188話 ウェンディゴにはならない
翌朝、隣の老登山家の震えがおさまっていた。僕はあまりの寒さに何度も目を覚まし、その度にストーブの炎に息を吹き返したが……老登山家はぐっすりと寝入っているようだった。
「気の毒に。低体温と心臓の機能低下が死因だな」
積もり続ける雪に遮られて弱々しく差し込む朝日に照らされ、老登山家は息を引き取っていた。黒髪の男は、目を閉じた彼の体に触れることすらなく、淡々と分析した。
「死んだ? ……亡くなった? そんな」
この小屋まで案内してくれて、共に身を寄せ合った彼が死んだなどと、私は信じたくなかった。だが、体を揺らしたら今にも目を開きそうなのに、呼吸の音も、胸の動きもない。そっと首筋に触れると、生きているものとしてはあり得ない冷たさだった。
ショックなのに、涙も出ない。体が、水分を放そうとしない。
「そんな……」
悪夢のようだった。気軽にやって来た雪山で、道連れが命を落とすなんて考えもしなかった。
呆然とする僕に、男は言う。
「雪はまだ止みそうにないぜ」
それからさらに数日が経った。男が定期的に雪を溶かして作ってくれる水は飲めていたが、何も食べないまま、空腹というよりも虚を抱えるようにして、僕はうずくまるばかりだった。絶えず耳鳴りがして、視界が霞む。眠れればマシなのに、強い空腹感がそうさせてくれない。
老登山家の死体は、炎の暖気に当たらない小屋の隅に安置してある。幸いにというか何というか、気温が低すぎるので、腐敗の兆候はないようだ。
空腹感が強すぎて、頭がおかしくなりそうだった。考えまいとしても、脂のたっぷり載ったステーキやバーベキュー、カロリーの高いピザやジャンクフードの類、ポテトや、シーフードミックスがたっぷり使われた母の料理なんかが目の前に浮かぶ。野菜なんて今は必要ない、とにかくカロリーのある、肉が欲しかった。
「そうだな。ストーブの火と、お前のリュックの中の調理器具を使って、美味い肉をたらふく食えたら最高だろうな」
そんな言葉を聞いた気がして、僕は視線だけ男に向けた。男は薄ら笑いを浮かべている。
「あんた、ウェンディゴを知ってるか」
耳慣れない響きの言葉だった。僕は小さく首を振る。
「アメリカ先住民に伝わる伝説上の存在だ。そいつに取り憑かれた人間もまたウェンディゴになり、絶えず空腹に悩まされるようになる。その空腹を満たせるのは……人肉だけだ」
言葉に反応する元気なんてほとんど残っていないにも関わらず、僕の両肩がびくりと上がった。
「ウェンディゴに変化する兆しは、体の内側から凍えるような感覚だという。……あんた、今、体はどんな感じだい」
尋ねられた瞬間、僕の意識全てが、僕の内側に向いた。僕の皮膚の下から全ては空洞と化し、そこに早く何かを詰め込みたくて仕方なくなった。詰め込んで、空洞を満たして、暖まりたい。空洞の中は冷たい風が吹いていて、それがどんどん、内臓や血や骨や神経の一本一本を凍らしていく。
体の内側から凍えていく。
ひゅっと、吸い込んだ息が音を立てた。男は気がつけばすぐ目の前に座って、僕の目を覗き込んでいる。笑っているのに恐ろしく、しかしその笑顔はどうしようもなく美しかった。
「肉は食えるぜ、今すぐにもな」
僕は働かない頭を動かない手で叩くイメージをしながら、その意味を考えた。考えるまでもなく、答えは小屋の隅に横たわっているし、鍵はリュックの中に全て揃っていたが、それでもどうにか考えた。脳を働かせるためのブドウ糖はとっくに切れているが、僕の体にはまだ、代替となる栄養分があるのだ。
「あなたは……僕に、彼を食べろと言っているんですか」
男の笑みはますます深まるようだった。
「そう聞こえたか?」
そう言ったじゃないか。
口の中がカラカラで、言葉は喉に貼り付いて出てこない。
「雪は今日も止まないだろうな、この分じゃ。人間の空腹の限界は……諸説あるが、まあ保って数週間ってとこだ。雪が止むのが早いか、あんたの限界の方が早いか」
そんなこと知るか。
