188話 ウェンディゴにはならない
登山には慣れているつもりだった。白銀に覆われた山はそれだけで神秘的で、挑む価値があると思った。夏の登山時にも使ったコッフェルなどの用具と数日分の携帯食料もリュックに詰め込み、意気揚々と家を出た時の軽快な気分を、今でもまざまざと思い出せる。
誰も通らないような険しい山道にも、僕のような物好きはいるものだ。道中でたまたま一緒になった老登山家と連れ立って、晴れ渡った空の青さに見惚れながら歩いた。
吹雪は唐突に訪れた。この山には何度か来ているという老登山家が、少し行けば小屋があると言うので、僕たちはそこを目指して歩き続けた。少し行けば、なんて言うから数百メートルほどかと思ったら、そんなものではなかった。「こんなに遠かったかな」なんて言う老登山家の声も聞き取りづらいほど雪は激しさを増し、今から引き返すなんてこともできない。とにかく小屋を目指して歩き続け、ようやく辿り着いたのがここだった。
険しい山にはよくある避難小屋と同等のレベルのボロさで、こんな季節にはほとんど誰も訪れないのだろう、入り口の扉が雪に埋もれていた。僕たちは持っていたスコップでどうにかそれをかき分けて、中へ入った。がらんとした室内は、冬季の使用を想定していないのか暖炉もストーブも見当たらない。
「雪が弱まるまでの辛抱だ」
老登山家は持参したカイロで乗り切るつもりらしい。空気の汚染のことを考えると、その方がいいのかもしれない。とりあえず僕も同様にして、二人で身を寄せ合った。なかなか雪は弱まらず、その間にも太陽がどんどん沈んでいく。日が落ちて仕舞えば、行動は不可能となる。
「どうしましょう、このまま夜になったら」
カイロはたくさんあるし、いざとなれば持ってきたウッドガスストーブを使う用意はあるが、それはそれで不安だった。寝ている間に一酸化炭素中毒で死んでしまっては元も子もない。
「夜になったら、寝るしかないだろう。見張りなら俺がしてやるよ」
そんな声と共に、見知らぬ男が入り口の扉を開いて現れた。男と共に、風がごうっと吹き込んでくる。雪のかけらと埃が一緒に舞うのが、弱い陽光に浮かび上がった。
「ひどい天気だな。邪魔するぜ」
小屋に照明はないのでLEDランタンを置いていたのだが、その光に照らされた男の黒目が、一瞬、怪しく光ったように見えた。目と同じく漆黒の髪についた雪を払い落として、男は息をつく。
「あ、あの……あなたも登山で?」
僕が尋ねると、男はふっと笑った。時と場所が違えば、思わず目を奪われたかもしれない笑顔だ。
「他に何があるって言うんだ?」
「いや、その……」
車道も通っていない、人里もない山の中で、確かに愚問ではあった。男はくっくと喉の奥で笑い、悠然と床に腰を下ろした。黒いスノーウェアが、ランタンの灯りを鋭く反射する。
「もう日没時刻だ。今晩はここで過ごすしかないだろうよ。……ところで」
男が、僕を見る。
「通信は試したのか」
「通信……? いや、まあ一晩泊まるくらいのことは想定してましたし、そんな必要は」
「ふうん」
男の目が細くなる。……笑った、のだろうか。とは言え、雪が弱まるまでここでやり過ごすだけのことだ、遭難とは言えないと思うが……。
老登山家を見ると、彼はもう眠そうに目を擦っていた。黒髪の男はそれを見て言う。
「それだけカイロがあれば、まあ、まだ低体温症のリスクはないだろう。ストーブがあるなら使った方がいいとは思うが、温存するならすればいい」
一緒に夜を過ごそうと言うのに他人事のような口調だが、男の言っていること自体は正しい。僕や老登山家はそれぞれの携帯食料と水を口にし、眠ることにした。
「あなたは何も食べないんですか」
僕が聞くと、男は頷いた。
「俺はいい。ランタンを消してもいいぜ。俺は夜に強いんだ。異常がないか、寝ずに見張っててやるよ」
