188話 ウェンディゴにはならない

 僕は、ナイフを自分の太ももに突き立てた。痛みが一瞬にして頭のモヤを払い、自分がすべきこととしてはならないことを思い出す。赤い光の明滅が視界に侵襲すると同時に、世界はさっきよりクリアになった。
 男はもう笑っていなかった。
「なるほどね……」
 ふん、と、彼は鼻を鳴らした。
「つまらんね。本当につまらん。流されやすそうで弱そうな人間だと思ったのにな」
 つまらん、つまらん、と繰り返しながら、男はすっと立ち上がった。
「確固たる信念によってでも、過ちを犯した過去によってでもない……お前はただ、普通の倫理観によって踏みとどまった。普通の人間のお陰で俺は、賭けに負けた」
 一度クリアになった意識が、すぐさまぼやけていく。男の姿も闇に溶けていく。
 救助隊の隊員に揺り起こされたのは、翌朝のことだった。奇妙なことに、部屋の隅にあったはずの遺体も老登山家の荷物も消えていて、黒髪の男の痕跡も何一つなくなっていた。
 あの男は多分、悪魔だったのだと思う。あの、体温のない指の感触を、耳元で囁いた声の響きを思い出すたび、微かな甘さと共に怖気が走る。
 僕はウェンディゴにはならない。これからも、決して。
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