすい。
「そうだ、天使サマ。お前さえ良ければ、今度、料理を教えてやろうか」
「…… 本当か お前に習ったら、きっととても腕が上がるな」
ほんの思いつきだったが、天使は予想以上に嬉しそうで、俺もつられて微笑んでしまった。二人でキッチンに立ち、料理を作る……想像するだけで、幸福に頭がぼうっとしてくる。
想像の幸福と目の前に展開される幸福とに半分夢見心地のまま、俺は最後のひと口を食べ終えた。
「美味かった。ありがとう」
「こちらこそ、食べてくれてありがとう。こんな風に誰かに作った料理を食べてもらえるって、とても幸せなことだな。習っておいて良かったよ」
満面の笑みをたたえたその顔は、あまりにも可憐だ。可憐な天使は皿を片付けると、ケトルで湯を沸かし始めた。
「お前に飲んで欲しくて、初めてコーヒー豆を買ってみたんだ。キリマンジャロが好きなんだろう。この間お邪魔したとき、棚に仕舞ってあるのを見たんだ」
「よく見ていてくれて、嬉しいな」
正直に言えば、細かい好みなどというものは俺にはなかった。店では何も考えずにその店のブレンドを頼んでいるだけだし、自宅に置いていた豆も、たまたまそれだったというだけだ。そればかりか、コーヒー自体、黒色で、飲むと目が覚めるからよく飲むというだけで、特別好きというわけでもないのだ。
だが、そんなことはどうでも良い。俺の天使が用意してくれるものなら、それが例え泥水であったとしても美味しく飲める自信があるし、俺が何を飲んでいたのか覚えていてもらえたというだけで、充分過ぎる位だ。
だから、天使が慣れない手つきで淹れてくれたコーヒーは、今まで飲んだ中で一番、美味かった。そう伝えると、自身はティーカップを前にして、天使はホッとしたように微笑んだ。
「それは良かった…… コーヒーの良し悪しが私には分からないものだから……コーヒー通の同僚に、ひと通り習っておいて良かったよ」
「お前は人に恵まれてるんだな」
「たしかに、そうかもしれないな。まあ、当たり前だが信仰に厚い人しか周りにいないものだから……みんな愛情深いんだよ」
悪魔が接する人間というのは、少し後押ししてやれば悪の道へ簡単に転げ落ちるようなタイプが多い。もちろん例外もいるが、普段、誘惑するために近づくことが多いのは、そういう奴らだ。だから、こいつが言うような人間ばかりが周りにいる環境というのはなかなかに想像し難いし、悪魔としての本能的な嫌悪感すら覚える。だが、こいつがそういう環境で上手くやっているということ自体は、喜ばしいことだった。
「そう言えばお前、今は何の仕事に就いてるんだ。この間までは神学校図書館の司書だったんだろう」
俺の問いに、天使は紅茶へ角砂糖を落としながら頷いた。
「お前と再会する少し前までは、そうだった。今はバチカンの奇跡認定部署の、下位組織に所属しているよ」
「へえ。天使が奇跡認定をね……それは面白い」
巷には、自称他称含めて様々な「奇跡」が溢れている。それらを科学的・神学的に調査して、真実「奇跡」であるかどうか認定する部署が、バチカンの教会にはあるのだ。そんな調査を経ずとも、天使であるこいつには、それが本物かどうか、判別できてしまうだろうが。
俺の感嘆に、天使は苦笑いを漏らす。
「私としては、主の力による奇跡を起こす人間に会ってみたいものなんだがね。どうも、なかなかそうはいかないね」
「そりゃあ、そうだろうな。そう簡単に起きないからこその奇跡だ」
だから、俺とこいつが祝福を受けたのは、本来ならこの世には起こり得ないほどの、本当の奇跡だったのだ。
天使は頷いて紅茶を口に含み、上目遣いで俺を見た。長い睫毛の下から覗く鮮やかなブルーに、胸を締め付けられる。
「どうした、天使サマ。何か言いたいことがあるようだが」
促すと、天使は小さな唇でおずおずと切り出した。
「その……お前はこの後、何か用事でも」
「ない」
「そ、そうか。……なら、まだ一緒にいてくれるか」
「当然だ」
天使はホッとしたように息をついた。その健気さに、ますます胸が苦しくなる。お前が望むなら、俺はいつまでだって仕事など放置して、寄り添っていられるというのに。
「そ、それじゃあ……その……」
