196話 仮面舞踏会
気がつくと私は、普通の人生を送っていたのではまず目にしないだろう、貴族のお屋敷めいたホールにいた。
「え? 何ここ?」
パニック、にはなっていないと思うけれど、自信はない。死ぬ直前に見る幻というやつなのだろうか。でも、これが?
大きな大きなシャンデリアが広間中央の天井からぶら下がり、光を全方位にキラキラと反射している。高い天井にも美しい絵が隙間なく描かれていて、思わず写真を撮ろうかと思ってしまった。でも、どうやら持っていたカバンがどこにもない。スマホもない。広間はガヤガヤと騒がしく、これまた大昔の貴族めいた夜会服に身を包んだ男女が、どこかからか流れてくる陽気な曲に合わせて歌い踊っている。
本当に、何なの、ここ。
「にゃあお」
場違いな鳴き声に視線を落とすと、黒猫がいた。咄嗟に「よかった」と声が出る。
「生きてたんだ、お前」
「にゃ」
猫は私のローファーに擦り寄り、甘えた声を出した。よくわからない場所で見覚えのある存在に出会えたことでホッとして、私はしゃがんで猫の背中を撫でた。その時、誰かが私の前に立った気配がした。
「お嬢さん。これをどうぞ」
低くて甘い、男の人の声だった。私のことかな、と顔を上げると、黒い仮面をつけた男の人が、猫を模した仮面を差し出していた。
「仮面……?」
「気がついていなかったかな。これは仮面舞踏会なんだ」
周りを見てみると、確かに、ここにいる人はみんな、仮面をつけているみたい。イタリアのカーニヴァルみたい。
「あ、あの。私、何かの手違いでここに迷い込んでしまったみたいなんです。招待状とかも持ってないし……」
男の人は仮面の口元に手を当てた。
「しっ。事情はわかっているよ。とにかくこれを着けるんだ」
優しげだけれど有無を言わさぬ口調に気圧されて、私は猫の仮面を着けた。仮面なんて、子供の時以来で変な感じ。幸い、視界は大きく損なわれず、そんなに不便でもなさそう。あ、でも、鼻の頭が痒くなった時とかは困るかも。
「さて、お嬢さん。ここで突っ立っていると変に目立ってしまう。踊りながら話そうか」
「え、踊るって……」
「学校で何回か踊ったことくらいあるだろう。さあ」
男の人に手を取られて、仕方なく踊り出す。煌びやかな服装の人たちに制服姿で混じっているのがすごく場違いな気がするけれど、男の人が堂々としているので、あまり気にしなくていいのかな。妙に明るいワルツに合わせて、慎重に足を運ぶ。
「あの、お兄さん。私、何が何だか」
彼のステップに導かれるように辿々しくも踊りながら、私は慌てて話しかける。男の人は悠然と頷く。
「そうだろうとも。これはね……悪魔の集会なんだよ」
「悪魔……!?」
思わず大きな声が出て、周囲の人々が一瞬、話を止めてこちらを見つめた。仮面の下の目が、どれも瞬きひとつせずに、私を凝視している。一気に気温が下がった気がして、足が止まる。
「シー。大きな声を出すんじゃない」
男の人は周囲に向かって不機嫌そうに、手で払う仕草をした。仮面の人々は元のように、踊りを再開する。
「ご、ごめんなさい、私……」
「いや、謝らなくていい。ただ、変に注目されて君が人間だとバレたら、大事になってしまうからな」
相変わらず言葉の意味がよくわからないけれど、この人は信用できる。なぜだかそんな気がする。
「ここに集まっているのは悪魔ばかりさ。日頃溜まった鬱憤を、人間の真似事をして晴らしているんだ」
くだらないだろう、と吐き捨てるように笑う男の人も、やはり悪魔なのだろうか。黒い短髪の下から覗く耳は、少し尖っているようだ。
「どうやら君は、俺の使い魔を、身を挺して助けてくれたようだな」
「使い魔……?」
そんなこと、した覚えはないのだけれど。
「あの黒猫さ。今もずっと君について回っている」
言われて気がついた。踏んづけないように気をつけないと。
「助けてくれた君のことを助けようと思って、そいつが魔法を使ったんだろう。でもまだ未熟なもんで、自分の目的地に君を連れて来てしまったんだ」
「そう……なんですか……?」
かなりちゃんと説明してくれたような気もするけれど、よくわからないことに変わりはない。黒猫が、足元で微かに鳴く。
「俺からも礼を言う。こいつの命を助けてくれて、ありがとう。本当は迷い込んだ人間を助けることなんてないんだが、君は特別だ。無事に帰してあげよう」
「あ、ありがとうございます」
助けられなかったら、どうなってしまっていたのだろう。この広間で永遠に取り残されるのだろうか。それとも人間だとバレて……?
「君が想像できないほどに酷い目に遭うことは間違いないな」
私の考えていたことを読んだようなセリフだ。この人、本当に悪魔なのかも。
「ふふ。だからそうだと言っている。……さあ、着いた。この扉から出て行くといい。念の為、帰り着くまで仮面は外さないでおくように」
繋いでいた手が離れた。それまで夢の中のようだったのに、一気に不安が押し寄せてくる。ここから一人で、本当に帰れるのだろうか。
「安心しろ。こいつがちゃんと送り届けるさ」
黒猫が「なあご」と鳴き、扉に向かって歩き出した。私は把手に手をかけて、最後にもう一度、後ろを振り返った。男の人は仮面を外して、私を見ていた。勝手に少女漫画の王子様を想像していたけれど、私の想像の上をいく別次元のイケメンで、「わあ」と声が出る。男の人は切長の黒目を少しだけ和ませて、微笑んで手を振ってくれた。頭を下げて、扉を開く。
「え? 何ここ?」
パニック、にはなっていないと思うけれど、自信はない。死ぬ直前に見る幻というやつなのだろうか。でも、これが?
