188話 ウェンディゴにはならない

 朝になれば雪も収まるだろう、と楽観視していた自分が呪わしい。一体いつになれば収まるのか、雪は昨日と同じ勢いで降りしきっていた。うんざりと扉の外を見ていた僕に、男が言う。
「とりあえず、水はしっかり飲んでおくといい。食料は腹が空いてからでも大丈夫だ」
「この人の言うとおりだ、そうしておこう」
 老登山家は黙々と水分を摂り、何かを話したりすることもなく静かに、無駄なエネルギーを使わないようにして過ごしているようだった。僕もそれを見習ったが、どうしたって腹は空く。昼過ぎに携帯食料を食べ、暇つぶしにと男に話しかけた。
「あなたは何も飲まず食べずにいるように思えるのですが、大丈夫なんですか」
「あんた達が寝てる間に飲んで食べたのさ」
 男は黒いリュックを持っていたが、僕の目にはどうにも、それは空であるように思えてならない。「それより」と、男は少し身を乗り出した。
「二日目の昼を回ってもまだ下山の見込みが立たないのは、もう遭難と言っていいと思うぜ。通信を試したらどうだ?」
「あ……」
 それは確かにそうだった。ひと晩を越して尚、天候が回復しそうにないのだ……もう、救助代とかメンツとかを考えている場合ではないだろう。
 慌てて取り出したスマートフォンを持って降りしきる雪の中に飛び出してみたが、衛星通信機能を以てしても不通だった。雪のせいだ。すっかり冷えた体を抱えて、小屋に戻った。
「通信できませんでした……お二人のスマホはどうです」
 老登山家も男も、首を振る。二人はとっくに試していたのだ。ひょっとすると、僕のスマートフォンに一縷の望みを託していたのかもしれない。
「ま、まあ、僕は今、仕事の長期休暇で特に職場に迷惑かけることもないですし、独り身ですからそこら辺はいいんですけど。お二人はご家族が心配しているかもしれませんね」
「私には心配してくれる家族なんていやせんよ」
「俺にもいないね」
 なんだか余計に寒くなった気がして、僕は新しいカイロを取り出す。二十個入りのを持ってきているが、一度に体の複数箇所に貼るため、朝晩で取り替えたとしたら二日程度で使い切ってしまうだろう。
 そこまで想像してハッとする。雪があと二日も収まらないなんてこと、あり得ない。今日が無理でも、明日はきっと晴れてくれるだろう。
 そんなことを思っていた。

「山の吹雪が数日続くことくらいある」
 男は言う。私と老登山家は、冷静な男の前で、ガタガタと震えながら身を寄せ合っていた。ここに来て、もう五日が経とうとしている。男によれば、雪が弱まるタイミング自体はあったらしいが、それはいずれも夜のことで、どちらにせよ僕たちは行動不能だった。
 カイロはもうなかった。男の提案で、扉を少し開けた上で僕と老登山家が持ってきていた携帯ストーブを使い始めたが、開いた扉から吹き込む冷気の方が強いように感じられる。携帯食料も、もう底を尽きていた。
「ここにいる誰も、救助要請してくれる知人友人家族がいないな」
 わざわざ絶望を後押しするかのような男の言葉に、噛み付く余裕もない。絶えず擦り合わせている指先は、ともすれば冷たく固まりかける。隣で震える老登山家の唇は、ストーブの炎に照らされても青いままだ。
 体の芯から氷になっていくような感覚を覚え、僕は燃え盛る炎に近寄った。
「そうだ、低体温症になっては何もできなくなるからな。しっかり暖まるといい」
 男は来た時から変わらない落ち着きを保ったまま、僕たちの様子を見つめている。
「な、なぜ……」
 疑問は言葉になりきらなかった。しかし男はそれに答えた。
「なぜ俺は平気なのか? それは、俺の体が寒さに強いからさ」
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