男が何か食べているように見えて、僕は目を見開いた。男は何も食べてやいなかった。自分の中の空洞がますます大きくなっていく。男は舌なめずりをする。
うつらうつらして、時に男から水を飲まされながら、曖昧で緩慢な苦痛が体を蝕むのを感じる。男は僕の意識が比較的明瞭なタイミングを見計らうかのように「腹が減っただろう」とか「食べないと本当に保たないぜ」とか囁く。その声は耳が熱くなるほど低く魅惑的で、思わずもっと聴きたくなってしまう響きを持っている。
「僕は……食べませんよ……人肉なんか」
ウェンディゴになんてならない。
「そうか? ウェンディゴになっちまえば、人間のモラルなんて気にしなくていいんだぜ。ウェンディゴに取り憑かれたあんたのことを、誰も責めたりなんてしない。生きるためには仕方なかったんだって訴えればいい。俺も、あんたを責めない」
いつの間にか背後に回っていた男が、膝を抱えた僕の脇から手を伸ばし、スノーウェアのジッパーを下ろして僕の腹をさすった。敏感になっている体がぞわりと総毛立ち、同時に心地よさも感じて混乱する。男の指は、僕の胃のあたりを優しく撫でた。
「ここが空っぽで切ないだろ? このままじゃ死んじまうぜ。食べられるものなら、すぐそこにある。生死の問題に、倫理は一時的に沈黙するもんだ」
男の指がそっと動き、こんな事態だというのに熱くなる頭に腹が立つ。男の声は耳元で続き、頭の中で何度も反響した。
生命の危機に瀕した時、倫理も神も目を瞑るものだ……食べられるものが、栄養となるものがすぐそこにある……簡単だ、リュックの中からナイフを取り出して、必要な分だけ切り出して、炎で炙って味をつけて、口に運べばいい……想像してみろ……香ばしい匂い、弾力のある歯応え、程よい塩味、その喉越しを……。
飲み込む唾もないのに、喉が鳴る。男の指の感覚が、余計に空洞を意識させ、頭がぼうっとしてくる。
気がついた時、僕はリュックの中をまさぐっていた。指はもうナイフを探り当て、目は部屋の隅の遺体に向き、ふらつく体がそちらへ向かおうとしていた。男が楽しそうに僕を見ているのを感じる。僕は……
「気の毒に。低体温と心臓の機能低下が死因だな」
積もり続ける雪に遮られて弱々しく差し込む朝日に照らされ、老登山家は息を引き取っていた。黒髪の男は、目を閉じた彼の体に触れることすらなく、淡々と分析した。
「死んだ? ……亡くなった? そんな」
この小屋まで案内してくれて、共に身を寄せ合った彼が死んだなどと、私は信じたくなかった。だが、体を揺らしたら今にも目を開きそうなのに、呼吸の音も、胸の動きもない。そっと首筋に触れると、生きているものとしてはあり得ない冷たさだった。
ショックなのに、涙も出ない。体が、水分を放そうとしない。
「そんな……」
悪夢のようだった。気軽にやって来た雪山で、道連れが命を落とすなんて考えもしなかった。
呆然とする僕に、男は言う。
「雪はまだ止みそうにないぜ」
それからさらに数日が経った。男が定期的に雪を溶かして作ってくれる水は飲めていたが、何も食べないまま、空腹というよりも虚を抱えるようにして、僕はうずくまるばかりだった。絶えず耳鳴りがして、視界が霞む。眠れればマシなのに、強い空腹感がそうさせてくれない。
老登山家の死体は、炎の暖気に当たらない小屋の隅に安置してある。幸いにというか何というか、気温が低すぎるので、腐敗の兆候はないようだ。
空腹感が強すぎて、頭がおかしくなりそうだった。考えまいとしても、脂のたっぷり載ったステーキやバーベキュー、カロリーの高いピザやジャンクフードの類、ポテトや、シーフードミックスがたっぷり使われた母の料理なんかが目の前に浮かぶ。野菜なんて今は必要ない、とにかくカロリーのある、肉が欲しかった。
「そうだな。ストーブの火と、お前のリュックの中の調理器具を使って、美味い肉をたらふく食えたら最高だろうな」
そんな言葉を聞いた気がして、僕は視線だけ男に向けた。男は薄ら笑いを浮かべている。