言い出しにくそうに視線をさまよわせるその様子に、ここに来たとき抱いていた、微かな期待が再び頭をもたげる。肉体など魂の容器に過ぎず、その交渉に囚われるのも、己を牢獄に投げ込むようなものだ……が、真に愛する者からの申し出ならば別だ。
そんなことを思いながら見つめていると、天使はようやく、思い切ったように言った。
「朝まで話に付き合ってくれないか」
思い切り肩透かしをくらい、俺は大きく息を吐いた。
「なんだ、そんなことか……お安い御用だ、エンジェル」
むしろ、なぜそんなことで、そこまで思い詰めた様子になるのか分からない。本当に変わったやつだ。
天使は心底嬉しそうに笑うと、さっと立って本棚から一冊のノートを取ってきた。
「お前と話したいことが沢山あったから、こうして書き出してみたんだ」
見ると、ノートには数十ページにわたってぎっしりと、几帳面な文字が並んでいる。
「なになに……『人間の習慣について』『人間の趣味・娯楽について』『人間の罪と罰、神界・地獄の罪と罰について』……」
俺が読み上げたのはほんの一例で、そんな調子の話題、と言うよりも議題が、大量に羅列されている。俺の視線に、天使は照れたように言う。
「前に、お前と喫茶店で、人間の愛について話しただろう。あれが本当に楽しくて……だから」
あまりのいじらしさに、うまく呼吸が出来ない。数秒間かけてどうにか気を落ち着かせ、ようやく口を開く。
「俺も、お前と話をするのは楽しいぜ」
伝えたい感情の一割も言葉にできなかった気がするが、それでも天使は顔を綻ばせ、テーブルの上に身を乗り出した。
「嬉しいよ、お互い同じ気持ちだったんだな」
俺は多少、邪な思いを抱いていた、なんてことは言えそうもない。しかし言葉を交わすというのは、精神で、魂で交わるということだ。霊的存在である俺たちにとっては、充分すぎる交流かもしれない。
天使は時間を惜しんだのか、指を鳴らして、俺の前には追加のコーヒーを、自分の前には紅茶のポットを出現させた。
「それじゃあ、早速…… この間お前の家で見た一本めの映画の主人公の、ラストの行動の意味について考えてみたんだが……」
元々美しい光輝に溢れる瞳を更に輝かせて勢いよく話し出す天使を見ながら、俺は、この夜が永遠に続いてくれないだろうかと、幸福に酔った頭で思っていた。
何の期待もないと言えば、嘘になる。だが、あの純粋な天使のことだ……可能性がないとは言えないが、しかしあるとしても万にひとつだろう。まあ、そんなことは別に良い。俺たちのような霊的存在には、時間だけはそれこそ無限にあるのだから。
前回同様、チャイムを押す前に扉が開き、輝く青い瞳が俺を見上げた。
「来てくれてありがとう、ラブ」
「……こちらこそ、お誘い感謝する。エンジェル」
いい加減「ラブ」という呼びかけにも完全に慣れたいところだが、そんな日は永遠にこないような気がしてならない。
白く清潔な部屋は俺の部屋と同じように生活感がないが、俺の部屋よりも、暖かく明るい雰囲気がある。その場にいるだけで周囲を浄化する、天使の力のせいだろう。俺だから良いが、並の悪魔なら、この建物に近づくことも出来まい。
天使がすすめてくれた椅子に腰掛け、部屋を見渡す。それほどダイニングは広くなく、今は閉まっている簡単な仕切り戸で、寝室との区分が為されている。必要最低限の家具の合間に、グリーンを配しているのがこいつらしい。生真面目な主人の性格が、その生き生きとした葉に表れている。簡素な本棚には不用意に触れたら手が痺れそうな聖書の類が並び、恐らくこれまで人間からプレゼントされたのであろう置物なども飾られている。壁には、植物や聖書の場面を描いた絵画が数点、飾られている。
「そんなにじっくり見るほど、面白いものもないだろう」
「いや ここにあるどれもがお前らしくて、面白いよ」
天使は「ふうん」と首を傾げつつ、俺の正面の椅子に置いていたらしいエプロンを手に取って身に付けた。白いカフェエプロンが、とてもよく似合っている。
「本当はお前が来たらすぐに料理を出したかったんだが、仕上げに火を入れたくて……」
言いながらキッチンへ歩く後をついて行くと、天使は振り返って頬を赤らめた。
「良いから、ゆっくり座っててくれ」
「別に良いだろ。料理してるお前を見ていたい」
耳まで赤くした天使は、困ったように視線を落とした。
