189話 天使と小さな火の悪魔
「おいおい、そりゃあ……何十万年前の話だ」
「ええっと……八十万年前?」
私の返答に、黒髪の悪魔は目を覆って仰向いた。
「天使の中でもお前はかなりの古参なんだろうと思ってはいた、思ってはいたが……」
悪魔は尚もぶつぶつと口の中で呟き、暫く頭の中を整理しているようだった。私はその間、男の家に冬の間だけ出現するイミテーションの暖炉のあかりを見つめる。イミテーションはよくできていて、まるで本物の炎が揺らいでいるかのようだ。赤く、橙に、ちろちろと……蛇の舌のような炎。パチパチという音も真に迫っている。
「そう言えばあの時、気になったことがあってね」
「……何だ?」
まだ複雑そうな表情の悪魔は、私に視線を戻した。
「私や他の天使たちは、火の扱いを人類に教えるため、あちこちに飛んだんだ。私もアフリカやヨーロッパやアジアや……とにかくあちこちの、当時の人類たちの元へ行っては、同じように火を起こして見せた。でも、どこの集落に赴いても必ず、火を起こす現場に同じ子供がいたんだよ」
「……ホラーか?」
悪魔は椅子の上で、長い脚を億劫そうに組み替えた。
「えらく昔から怪奇現象ってのは起きてたんだな」
「ううん……。まあ、怪奇現象、だったな。何度も確認してみたけれど、どこに行ってもその子供はいたんだ。私が火を起こす現場にね。しかももっと不思議なことに……」
『お前たちの報告に、一つだけ不可思議な点がある。お前たちはどうやら、どの現場においても同じ子供を見かけているようだな』
当時、大天使である光の球は、そう言った。私たちはてんでバラバラな顔を見つめ合い、頷いた。同時多発的に行われた私たちの仕事現場に居合わせるという謎の子供の正体は、その頃も、そして今までも、我々には全く解明できなかった……。
「全ての天使の仕事現場に居合わせたってのか、その子供が」
「うん。不思議だよね。どうやら火が好きみたいでね……、嬉しそうな顔で、ずーっと火を見つめていたよ。それと、火を見る他の人間たちのことも、嬉しそうに見つめていたのが印象的だった」
私の言葉に、悪魔はちょっと考え込んだ。その瞳に紛い物の炎の赤がちらつき、彼自身の魂の炎と入り混じって、一種独特の美しさを現した。私がそれに見惚れていると、悪魔は口を開いた。
「ひとつ、心当たりがある」
「謎の子供の?」
ああ、と男は頷く。
「火の悪魔だ」
その言葉で、合点がいった。悪魔は、己が象徴するものの名を冠する。その時々で強い影響力を持つ動物に姿を変え、それに影響を与え、与えられることを好む。
「そうか。あれは火の悪魔にとって、誕生のようなものだったんだな」
「ああ、恐らく……。人類は火と共に進化し、社会性を獲得し、文明を築いていった。その最初の一歩と共に、火の悪魔も実質、誕生したんだろう」
天使がその手助けをしたのか、と悪魔は呟く。
「複雑だな」
「そうだね。でも、世界はそういうものだ」
火を見つめていた子供の瞳を思い出す。それこそ炎のように強い光を灯したあの瞳は、人類の躍進の力そのものだった。
「……まあ、そうかもしれないな。元来、炎には聖性も宿っている」
悪魔はそう言って納得したようだったが、ふと思い出したように、髪の毛をくしゃくしゃと掻き回した。
「それにしても八十万年前って……」
その夜、悪魔は何度も同じセリフを呟いた。
「ええっと……八十万年前?」
私の返答に、黒髪の悪魔は目を覆って仰向いた。
「天使の中でもお前はかなりの古参なんだろうと思ってはいた、思ってはいたが……」
悪魔は尚もぶつぶつと口の中で呟き、暫く頭の中を整理しているようだった。私はその間、男の家に冬の間だけ出現するイミテーションの暖炉のあかりを見つめる。イミテーションはよくできていて、まるで本物の炎が揺らいでいるかのようだ。赤く、橙に、ちろちろと……蛇の舌のような炎。パチパチという音も真に迫っている。
「そう言えばあの時、気になったことがあってね」
「……何だ?」
まだ複雑そうな表情の悪魔は、私に視線を戻した。
「私や他の天使たちは、火の扱いを人類に教えるため、あちこちに飛んだんだ。私もアフリカやヨーロッパやアジアや……とにかくあちこちの、当時の人類たちの元へ行っては、同じように火を起こして見せた。でも、どこの集落に赴いても必ず、火を起こす現場に同じ子供がいたんだよ」
「……ホラーか?」
悪魔は椅子の上で、長い脚を億劫そうに組み替えた。
「えらく昔から怪奇現象ってのは起きてたんだな」
「ううん……。まあ、怪奇現象、だったな。何度も確認してみたけれど、どこに行ってもその子供はいたんだ。私が火を起こす現場にね。しかももっと不思議なことに……」
『お前たちの報告に、一つだけ不可思議な点がある。お前たちはどうやら、どの現場においても同じ子供を見かけているようだな』
当時、大天使である光の球は、そう言った。私たちはてんでバラバラな顔を見つめ合い、頷いた。同時多発的に行われた私たちの仕事現場に居合わせるという謎の子供の正体は、その頃も、そして今までも、我々には全く解明できなかった……。
「全ての天使の仕事現場に居合わせたってのか、その子供が」
「うん。不思議だよね。どうやら火が好きみたいでね……、嬉しそうな顔で、ずーっと火を見つめていたよ。それと、火を見る他の人間たちのことも、嬉しそうに見つめていたのが印象的だった」
私の言葉に、悪魔はちょっと考え込んだ。その瞳に紛い物の炎の赤がちらつき、彼自身の魂の炎と入り混じって、一種独特の美しさを現した。私がそれに見惚れていると、悪魔は口を開いた。
「ひとつ、心当たりがある」
「謎の子供の?」
ああ、と男は頷く。
「火の悪魔だ」
その言葉で、合点がいった。悪魔は、己が象徴するものの名を冠する。その時々で強い影響力を持つ動物に姿を変え、それに影響を与え、与えられることを好む。
「そうか。あれは火の悪魔にとって、誕生のようなものだったんだな」
「ああ、恐らく……。人類は火と共に進化し、社会性を獲得し、文明を築いていった。その最初の一歩と共に、火の悪魔も実質、誕生したんだろう」
天使がその手助けをしたのか、と悪魔は呟く。
「複雑だな」
「そうだね。でも、世界はそういうものだ」
火を見つめていた子供の瞳を思い出す。それこそ炎のように強い光を灯したあの瞳は、人類の躍進の力そのものだった。
「……まあ、そうかもしれないな。元来、炎には聖性も宿っている」
悪魔はそう言って納得したようだったが、ふと思い出したように、髪の毛をくしゃくしゃと掻き回した。
「それにしても八十万年前って……」
その夜、悪魔は何度も同じセリフを呟いた。