195話 赤い靴

「その様子だと、オーディションには合格したんだな」
 聞き覚えのある低い声に振り向くと、あの日、一度だけ会った舞台プロデューサーが立っていた。そのつもりではないのだろうが、相変わらず黒で統一した服装は葬儀向きだ。
「そうよ。貴方が背中を押してくれたお陰だと思うわ。ありがとう」
 男は肩をすくめた。眩い陽光がその髪を照らすが、どうにも陰気だ。
「君の実力さ。それこそ半年前……いや、もっとずっと前から、君が君のために行ってきた下準備の賜物だよ」
 冷たい風が、墓地から吹いてくる。教会の方で、葬儀の参列者達が故人を偲んでいる声が聞こえる。
「さあ、約束の品だ。受け取って」
 男が、黒い箱を差し出した。案外軽い箱を開けると、夢にまで見た赤いトゥシューズが入っていた。
「本当にくれるの」
「もちろん。君は合格した。その資格がある」
 頬が熱くなる。小さな頃、それこそまだバレエなんて知らなかった頃、テレビで見たアニメのヒロインが履いていたのにそっくりの、可愛らしい赤いトゥシューズ。これを履いて踊る私はきっと、世界中の人から称賛を受けるだろう。きっと……。
「さあ、履いて見せてくれよ。君が実力で手に入れた、本当に欲しかった靴だろう」
 私は頷いた。黒い靴を脱いでトゥパッドを付けて、赤いトゥシューズに足を入れ、装着した……途端、鋭い痛みが走った。
「何……」
 焼けるような痛みに、しゃがんでいた姿勢から慌てて立ち上がる。両足の先がジクジクと痛み、心臓がすごい速さで動いて、落ち着かない。眩暈がして呼吸が早まり、ああ、ああ、このままでは死んでしまう。何? 何が起きたのかわからない……。
「何をぼさっとしてるんだ。踊れ!」
 男の声が、私の体を突き動かした。反射的に爪先立ちになった足が、いつもするようにステップを踏む。速い……とても速いリズムで、私は踊り出した。どうして? こんな所で、こんな時に、踊りたくなんてないのに。悲しみに暮れる孫娘を演じるべきなのに、体が止まらない。速いリズムの曲、タランテラが頭の中に鳴り響き、足が、腕が、腰が、背中が、それにつられて動いてしまう。さっきまで静謐そのものだった教会へ続く道が、まるで熱された鉄のよう。
「そう、タランテラだ」
 くるくる回る視界の中、やけにクッキリ見える男が言う。
「リズムの速い曲・タランテラの語源は毒蜘蛛、タランチュラだ。タランチュラに噛まれた者が助かるためには、そのリズムで踊らなくてはいけないとされた」
 タランチュラ? 毒蜘蛛? 何の話をしているの……。
「苦しいだろう? 踊っている間はその苦しみが、体の動きに紛れて和らぐだろう? だがね、それは気のせいさ。動けば動くほど、毒は身体中に回る。やがては脳や中枢神経までも犯されることだろう」
 目が回る。動悸が激しくて、体の方をそれに合わせなくては、立ってさえいられないことがわかる。ああ、もっと速く動かなくては。動かなくては……。
 いつの間にか、墓地にいた人たちが私を取り囲んでいることに気がついた。踊り続ける私を遠巻きに、ヒソヒソと、あるいは大っぴらに言葉を交わし、指を差しながら。
「カーレン。君の魂は真っ黒だ。とても美しい」
 他の人たちはぼやけているのに、黒髪の男だけは、どんなに速く動いても視界に入ってくる。その声だけは、耳にまっすぐ届く。他の人たちは、彼に気がついていないのだろうか?
「君は本当に長いこと、成功するための下準備を重ねてきた。その一つ一つが自分の魂を美しい黒に染め上げていたことを、知っていたかな?」
 いつの間にか、男は私に合わせて踊っていた。とても素早いリズムなのに、息一つ切らせず、表情も変えず、汗の一筋すら流さず。ただ、退屈凌ぎのように。細く無駄の無い筋肉を、今まで見たどんなダンサーよりも美しく動かして。私に合わせて。
「君は忘れてしまったようだが……君には妹がいたんだぜ。それも、君よりも可愛らしく君よりも才能に溢れ、君よりも愛される妹が」
 そういえば、そんなのがいたような気もする。でも、今はもういないじゃないか。それが何よりも重要だ。
「そう、そうだ。その利己心! ああ、カーレン。君は最高だよ……」
 男はため息まじりに、私を称賛する。そう、それこそ私の欲しいものだ。称賛!
 私はますます速く回り、高く飛び上がる。赤いトゥシューズは、まるでもう長年私と共にあったかのように、私と一体となって私の体を支えてくれる。秋の日差しはスポットライトで、葬儀の参列者は観客だ。数十人の目が、私に注がれているのを感じる。血液が沸騰する。
「君は手始めに、妹を手にかけた。この先、何十年も自分の脅威となるかもしれない芽は、早めに摘んでおくに限るものな。八歳の少女にしては賢いよ。ついでに、常識的で芸術への理解のない両親も、事故に見せかけて殺した。学問分野では、君は絶対に目立つことがないってわかっていたんだものな。本当に賢いよ」
 男が手を叩く。青と灰色と茶色と輝きが混然となった世界で、男の存在だけがまともに視界に映っている。
「バレエスクールに入学してからも、君は自分が輝くために不要なものを排除し、必要なものを勝ち取っていった。ある時は学友を陥れ、ある時はコーチの心を掌握し、ある時は主役の座をもぎ取るために相手を再起不能にした。全て、君の実力だ」
 そう、そうだ。男の言う通りだ。全て、その通りだ。
「普通なら、君くらいの年頃の少女の魂なんて、回収の対象にはならないんだ。まだまだ無垢なものばかりで、ご主人サマに献上するには重みが足りないからな。でも、カーレン。君は特別だ。幼少期から利己心だけで生きてきた君は、十八歳にしてこんなにも美しく黒に染まった魂を持つに至った。他の悪魔が君に目をつける前にと思って、俺はやって来たんだよ……」
 男が、悪魔が、そっと私の髪を撫でる。
「自分のことしか見えない、愛せないカーレン。君が最後に人々の耳目を集めるのが、祖母の葬式で、赤い靴を履いて、なんて……この上なくよく出来た物語じゃないか?」
 視界が霞む。耳鳴りがする。けれども体は止まらない。自分が何をしているのかも、わからなくなってゆく。
 男が笑う。嘲りの笑い、私を見下し切った笑い。
「哀れなカーレン! 息絶えるまで踊り狂え!」
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