195話 赤い靴

 オーディションまであと一週間を切った頃、おばあちゃんが入院した。おばあちゃんは気丈にも、見舞いは要らないからオーディションに全力を注いでくれ、と言った。私は当然、涙声を作ってそれに答えた。
「ありがとう、おばあちゃん。私、おばあちゃんのために頑張るよ」
 それにしても、本当にいいタイミングで体調を崩してくれたものだ。バレエ団に入団してプロになっても、年寄りの介護に時間や労力を使うことになるのは勘弁してほしいと思っていたのだ。プロになれば、もう彼女の支援を受ける必要はない。それどころか、彼女に代わる、もっといい支援者に巡り会えることだろう。あの舞台プロデューサーのように。
 心身ともに、コンディションは完璧だった。
 スクール生のライバルは順調に数を減らしてきている。謎の皮膚炎や頭痛、腹痛を訴えるスクール生が続出し、卒業公演のための集団レッスンは無期限の休止になった。
 リーは、特に酷い。飲み物に酸性の液体を加えられたらしく、喉に食道に胃に重い火傷を負って、ずっと入院している。私を疑う人間なんていない。私はリーに平手打ちされ詰められただけの、被害者だ。
 そんなわけで、オーディションに参加したスクール生は、私だけだった。スクールの状況を知ったバレエ団は、一旦はオーディションを延期してスクール生に便宜を図ろうとしたらしい。けれど、この日のためにコンディションを整えてきた、スクール外の参加者のことを考慮して、延期は取りやめになった。
 その判断は正しい。
 ライバル不在のオーディションで、私は誰よりも輝いた。誰よりも軽やかなステップを踏み、誰よりも高く飛び、誰よりも柔らかく舞った。体の隅々まで使って舞台を自分のものにした。舞台に流れた音楽は、私のために作られたかのようだった。私が演技を終えて礼をしても、審査員はしばらく身じろぎもしなかった。点数をつけることすら忘れたように、ただ私に見惚れていた。
 意気揚々と帰宅した私は、アイスケーキでお祝いをした。オーディション終了直後に病院から急いで来るようにと連絡が来ていたけれど、急ぐ意味なんてなかった。「お祖母様が、最後にあなたに一目会いたいとおっしゃっています」私がそれに応える意味は、どこにある?
 日頃控えている甘味を堪能し、自分一人で自分のための時間をたっぷり過ごした後、私は病院へ向かった。駅から全力疾走して、息を切らして駆けつけた私に、医者が気の毒そうに首を振った。
「お祖母様は、最後まであなたに会いたがっていましたよ。ずっと、あなたのことを案じていました」
「おばあちゃん……」
 演じることだ。その場に合った顔を、その場に合った動きをすること。人生において大切なことなんて、そのくらいしかない。他のあらゆることは、私のためになるかどうかで決めればいい。
 葬儀は一週間後に決まった。ちょうどその日は、オーディションの結果発表日だ。
 私の新しい人生は、そこから始まる。
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