「あんた、ウェンディゴを知ってるか」
耳慣れない響きの言葉だった。僕は小さく首を振る。
「アメリカ先住民に伝わる伝説上の存在だ。そいつに取り憑かれた人間もまたウェンディゴになり、絶えず空腹に悩まされるようになる。その空腹を満たせるのは……人肉だけだ」
言葉に反応する元気なんてほとんど残っていないにも関わらず、僕の両肩がびくりと上がった。
「ウェンディゴに変化する兆しは、体の内側から凍えるような感覚だという。……あんた、今、体はどんな感じだい」
尋ねられた瞬間、僕の意識全てが、僕の内側に向いた。僕の皮膚の下から全ては空洞と化し、そこに早く何かを詰め込みたくて仕方なくなった。詰め込んで、空洞を満たして、暖まりたい。空洞の中は冷たい風が吹いていて、それがどんどん、内臓や血や骨や神経の一本一本を凍らしていく。
体の内側から凍えていく。
ひゅっと、吸い込んだ息が音を立てた。男は気がつけばすぐ目の前に座って、僕の目を覗き込んでいる。笑っているのに恐ろしく、しかしその笑顔はどうしようもなく美しかった。
「肉は食えるぜ、今すぐにもな」
僕は働かない頭を動かない手で叩くイメージをしながら、その意味を考えた。考えるまでもなく、答えは小屋の隅に横たわっているし、鍵はリュックの中に全て揃っていたが、それでもどうにか考えた。脳を働かせるためのブドウ糖はとっくに切れているが、僕の体にはまだ、代替となる栄養分があるのだ。
「あなたは……僕に、彼を食べろと言っているんですか」
男の笑みはますます深まるようだった。
「そう聞こえたか?」
そう言ったじゃないか。
口の中がカラカラで、言葉は喉に貼り付いて出てこない。
「雪は今日も止まないだろうな、この分じゃ。人間の空腹の限界は……諸説あるが、まあ保って数週間ってとこだ。雪が止むのが早いか、あんたの限界の方が早いか」
そんなこと知るか。
男が何か食べているように見えて、僕は目を見開いた。男は何も食べてやいなかった。自分の中の空洞がますます大きくなっていく。男は舌なめずりをする。
うつらうつらして、時に男から水を飲まされながら、曖昧で緩慢な苦痛が体を蝕むのを感じる。男は僕の意識が比較的明瞭なタイミングを見計らうかのように「腹が減っただろう」とか「食べないと本当に保たないぜ」とか囁く。その声は耳が熱くなるほど低く魅惑的で、思わずもっと聴きたくなってしまう響きを持っている。
「僕は……食べませんよ……人肉なんか」
ウェンディゴになんてならない。
「そうか? ウェンディゴになっちまえば、人間のモラルなんて気にしなくていいんだぜ。ウェンディゴに取り憑かれたあんたのことを、誰も責めたりなんてしない。生きるためには仕方なかったんだって訴えればいい。俺も、あんたを責めない」
いつの間にか背後に回っていた男が、膝を抱えた僕の脇から手を伸ばし、スノーウェアのジッパーを下ろして僕の腹をさすった。敏感になっている体がぞわりと総毛立ち、同時に心地よさも感じて混乱する。男の指は、僕の胃のあたりを優しく撫でた。
「ここが空っぽで切ないだろ? このままじゃ死んじまうぜ。食べられるものなら、すぐそこにある。生死の問題に、倫理は一時的に沈黙するもんだ」
男の指がそっと動き、こんな事態だというのに熱くなる頭に腹が立つ。男の声は耳元で続き、頭の中で何度も反響した。
生命の危機に瀕した時、倫理も神も目を瞑るものだ……食べられるものが、栄養となるものがすぐそこにある……簡単だ、リュックの中からナイフを取り出して、必要な分だけ切り出して、炎で炙って味をつけて、口に運べばいい……想像してみろ……香ばしい匂い、弾力のある歯応え、程よい塩味、その喉越しを……。
飲み込む唾もないのに、喉が鳴る。男の指の感覚が、余計に空洞を意識させ、頭がぼうっとしてくる。
気がついた時、僕はリュックの中をまさぐっていた。指はもうナイフを探り当て、目は部屋の隅の遺体に向き、ふらつく体がそちらへ向かおうとしていた。男が楽しそうに僕を見ているのを感じる。僕は……