本当かは疑わしかったが、雪の中で出ていけない状況なのは男も同じだ。まさか大した物も持っていない僕たちを殺して盗みを働くわけもなし。
できることもなく、僕はそのまま眠りに就いた。
誰も通らないような険しい山道にも、僕のような物好きはいるものだ。道中でたまたま一緒になった老登山家と連れ立って、晴れ渡った空の青さに見惚れながら歩いた。
吹雪は唐突に訪れた。この山には何度か来ているという老登山家が、少し行けば小屋があると言うので、僕たちはそこを目指して歩き続けた。少し行けば、なんて言うから数百メートルほどかと思ったら、そんなものではなかった。「こんなに遠かったかな」なんて言う老登山家の声も聞き取りづらいほど雪は激しさを増し、今から引き返すなんてこともできない。とにかく小屋を目指して歩き続け、ようやく辿り着いたのがここだった。
険しい山にはよくある避難小屋と同等のレベルのボロさで、こんな季節にはほとんど誰も訪れないのだろう、入り口の扉が雪に埋もれていた。僕たちは持っていたスコップでどうにかそれをかき分けて、中へ入った。がらんとした室内は、冬季の使用を想定していないのか暖炉もストーブも見当たらない。
「雪が弱まるまでの辛抱だ」
老登山家は持参したカイロで乗り切るつもりらしい。空気の汚染のことを考えると、その方がいいのかもしれない。とりあえず僕も同様にして、二人で身を寄せ合った。なかなか雪は弱まらず、その間にも太陽がどんどん沈んでいく。日が落ちて仕舞えば、行動は不可能となる。
「どうしましょう、このまま夜になったら」
カイロはたくさんあるし、いざとなれば持ってきたウッドガスストーブを使う用意はあるが、それはそれで不安だった。寝ている間に一酸化炭素中毒で死んでしまっては元も子もない。
「夜になったら、寝るしかないだろう。見張りなら俺がしてやるよ」
そんな声と共に、見知らぬ男が入り口の扉を開いて現れた。男と共に、風がごうっと吹き込んでくる。雪のかけらと埃が一緒に舞うのが、弱い陽光に浮かび上がった。
「ひどい天気だな。邪魔するぜ」
小屋に照明はないのでLEDランタンを置いていたのだが、その光に照らされた男の黒目が、一瞬、怪しく光ったように見えた。目と同じく漆黒の髪についた雪を払い落として、男は息をつく。
「あ、あの……あなたも登山で?」
僕が尋ねると、男はふっと笑った。時と場所が違えば、思わず目を奪われたかもしれない笑顔だ。
「他に何があるって言うんだ?」
「いや、その……」
車道も通っていない、人里もない山の中で、確かに愚問ではあった。男はくっくと喉の奥で笑い、悠然と床に腰を下ろした。黒いスノーウェアが、ランタンの灯りを鋭く反射する。
「もう日没時刻だ。今晩はここで過ごすしかないだろうよ。……ところで」
男が、僕を見る。
「通信は試したのか」
「通信……? いや、まあ一晩泊まるくらいのことは想定してましたし、そんな必要は」
「ふうん」
男の目が細くなる。……笑った、のだろうか。とは言え、雪が弱まるまでここでやり過ごすだけのことだ、遭難とは言えないと思うが……。
老登山家を見ると、彼はもう眠そうに目を擦っていた。黒髪の男はそれを見て言う。
「それだけカイロがあれば、まあ、まだ低体温症のリスクはないだろう。ストーブがあるなら使った方がいいとは思うが、温存するならすればいい」
一緒に夜を過ごそうと言うのに他人事のような口調だが、男の言っていること自体は正しい。僕や老登山家はそれぞれの携帯食料と水を口にし、眠ることにした。
「あなたは何も食べないんですか」
僕が聞くと、男は頷いた。
「俺はいい。ランタンを消してもいいぜ。俺は夜に強いんだ。異常がないか、寝ずに見張っててやるよ」
本当かは疑わしかったが、雪の中で出ていけない状況なのは男も同じだ。まさか大した物も持っていない僕たちを殺して盗みを働くわけもなし。
できることもなく、僕はそのまま眠りに就いた。