「その……準備してるところを見られるのは、何というか……恥ずかしいんだ。この間も、ケーキを完成させる前に見られてしまったし……お前には、完成品だけを見せたいんだよ」
心臓の拍動が狂う。足がよろめきそうになるのを何とかこらえて、俺はひとつ頷いて見せた。
「承知した。そういう気持ちに気づけなくて、済まないな」
「いいや、これは私のわがままだから……。分かってもらえて嬉しいよ、マイラブ」
結局よろめいて、背中が壁に当たった。
おとなしく椅子に座って数分後、天使は湯気のたったシチューと、パン籠をテーブルに並べていった。
「お前のあの完璧な料理に比べたら、本当に大したことがなくて申し訳ないんだが……でも、得意料理なんだ。この間のお礼、にはならないかもしれないが、美味しく食べてもらえたら嬉しいな」
正面に座り、天使ははにかみながら言う。
「お前が俺に作ってくれた料理が、美味しくない訳がない。いただくぜ」
「どうぞ召し上がれ」
緊張を含んだ視線を感じながら、ひと口、シチューを啜る。俺ならもっとスパイスを効かせるところだが、まろやかな口当たりが、こいつらしい。
「うん、美味い」
「本当か 良かった」
にこにこと笑む、その顔を見ながら食べるだけで、どんな料理だろうが最上の逸品になるのは間違いない。
「昔、料理が得意な人間に、ちょっと習って覚えたんだ。こういうのは、ただ知識だけ持っていても、上手く出来ないものだね」
「そうかもな」
実のところ、俺は誰にも料理を習ったことはない。悪魔は人間に関する知識と、それに伴う技術とを、生まれながらに持ち合わせているものだからだ。ましてや、誘惑の対象である人間に何かを習おうなどという発想はなかった。いや、恐らく他の天使たちにも、そんなことは思いつかないのに違いない。食事など睡眠同様、俺たちにとっては、せずに済ましても良いことなのだから。
「はは、お前は本当に変わった天使だよな」
「そ、そうかな……」
俺の言葉の意味が本気で分からないのであろう愛すべき天使は、不思議そうに、パンをちぎってシチューに入れた。俺もパンを手に取り、シチューを掬って口に入れる。ざらざらした堅いパンが、良い塩梅にふやけて食べやすい。
「そうだ、天使サマ。お前さえ良ければ、今度、料理を教えてやろうか」
「…… 本当か お前に習ったら、きっととても腕が上がるな」
ほんの思いつきだったが、天使は予想以上に嬉しそうで、俺もつられて微笑んでしまった。二人でキッチンに立ち、料理を作る……想像するだけで、幸福に頭がぼうっとしてくる。
想像の幸福と目の前に展開される幸福とに半分夢見心地のまま、俺は最後のひと口を食べ終えた。
「美味かった。ありがとう」
「こちらこそ、食べてくれてありがとう。こんな風に誰かに作った料理を食べてもらえるって、とても幸せなことだな。習っておいて良かったよ」
満面の笑みをたたえたその顔は、あまりにも可憐だ。可憐な天使は皿を片付けると、ケトルで湯を沸かし始めた。
「お前に飲んで欲しくて、初めてコーヒー豆を買ってみたんだ。キリマンジャロが好きなんだろう。この間お邪魔したとき、棚に仕舞ってあるのを見たんだ」
「よく見ていてくれて、嬉しいな」
正直に言えば、細かい好みなどというものは俺にはなかった。店では何も考えずにその店のブレンドを頼んでいるだけだし、自宅に置いていた豆も、たまたまそれだったというだけだ。そればかりか、コーヒー自体、黒色で、飲むと目が覚めるからよく飲むというだけで、特別好きというわけでもないのだ。
だが、そんなことはどうでも良い。俺の天使が用意してくれるものなら、それが例え泥水であったとしても美味しく飲める自信があるし、俺が何を飲んでいたのか覚えていてもらえたというだけで、充分過ぎる位だ。
だから、天使が慣れない手つきで淹れてくれたコーヒーは、今まで飲んだ中で一番、美味かった。そう伝えると、自身はティーカップを前にして、天使はホッとしたように微笑んだ。
「それは良かった…… コーヒーの良し悪しが私には分からないものだから……コーヒー通の同僚に、ひと通り習っておいて良かったよ」
「お前は人に恵まれてるんだな」
「たしかに、そうかもしれないな。まあ、当たり前だが信仰に厚い人しか周りにいないものだから……みんな愛情深いんだよ」