大きな大きなシャンデリアが広間中央の天井からぶら下がり、光を全方位にキラキラと反射している。高い天井にも美しい絵が隙間なく描かれていて、思わず写真を撮ろうかと思ってしまった。でも、どうやら持っていたカバンがどこにもない。スマホもない。広間はガヤガヤと騒がしく、これまた大昔の貴族めいた夜会服に身を包んだ男女が、どこかからか流れてくる陽気な曲に合わせて歌い踊っている。
本当に、何なの、ここ。
「にゃあお」
場違いな鳴き声に視線を落とすと、黒猫がいた。咄嗟に「よかった」と声が出る。
「生きてたんだ、お前」
「にゃ」
猫は私のローファーに擦り寄り、甘えた声を出した。よくわからない場所で見覚えのある存在に出会えたことでホッとして、私はしゃがんで猫の背中を撫でた。その時、誰かが私の前に立った気配がした。
「お嬢さん。これをどうぞ」
低くて甘い、男の人の声だった。私のことかな、と顔を上げると、黒い仮面をつけた男の人が、猫を模した仮面を差し出していた。
「仮面……?」
「気がついていなかったかな。これは仮面舞踏会なんだ」
周りを見てみると、確かに、ここにいる人はみんな、仮面をつけているみたい。イタリアのカーニヴァルみたい。
「あ、あの。私、何かの手違いでここに迷い込んでしまったみたいなんです。招待状とかも持ってないし……」
男の人は仮面の口元に手を当てた。
「しっ。事情はわかっているよ。とにかくこれを着けるんだ」
優しげだけれど有無を言わさぬ口調に気圧されて、私は猫の仮面を着けた。仮面なんて、子供の時以来で変な感じ。幸い、視界は大きく損なわれず、そんなに不便でもなさそう。あ、でも、鼻の頭が痒くなった時とかは困るかも。
「さて、お嬢さん。ここで突っ立っていると変に目立ってしまう。踊りながら話そうか」
「え、踊るって……」
「学校で何回か踊ったことくらいあるだろう。さあ」
男の人に手を取られて、仕方なく踊り出す。煌びやかな服装の人たちに制服姿で混じっているのがすごく場違いな気がするけれど、男の人が堂々としているので、あまり気にしなくていいのかな。妙に明るいワルツに合わせて、慎重に足を運ぶ。
「あの、お兄さん。私、何が何だか」
彼のステップに導かれるように辿々しくも踊りながら、私は慌てて話しかける。男の人は悠然と頷く。
「そうだろうとも。これはね……悪魔の集会なんだよ」
「悪魔……!?」
思わず大きな声が出て、周囲の人々が一瞬、話を止めてこちらを見つめた。仮面の下の目が、どれも瞬きひとつせずに、私を凝視している。一気に気温が下がった気がして、足が止まる。
「シー。大きな声を出すんじゃない」
男の人は周囲に向かって不機嫌そうに、手で払う仕草をした。仮面の人々は元のように、踊りを再開する。
「ご、ごめんなさい、私……」
「いや、謝らなくていい。ただ、変に注目されて君が人間だとバレたら、大事になってしまうからな」
相変わらず言葉の意味がよくわからないけれど、この人は信用できる。なぜだかそんな気がする。
「ここに集まっているのは悪魔ばかりさ。日頃溜まった鬱憤を、人間の真似事をして晴らしているんだ」
くだらないだろう、と吐き捨てるように笑う男の人も、やはり悪魔なのだろうか。黒い短髪の下から覗く耳は、少し尖っているようだ。
「どうやら君は、俺の使い魔を、身を挺して助けてくれたようだな」
「使い魔……?」
そんなこと、した覚えはないのだけれど。
「あの黒猫さ。今もずっと君について回っている」
言われて気がついた。踏んづけないように気をつけないと。
「助けてくれた君のことを助けようと思って、そいつが魔法を使ったんだろう。でもまだ未熟なもんで、自分の目的地に君を連れて来てしまったんだ」
「そう……なんですか……?」
かなりちゃんと説明してくれたような気もするけれど、よくわからないことに変わりはない。黒猫が、足元で微かに鳴く。
「俺からも礼を言う。こいつの命を助けてくれて、ありがとう。本当は迷い込んだ人間を助けることなんてないんだが、君は特別だ。無事に帰してあげよう」
「あ、ありがとうございます」
助けられなかったら、どうなってしまっていたのだろう。この広間で永遠に取り残されるのだろうか。それとも人間だとバレて……?
「君が想像できないほどに酷い目に遭うことは間違いないな」
私の考えていたことを読んだようなセリフだ。この人、本当に悪魔なのかも。
「ふふ。だからそうだと言っている。……さあ、着いた。この扉から出て行くといい。念の為、帰り着くまで仮面は外さないでおくように」
繋いでいた手が離れた。それまで夢の中のようだったのに、一気に不安が押し寄せてくる。ここから一人で、本当に帰れるのだろうか。
「安心しろ。こいつがちゃんと送り届けるさ」
黒猫が「なあご」と鳴き、扉に向かって歩き出した。私は把手に手をかけて、最後にもう一度、後ろを振り返った。男の人は仮面を外して、私を見ていた。勝手に少女漫画の王子様を想像していたけれど、私の想像の上をいく別次元のイケメンで、「わあ」と声が出る。男の人は切長の黒目を少しだけ和ませて、微笑んで手を振ってくれた。頭を下げて、扉を開く。