180話 ココアの魔法
市街地中心部にある歴史深い図書館を目指して歩いていると、見覚えのある後ろ姿を見つけた。青みがかった黒い髪を腰の辺りまで垂らし、上品なコートを身につけて学校の支給品であろう可愛い鞄を手に持った少女……マツリカちゃんだ。私はあまり直接の交流を持ったことがないが、彼女は、私の愛する悪魔が命を救い使い魔としたダイアナちゃんの、親友だ。ここから見ても魂に汚れがないことがよくわかる。ダイアナちゃんと同様に。
声をかけようかどうか、少し迷った。今までダイアナちゃんと一緒にいるところを見かけたことはあるけれど、二人で話したことなどはない。親友の知り合いでしかない大人に突然、声をかけられたら、びっくりしてしまうかもしれない。
けれど、彼女の行き先は私の目指している図書館ではないだろうか。聞くところによればマツリカちゃんは大の読書好きだそうだし、読書好きがこの道を歩いているということは、あの図書館に向かっているという可能性が高い。同じ場所へ向かうなら、一緒に話しながら歩いたって問題はないだろう。
「マツリカちゃん」
隣に追いついて声をかけると、マツリカちゃんはパッと私を見上げた。髪と同色の目が、パチパチと瞬く。
「ああ、驚いた。……神父様でしたか」
「驚かせてしまってごめんね。私はこの先にある図書館に行くのだけど、ひょっとしてマツリカちゃんも同じかな、と思って声をかけたんだ」
マツリカちゃんは、私が肩にかけている図書館オリジナルのバッグを見て「そうでしたか」と頷いた。
「その通りです。私も、あの図書館へ行こうと……」
落ち着いた彼女の声を、突然吹き抜けた風が邪魔した。それまで単なる曇りだった天候が、少し怪しくなりかけている。湿り気を帯びた冷たい空気が流れていく。
「それじゃあ、一緒に行こう。ただ、天候が悪そうだからちょっと急いだほうがいいかもしれないね」
「はい」
図書館までは、あと数分で着くはずだ。私とマツリカちゃんは並んで歩き出した。
「マツリカちゃんは、本が好きなんだってね。どんな本を読むの?」
人間も人間以外でも、本を読むことが好きな者は、多かれ少なかれ他者の読書傾向に興味を持つものだ。私も御多分に洩れず、相手の趣味が読書だと聞いたら、まずはどんな本を読むのか尋ねてしまう。
マツリカちゃんは、おっとりとした見た目に反して素早く歩を進めながら答えた。
「そうですね……。もっと小さい時には、物語ばかり読んでいましたが……今はそれ以外にも、色々読みます。詩集とか、図鑑とか、クイズやパズルの本とか、写真集とか、手芸や刺繍の本も。あと、作家のエッセイや科学者、哲学者が書いた本なんかも」
「それは凄い。幅の広い読書をしているんだね、素晴らしい」
マツリカちゃんは「ありがとうございます」と言いつつ「でも、ただ好きで読んでるだけなので何も凄くはないです」と謙遜した。日本人らしい振る舞いだ。
「神父様はどんな本をお読みになるんですか」
「私? うーん、そうだねえ……」
私たち天使や悪魔は、人間に関する知識なら全て持っている。必要に応じて頭の中で検索をかけて、該当事項や関連知識を取り出してくることができる。しかし、それでも我々の中には読書を愛してやまない(こんな表現をすると「そんな人間に対するような表現を使わないでくれ」と怒る者も多いが)者も多くいて、各々の好みや信念に沿って本を読む。単に人間の思想を深く知り仕事に生かしたいだけの者もいれば、仕事には関係なく暇つぶしとして読む者もいる。
そして、私は……。
「私も、何でも読むよ。人が何を感じ、何を考え、何をして……そして、それがどのような影響を他者に与えるのかを知りたいと思っているんだ」
私は、人間のことなら何でも知りたい。私に与えられた仕事、主から賜った使命を全うするために。人間の感じ方、考え方、行動の様式、他者との関係性……全てを知った上で彼らを善い方向へ導くのが、私たち天使のすべきことだと信じているから。いや、彼らのことを知らないでは、導くなんてことは到底できるはずがないのだ。
他の天使たちは私のそういう考え方を、あまり理解してはくれないけれど。けれど……あの悪魔だけは、理解してくれている。「天使サマらしい」と微笑んでくれる。
「つまり神父様は、人が書いたものなら何でも読むってことですか」
