176話 tea and candle

 ガラスのティーポットの中で紅茶が揺れる。キャラメル色の液体は、ポットの底の方でふつふつと泡を立てている。沸騰する直前の温度で温められているのだ。ポットと同じくガラスのポットウォーマーの下で、ティーライトキャンドルの炎が柔らかな光を発している。
 教会の仕事を終えて帰宅すると、室内はとても暗い。カーテンを閉めれば暗闇と言っても差し支えないほどだ。天使は食事をする必要はないが、私は紅茶が好きだ。帰宅してすぐ、こうして紅茶を淹れるのが習慣となっている。敢えて照明をつけず、ポットウォーマーの側面から漏れる仄かな光が部屋を彩るのを眺めるのは、忙しい日々におけるひとときの安らぎだ。
「よう、天使サマ。邪魔するぜ」
 声と共にリビングのドアを開いた男は「おいおい、暗いな」と指を鳴らした。途端に部屋の照明がつき、私は一瞬まばたきをする。
「ああ、すまん。そういうことか」
 男は私の前にある茶器を見て、再び指を鳴らし、照明を消した。
「わざわざありがとう、ラブ。別に照明をつけてくれたってよかったのに」
「いや、俺のほうこそ急にすまなかった。そろそろ帰った頃かと思って来たんだが……それはポットウォーマーか」
 私の悪魔は、テーブルを挟んで向かいの席に腰掛けた。整った顔に、光がゆらめく。
「うん。数十年前、当時交流のあったシスターからプレゼントされたものでね」
 天使も悪魔も、定期的に容姿や住まいを変え、配置換えを行なっている。私が当時いたのは修道院で、修道士として日々の勤めを行いながら、共に励む信仰者をそれとなく導く毎日を送っていた。
「このポットウォーマーを使っていると、その頃のことや、彼女のことを思い出すよ」
「シスター、ね……」
 悪魔の表情は冴えない。ひょっとしたら、シスターには何か嫌な思い出でもあるのかもしれない。しかし、教会公認の悪魔祓いである司祭さえものともしない彼に、思い出すのも嫌なほどのトラウマを植え付けられるシスターなんて……。
 などと思っていると、悪魔は私の視線に気がついたか、唇の端に笑みを浮かべた。
「ああ、すまない。別に、シスターがどうということはないんだ。我ながら嫉妬深くて嫌になるが……天使サマは、これまで関わった全ての人間との思い出を大切にしているだろう。あの寝室然り」
 言いながら、悪魔は寝室との仕切り戸に視線を向けた。あの向こうには、恥ずかしくて彼にすら一度しか見せていない、私の思い出の品々……これまで関わってきた人間たちがプレゼントしてくれた数多の品々……が、奇跡でどうにか圧縮して詰め込まれている。
「何かを見るたびに、天使サマはその時のことを思い出す。……俺がそこにいなかった頃のことを」
 男と出会ったのは、百年と少し前のことだ。それより前、私は彼のことを知らなかった。彼の方ではどうだったのか聞いたことがないから知らないが……どちらにせよ、私は彼よりも『年上』だ。彼がいなかった頃の方が、私の天使としての生の中では長い。
「そんな悲しい顔をしないでくれ、ラブ。私はお前との思い出の品も、とても大切にしているんだよ」
 彼がくれた初めてのメッセージカードも、揃いのイヤリングも。全て全て、大切に鍵のかかるボックスに仕舞ってある。
 男の表情は、少し和らいだ。
「ありがとう。それを聞いてホッとしたよ」
 本来なら特定の相手に愛情を向けることのない天使である私の愛を独占しているというのにいじらしい悪魔は、持ってきていた袋から何かを取り出した。
「実は、今日はもっと天使サマの中の俺の存在を大きくしたくて、プレゼントを持ってきたのさ」
「ワオ! 何かな!」
 ワクワクしながら、男が取り出した物を見つめる。黒地に雪の結晶がプリントされた華麗な包装紙は、それこそポットウォーマーくらいの大きさだ。男に促されて包装を開くと、中から出てきたのはガラスの……
「これは、アロマポッド?」
「いいや、まあ似たような物だが……茶香炉さ」
「茶香炉」
 あまり聞きなれない単語だが、言葉の響きからすると、茶葉を焚くのだろう。
「へえ……! 初めて見たよ。ここにキャンドルを入れて使うのかな?」
 ガラスの茶香炉はランタンのような形をしていて、丸くくり抜かれた胴体部分に取手がついた皿が置かれている。上部にはガラスの皿が置かれ、恐らくそこに茶葉をセットするのだろう。
「そうらしい。紅茶でも緑茶でも何でも焚けるそうだ」
「素敵なプレゼントをありがとう、ラブ!」
 早速、茶葉を上皿に置いて使ってみる。香ばしいような香りが漂い始め、私と悪魔は顔を見合わせて笑った。
 これからは、この茶香炉を使う時、この香りを感じるたびに、私はお前を思い出すだろう。
 だから愛する悪魔よ、安心して欲しい。
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