195話 赤い靴

 踊ることは素晴らしい。
 爪先で立ち、小刻みのステップを踏み、華麗な音楽に合わせてふわりふわりと羽ばたくように跳ねては舞い降りる。指の一本一本の動きに気を払い、柔らかく伸ばし、体全体をしなやかに使う。足を振り上げ下ろすたび、鳥の羽のようなチュチュが揺れる。
 表情にも気を遣う。演目によって、演じる役によって、その場にふさわしい表情というものがある。バレエは物語だ。ただ踊っていればいいというものではない。その場にふさわしい表情を、動きをすることが……演じることが重要だ。
 踊ることは素晴らしい……完璧な踊りが、完璧な演技が、私を舞台で輝く唯一の存在にしてくれる。観客の目が、耳が、神経が、感覚が、すべて私に吸い寄せられて離れなくなる。
 誰もが私に夢中になる。
「カーレン、君は最高だ」
 目の前で名刺を差し出した男も、私に夢中の一人みたいだ。受け取った黒い紙には凝った字体で『舞台プロデューサー』とある。
「ありがと。えっと……」
「俺の呼び方なんてどうでもいいだろ。業績が気になるならスマホに聞けばいい」
 喫茶チェーンの賑わう一角で、男が奢ってくれたグランデのコーヒーに口をつけながら、素直にスマホを操作する。男の名前での検索結果は百ページくらいあって、ちらっと見たものはすべて、世界各国のバレエ公演に関するものだった。掲載されている男の写真は、目の前に座る男と一致している。
 黒くて艶のある短髪、切長の黒目。異様に整った容姿。全身黒づくめなのに、それがまた似合っている。舞台プロデューサーになる前は、自分も舞台に立っていたのではないだろうか。
「俺は舞台に立ったことはないぜ。舞台を用意するのが好きなんでな」
「やだ、声に出てた?」
 男はニヤニヤと笑う。
「カーレン。君は王立バレエ団に入団するつもりだろう」
「そりゃあ勿論。そのために、その傘下のバレエスクールに入学したんだから」
 私が十歳の頃から、かれこれ八年間も通っているバレエスクールは、入学オーディションで認められた者しか入学することができない。この時点で、単なる技術レベルの話ではない、骨格や音楽に対するセンス、将来性も含めた「バレエの才能」を見極められているというわけだ。毎年、何千人もの入学志願者がオーディションに集まり、そのうちのほんの僅かな少年少女だけが、狭き門をくぐることを許される。
 名門のバレエスクールは、そのまま名門のバレエ団への入団に直結している。だから十歳の頃の私はそこに入ることを選んだし、十八歳になった私はその選択に感謝しているのだ。
「君の実力なら造作もないことだろう」
「まあ、そうね」
 男の言う通りだ。
 この八年間、ほとんど踊ることしかしてこなかった。スクールでは学業も学ぶけれども、誰もその方面に情熱を傾けたりはしない。私も同じだ。
 だって、学業では、誰からも、見向きもされない。
 その点、踊ることは私に合っていた。踊ることが合っている人間ばかりが集まった中でも、私の踊りは秀でていた。スクールが主催する公演でも、私が踊ると観客席にどよめきが起きた。カーテンコールでお辞儀をすると、観客が一斉に立ち上がって割れんばかりの拍手を送ってくれた。「ブラボー!」の声の中に、「ビューティフォー!」という声も混じっていた。
 そう。私は踊りが上手で、演技が上手で、何より、美しい。
 王立バレエ団の入団オーディションだって、難なく通過するに違いない。
 あいつらさえいなければ。
「言葉とは裏腹に、浮かない顔だな、お姫様」
 男が首を傾げる。
「俺は先日の公演で君を見て確信した。こいつは王立バレエ団の枠には留まらない、いつか国際的に活躍する器だってな。だからこうして声をかけてる。そんな君に、何の不安要素があるって言うんだ?」
 男が喋っている間、胸の内で逡巡する。ここでこの男にこれを話すことのメリットは。デメリットは。
 一瞬で計算して、私は口を開く。
「ライバルが多くてね」
 男は納得したように頷いた。
「それはそうだろうな。入団オーディションにはスクール出身者以外も押し寄せるだろうし」
「そうなのよ。スクールの中でなら、私も上位にいる自信があるわ。でも、スクールの外からはどのくらいのライバルがやって来るかわからないものね」
 コーヒーが入った紙コップに目を落としながら、チラリと男の表情を盗み見る。男は面白そうに目を細めて、私を見ていた。
「しかしカーレン。君もわかっているんじゃないのか? 王立バレエ団の直接の傘下であるスクールに通っている君たちの方が、小さな教室でレッスンを受けてきたスクール外の人間より、圧倒的に有利だ」
 口角が上がる。慌てて紙コップに口をつけて、表情を隠す。味のわからないコーヒーを喉に流し込んで、息をつく。
「そういうものかしら」
「そういうものさ。世界は人が思う以上に残酷だ」
 君にとっては優しいものかもしれないが、と男は付け足した。
「とても多くのダンサーの世界公演を成功させてきた貴方が言うんだから、そうなのかもね」
「ああ。だから安心するがいい。君は……」
 男の黒目の中に、赤い炎がちらついた気がした。
「スクールのライバルを蹴落とせば、安泰さ」
 やっぱり、そうなのね。
 また口元が緩むのを、抑えられない。
 オーディションを数ヶ月後に控える今頃になって、自分の考えが甘すぎるのではないかと思いながら過ごしていたけれど……でも、私より遥かに業界に詳しい男に断言された今、ようやく安心できた。
 スクールのライバルを蹴落とせば、私は安泰。
 なら、……私の考えは、見当違いではなかった。
「安心したかな?」
 男の言葉に、私は深く頷いた。
「ええ。とっても」
 オーディションが終わったわけでもないのに、もう終わったような気すらするほどに。
 男は相変わらずニヤニヤ笑いながら、立ち上がった。
「それじゃあ、またオーディションが終わる頃に会おう。君の活躍を期待しているよ。無事合格したなら、赤のトゥシューズを贈ろう。君の足に合わせた特注品をね」
「まあ。嬉しいわ」
 赤いトゥシューズは、子供の頃からの憧れの品だ。でも、演目の中で必要があって履くならまだしも、通常のレッスンでそんな悪目立ちするもの、履く人間はいない。それに、特注しないと作ることができない、とても高価な品だ。だから今まで手が出なかったのだけれど……。
 バレエ団に入団して、プロになったなら、レッスンで履いたっていいだろう。それだけの資格はあるはずだ。
 いや、誰にも履くなとは言わせない。
 しかし、それにしても。
 手を振り立ち去る男の背中を眺めながら、ふと思う。
 誰にも話したことのない、赤いトゥシューズへの憧れを……初対面の男が、なぜ知っていたのだろう。
 まあ、そんなことはどうでもいいか。今重要なのは、オーディションまでの期間、何をするか、だ。
 私はしばらく座ったまま、赤いトゥシューズを履いて踊る自分を夢想していた。
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