悪魔が接する人間というのは、少し後押ししてやれば悪の道へ簡単に転げ落ちるようなタイプが多い。もちろん例外もいるが、普段、誘惑するために近づくことが多いのは、そういう奴らだ。だから、こいつが言うような人間ばかりが周りにいる環境というのはなかなかに想像し難いし、悪魔としての本能的な嫌悪感すら覚える。だが、こいつがそういう環境で上手くやっているということ自体は、喜ばしいことだった。
「そう言えばお前、今は何の仕事に就いてるんだ。この間までは神学校図書館の司書だったんだろう」
俺の問いに、天使は紅茶へ角砂糖を落としながら頷いた。
「お前と再会する少し前までは、そうだった。今はバチカンの奇跡認定部署の、下位組織に所属しているよ」
「へえ。天使が奇跡認定をね……それは面白い」
巷には、自称他称含めて様々な「奇跡」が溢れている。それらを科学的・神学的に調査して、真実「奇跡」であるかどうか認定する部署が、バチカンの教会にはあるのだ。そんな調査を経ずとも、天使であるこいつには、それが本物かどうか、判別できてしまうだろうが。
俺の感嘆に、天使は苦笑いを漏らす。
「私としては、主の力による奇跡を起こす人間に会ってみたいものなんだがね。どうも、なかなかそうはいかないね」
「そりゃあ、そうだろうな。そう簡単に起きないからこその奇跡だ」
だから、俺とこいつが祝福を受けたのは、本来ならこの世には起こり得ないほどの、本当の奇跡だったのだ。
天使は頷いて紅茶を口に含み、上目遣いで俺を見た。長い睫毛の下から覗く鮮やかなブルーに、胸を締め付けられる。
「どうした、天使サマ。何か言いたいことがあるようだが」
促すと、天使は小さな唇でおずおずと切り出した。
「その……お前はこの後、何か用事でも」
「ない」
「そ、そうか。……なら、まだ一緒にいてくれるか」
「当然だ」
天使はホッとしたように息をついた。その健気さに、ますます胸が苦しくなる。お前が望むなら、俺はいつまでだって仕事など放置して、寄り添っていられるというのに。
「そ、それじゃあ……その……」
言い出しにくそうに視線をさまよわせるその様子に、ここに来たとき抱いていた、微かな期待が再び頭をもたげる。肉体など魂の容器に過ぎず、その交渉に囚われるのも、己を牢獄に投げ込むようなものだ……が、真に愛する者からの申し出ならば別だ。
そんなことを思いながら見つめていると、天使はようやく、思い切ったように言った。
「朝まで話に付き合ってくれないか」
思い切り肩透かしをくらい、俺は大きく息を吐いた。
「なんだ、そんなことか……お安い御用だ、エンジェル」
むしろ、なぜそんなことで、そこまで思い詰めた様子になるのか分からない。本当に変わったやつだ。
天使は心底嬉しそうに笑うと、さっと立って本棚から一冊のノートを取ってきた。
「お前と話したいことが沢山あったから、こうして書き出してみたんだ」
見ると、ノートには数十ページにわたってぎっしりと、几帳面な文字が並んでいる。
「なになに……『人間の習慣について』『人間の趣味・娯楽について』『人間の罪と罰、神界・地獄の罪と罰について』……」
俺が読み上げたのはほんの一例で、そんな調子の話題、と言うよりも議題が、大量に羅列されている。俺の視線に、天使は照れたように言う。
「前に、お前と喫茶店で、人間の愛について話しただろう。あれが本当に楽しくて……だから」
あまりのいじらしさに、うまく呼吸が出来ない。数秒間かけてどうにか気を落ち着かせ、ようやく口を開く。
「俺も、お前と話をするのは楽しいぜ」
伝えたい感情の一割も言葉にできなかった気がするが、それでも天使は顔を綻ばせ、テーブルの上に身を乗り出した。
「嬉しいよ、お互い同じ気持ちだったんだな」
俺は多少、邪な思いを抱いていた、なんてことは言えそうもない。しかし言葉を交わすというのは、精神で、魂で交わるということだ。霊的存在である俺たちにとっては、充分すぎる交流かもしれない。
天使は時間を惜しんだのか、指を鳴らして、俺の前には追加のコーヒーを、自分の前には紅茶のポットを出現させた。
「それじゃあ、早速…… この間お前の家で見た一本めの映画の主人公の、ラストの行動の意味について考えてみたんだが……」
元々美しい光輝に溢れる瞳を更に輝かせて勢いよく話し出す天使を見ながら、俺は、この夜が永遠に続いてくれないだろうかと、幸福に酔った頭で思っていた。