それまで大人しく聞いていたマツリカちゃんは、ふふッと笑った。
「それって、真の読書好きと言えるかもしれませんね」
「そうかもしれないね。はは。そんなふうに言われたのは初めてだな」
「私も、そんな読み方をする人とは初めて会いました。てっきり神父様って、難しい宗教関係の本ばかり読んでらっしゃるのかと思っていたんですけど、違ったんですね」
マツリカちゃんは、強くなってきた風に吹かれた髪の毛を律儀に整えつつ、私に笑顔を向けた。
「私、日本人だから……あまり宗教に明るくないんです。皆が、……いえ、ダイアナが熱心に教会に通っているのも、学校で宗教関係のことを学ぶのも、全然しっくり来なくて。だから、神父様のことも、私には遠い人だとばかり」
そうか。確かに宗教意識の薄い日本人からしたら、毎週礼拝をするのも、国単位で何かの神を信じるのも、あまり馴染みのないことだろう。彼女は、親友がそういうことを大事にしているのを目の当たりにするたびに、どうしようもない「遠さ」を感じてきたのだ。それはきっと、私が人間のことを完全には理解できないのと同様に。
風がいよいよ強まり、チラつく雪が肌に当たるようになってきた。
「走ろうか」
駆け足で、図書館の入り口へ向かう。隣を走りながら、マツリカちゃんは言った。
「けれど、全然、遠い人じゃなかったですね」
私たちが図書館に駆け込んだのとほぼ時を同じくして、外は吹雪き始めた。強い風に大粒の雪が乗り、みるみる世界が白く染まってゆく。
「しばらくは図書館内にいた方が良さそうですね」
マツリカちゃんは髪についた雪を払いながら言う。私は走っている時に思いついたアイディアを口にしてみることにした。
「マツリカちゃん。せっかくこうしてお近づきになれたんだ。もう少し、一緒に喋らない? 確かここにはカフェがあったはず……」
入り口付近の案内図を見ながら言うと、マツリカちゃんは頷いた。
「いいですね。私も、もう少し神父様とお話がしたいと思っていました」
「よかった。紅茶もいいけれど、こんな雪の中を歩いた日は、やっぱりココアかな。冬に飲みたくなるよね」
甘いココアは、相手との距離をひととき、忘れさせてくれる。楽しくお喋りすれば、きっとその距離はもっと近づくだろう。
「ココア、いいですね。そうだ、ココアと言えば以前ダイアナが……」
早速ココアの効果が出たようだ。私たちは共通の友人の話をしながら、再び歩き出した。
声をかけようかどうか、少し迷った。今までダイアナちゃんと一緒にいるところを見かけたことはあるけれど、二人で話したことなどはない。親友の知り合いでしかない大人に突然、声をかけられたら、びっくりしてしまうかもしれない。
けれど、彼女の行き先は私の目指している図書館ではないだろうか。聞くところによればマツリカちゃんは大の読書好きだそうだし、読書好きがこの道を歩いているということは、あの図書館に向かっているという可能性が高い。同じ場所へ向かうなら、一緒に話しながら歩いたって問題はないだろう。
「マツリカちゃん」
隣に追いついて声をかけると、マツリカちゃんはパッと私を見上げた。髪と同色の目が、パチパチと瞬く。
「ああ、驚いた。……神父様でしたか」
「驚かせてしまってごめんね。私はこの先にある図書館に行くのだけど、ひょっとしてマツリカちゃんも同じかな、と思って声をかけたんだ」
マツリカちゃんは、私が肩にかけている図書館オリジナルのバッグを見て「そうでしたか」と頷いた。
「その通りです。私も、あの図書館へ行こうと……」
落ち着いた彼女の声を、突然吹き抜けた風が邪魔した。それまで単なる曇りだった天候が、少し怪しくなりかけている。湿り気を帯びた冷たい空気が流れていく。
「それじゃあ、一緒に行こう。ただ、天候が悪そうだからちょっと急いだほうがいいかもしれないね」
「はい」
図書館までは、あと数分で着くはずだ。私とマツリカちゃんは並んで歩き出した。
「マツリカちゃんは、本が好きなんだってね。どんな本を読むの?」
人間も人間以外でも、本を読むことが好きな者は、多かれ少なかれ他者の読書傾向に興味を持つものだ。私も御多分に洩れず、相手の趣味が読書だと聞いたら、まずはどんな本を読むのか尋ねてしまう。
マツリカちゃんは、おっとりとした見た目に反して素早く歩を進めながら答えた。
