195話 赤い靴
個人レッスンの後、ストレッチをしていたら電話がかかってきた。白鳥の湖のメロディ。表示された名前を見て、ほっとする。おばあちゃんだ。
「カーレン、元気かい」
「元気よ、おばあちゃん。この間は公演後に花束をありがとう。ちゃんとお礼を言ってなかったわ」
電話越しの声は元気だ。けれど、彼女が私の前では努力して元気に振る舞っているのだと言うことを、私は知っている。
「オーディションはもうあとひと月なんだろう。頑張るんだよ。おばあちゃんはカーレンの味方だからね」
「ありがとう、おばあちゃん」
おばあちゃんはカーレンの味方。そう、その通りだ。私は十年前からそれを知っている。事故で両親を一度に失った私と、同じタイミングで伴侶を失ったおばあちゃんとは、その時からお互いが唯一の肉親となった。父方の祖父母は、それより前に、すでに他界している。
「スクールに通わせてくれて、ここまで援助してくれて、本当に感謝してるの」
「カーレンの才能は眠らせておくには勿体無いからね。当然のことをしただけだよ」
私の踊りの才能を見出してくれたのは、芸術に造詣の深いおばあちゃんだ。彼女の支援がなければ、私はここまで来られなかっただろう。彼女の深い愛情と、祖父の遺した財産がなければ。
「ところで、前に言っていた意地悪な同級生はどうなったんだい」
おばあちゃんが声を顰める。私もつられて、小声で答えた。
「退学処分よ、おばあちゃん。おばあちゃんが先生に話してくれたお陰」
学校に長年、多大な寄付をしているおばあちゃんの訴えを、スクールは無視できない。意地悪な同級生にシューズや衣装を隠されて、孫の練習に支障が出ている、という事実無根の話を、盲目的に信じてしまうほどに。
誰にでも優しく、困っている同級生にはシューズや衣装まで貸してしまうほどの善人だった彼女は、つい数日前、荷物をまとめて寮を出て行った。目に涙をいっぱい溜めて、私を見て……それでも何も言わずに。
反吐が出る。
「カーレン、お前は強い子だ。何をされても諦めるんじゃないよ。そして、誰にも優しさを忘れないで」
「うん、わかってる」
そもそも覚えたことのないものを、忘れるわけがない。
電話を切ってレッスン室から出ると、頬に衝撃が走った。一瞬遅れて鋭い痛みが走り、平手打ちをされたのだとわかった。目の前に、リーが立っている。すごい顔だ。思わず笑ってしまいそうになって、頬を押さえるフリをして誤魔化した。
廊下で談笑していたスクール生たちが、遠巻きにこちらを見ているのがわかる。
「あんたね……! 何、普通の顔してレッスン受けてんのよ!」
「リー。それ、どういう意味?」
突然叩かれて衝撃を隠せない、という風に、ドアに背中を押しつけるようにして、私は弱々しい声を出した。被害者は私なのだ、この場の人間に、そう見せる必要がある。
リーは目を吊り上げて、私の両肩を手で押さえつけた。
「あんたのせいで、メグは退学させられたんでしょう! こんな……卒業まであと少しだっていう時期に!」
「痛いよ、リー。やめて。私、何もしてない」
「この……!」
リーがもう一度、今度は握り拳を振り上げたのが見えた。いいだろう。私の不利にはならない。一発くらい殴られてやるのは、全然構わない。ライバルがまた一人、減るだけだ。
衝撃に備えて目を瞑っていたけれど、何も起きなかった。目を開いてみると、リーは震えながら、自分の拳を押さえつけていた。
「……殴らないの?」
尋ねると、リーはキッと私を睨みつけた。
「メグの二の舞はごめんだもの。私は正々堂々と、技術であんたを負かす。覚悟しておくことだね」
そのまま背を向けて、大股で歩いていなくなってしまった。
ざわついていたスクール生たちは、厄介ごとに巻き込まれないうちに、と姿を消した。みんな、リーの高潔さを見習ったほうがいい。
それにしても、覚悟。覚悟ね。
面白くなってしまう。
あんたこそ、私に手を上げるなんて、ちゃんと覚悟してからやったわけ? 技術で私を負かす、その前に舞台から退場させられるかもって、ちらっとでも考えてみなかったの?