「そうですね……。もっと小さい時には、物語ばかり読んでいましたが……今はそれ以外にも、色々読みます。詩集とか、図鑑とか、クイズやパズルの本とか、写真集とか、手芸や刺繍の本も。あと、作家のエッセイや科学者、哲学者が書いた本なんかも」
「それは凄い。幅の広い読書をしているんだね、素晴らしい」
マツリカちゃんは「ありがとうございます」と言いつつ「でも、ただ好きで読んでるだけなので何も凄くはないです」と謙遜した。日本人らしい振る舞いだ。
「神父様はどんな本をお読みになるんですか」
「私? うーん、そうだねえ……」
私たち天使や悪魔は、人間に関する知識なら全て持っている。必要に応じて頭の中で検索をかけて、該当事項や関連知識を取り出してくることができる。しかし、それでも我々の中には読書を愛してやまない(こんな表現をすると「そんな人間に対するような表現を使わないでくれ」と怒る者も多いが)者も多くいて、各々の好みや信念に沿って本を読む。単に人間の思想を深く知り仕事に生かしたいだけの者もいれば、仕事には関係なく暇つぶしとして読む者もいる。
そして、私は……。
「私も、何でも読むよ。人が何を感じ、何を考え、何をして……そして、それがどのような影響を他者に与えるのかを知りたいと思っているんだ」
私は、人間のことなら何でも知りたい。私に与えられた仕事、主から賜った使命を全うするために。人間の感じ方、考え方、行動の様式、他者との関係性……全てを知った上で彼らを善い方向へ導くのが、私たち天使のすべきことだと信じているから。いや、彼らのことを知らないでは、導くなんてことは到底できるはずがないのだ。
他の天使たちは私のそういう考え方を、あまり理解してはくれないけれど。けれど……あの悪魔だけは、理解してくれている。「天使サマらしい」と微笑んでくれる。
「つまり神父様は、人が書いたものなら何でも読むってことですか」
それまで大人しく聞いていたマツリカちゃんは、ふふッと笑った。
「それって、真の読書好きと言えるかもしれませんね」
「そうかもしれないね。はは。そんなふうに言われたのは初めてだな」
「私も、そんな読み方をする人とは初めて会いました。てっきり神父様って、難しい宗教関係の本ばかり読んでらっしゃるのかと思っていたんですけど、違ったんですね」
マツリカちゃんは、強くなってきた風に吹かれた髪の毛を律儀に整えつつ、私に笑顔を向けた。
「私、日本人だから……あまり宗教に明るくないんです。皆が、……いえ、ダイアナが熱心に教会に通っているのも、学校で宗教関係のことを学ぶのも、全然しっくり来なくて。だから、神父様のことも、私には遠い人だとばかり」
そうか。確かに宗教意識の薄い日本人からしたら、毎週礼拝をするのも、国単位で何かの神を信じるのも、あまり馴染みのないことだろう。彼女は、親友がそういうことを大事にしているのを目の当たりにするたびに、どうしようもない「遠さ」を感じてきたのだ。それはきっと、私が人間のことを完全には理解できないのと同様に。
風がいよいよ強まり、チラつく雪が肌に当たるようになってきた。
「走ろうか」
駆け足で、図書館の入り口へ向かう。隣を走りながら、マツリカちゃんは言った。
「けれど、全然、遠い人じゃなかったですね」
私たちが図書館に駆け込んだのとほぼ時を同じくして、外は吹雪き始めた。強い風に大粒の雪が乗り、みるみる世界が白く染まってゆく。
「しばらくは図書館内にいた方が良さそうですね」
マツリカちゃんは髪についた雪を払いながら言う。私は走っている時に思いついたアイディアを口にしてみることにした。
「マツリカちゃん。せっかくこうしてお近づきになれたんだ。もう少し、一緒に喋らない? 確かここにはカフェがあったはず……」
入り口付近の案内図を見ながら言うと、マツリカちゃんは頷いた。
「いいですね。私も、もう少し神父様とお話がしたいと思っていました」
「よかった。紅茶もいいけれど、こんな雪の中を歩いた日は、やっぱりココアかな。冬に飲みたくなるよね」
甘いココアは、相手との距離をひととき、忘れさせてくれる。楽しくお喋りすれば、きっとその距離はもっと近づくだろう。
「ココア、いいですね。そうだ、ココアと言えば以前ダイアナが……」
早速ココアの効果が出たようだ。私たちは共通の友人の話をしながら、再び歩き出した。