どいつもこいつも、思考が平和すぎる。私はとっくの昔に……半年前から、あんたたちを蹴落とす算段を立てていたと言うのに。
「くっ……くく」
喉の奥の方から笑いが込み上げてきて、慌てて抑え込む。リーの破滅は半年前から決まっている。王立バレエ団の入団オーディションを受験するスクール生は、私以外の全員が破滅することになっているのだ。
赤いトゥシューズを履くのは、私だけでいい。
「カーレン、元気かい」
「元気よ、おばあちゃん。この間は公演後に花束をありがとう。ちゃんとお礼を言ってなかったわ」
電話越しの声は元気だ。けれど、彼女が私の前では努力して元気に振る舞っているのだと言うことを、私は知っている。
「オーディションはもうあとひと月なんだろう。頑張るんだよ。おばあちゃんはカーレンの味方だからね」
「ありがとう、おばあちゃん」
おばあちゃんはカーレンの味方。そう、その通りだ。私は十年前からそれを知っている。事故で両親を一度に失った私と、同じタイミングで伴侶を失ったおばあちゃんとは、その時からお互いが唯一の肉親となった。父方の祖父母は、それより前に、すでに他界している。
「スクールに通わせてくれて、ここまで援助してくれて、本当に感謝してるの」
「カーレンの才能は眠らせておくには勿体無いからね。当然のことをしただけだよ」
私の踊りの才能を見出してくれたのは、芸術に造詣の深いおばあちゃんだ。彼女の支援がなければ、私はここまで来られなかっただろう。彼女の深い愛情と、祖父の遺した財産がなければ。
「ところで、前に言っていた意地悪な同級生はどうなったんだい」
おばあちゃんが声を顰める。私もつられて、小声で答えた。
「退学処分よ、おばあちゃん。おばあちゃんが先生に話してくれたお陰」
学校に長年、多大な寄付をしているおばあちゃんの訴えを、スクールは無視できない。意地悪な同級生にシューズや衣装を隠されて、孫の練習に支障が出ている、という事実無根の話を、盲目的に信じてしまうほどに。
誰にでも優しく、困っている同級生にはシューズや衣装まで貸してしまうほどの善人だった彼女は、つい数日前、荷物をまとめて寮を出て行った。目に涙をいっぱい溜めて、私を見て……それでも何も言わずに。
反吐が出る。
「カーレン、お前は強い子だ。何をされても諦めるんじゃないよ。そして、誰にも優しさを忘れないで」
「うん、わかってる」
そもそも覚えたことのないものを、忘れるわけがない。
電話を切ってレッスン室から出ると、頬に衝撃が走った。一瞬遅れて鋭い痛みが走り、平手打ちをされたのだとわかった。目の前に、リーが立っている。すごい顔だ。思わず笑ってしまいそうになって、頬を押さえるフリをして誤魔化した。
廊下で談笑していたスクール生たちが、遠巻きにこちらを見ているのがわかる。
「あんたね……! 何、普通の顔してレッスン受けてんのよ!」
「リー。それ、どういう意味?」
突然叩かれて衝撃を隠せない、という風に、ドアに背中を押しつけるようにして、私は弱々しい声を出した。被害者は私なのだ、この場の人間に、そう見せる必要がある。
リーは目を吊り上げて、私の両肩を手で押さえつけた。
「あんたのせいで、メグは退学させられたんでしょう! こんな……卒業まであと少しだっていう時期に!」
「痛いよ、リー。やめて。私、何もしてない」
「この……!」
リーがもう一度、今度は握り拳を振り上げたのが見えた。いいだろう。私の不利にはならない。一発くらい殴られてやるのは、全然構わない。ライバルがまた一人、減るだけだ。
衝撃に備えて目を瞑っていたけれど、何も起きなかった。目を開いてみると、リーは震えながら、自分の拳を押さえつけていた。
「……殴らないの?」
尋ねると、リーはキッと私を睨みつけた。
「メグの二の舞はごめんだもの。私は正々堂々と、技術であんたを負かす。覚悟しておくことだね」
そのまま背を向けて、大股で歩いていなくなってしまった。
ざわついていたスクール生たちは、厄介ごとに巻き込まれないうちに、と姿を消した。みんな、リーの高潔さを見習ったほうがいい。
それにしても、覚悟。覚悟ね。
面白くなってしまう。
あんたこそ、私に手を上げるなんて、ちゃんと覚悟してからやったわけ? 技術で私を負かす、その前に舞台から退場させられるかもって、ちらっとでも考えてみなかったの?
どいつもこいつも、思考が平和すぎる。私はとっくの昔に……半年前から、あんたたちを蹴落とす算段を立てていたと言うのに。
「くっ……くく」
喉の奥の方から笑いが込み上げてきて、慌てて抑え込む。リーの破滅は半年前から決まっている。王立バレエ団の入団オーディションを受験するスクール生は、私以外の全員が破滅することになっているのだ。
赤いトゥシューズを履くのは、私だけでいい。