14話 Fly me to the moon.

 目が覚めたとき、視界にあったのは、あの夜に諦めた、天使の顔だった。何も変わっていない。長い睫毛も、それに縁どられた大きな青い瞳も、花弁のような唇も、輝くような金髪も。
「天使サマ……なんだ、俺は……死んだのか これは夢か……」
 悪魔が死ぬという話は聞いたことがないが、俺があのとき自分自身に掛けた封印が勝手に破れるとも思えなかった。訳が分からず、目の前の美しい顔に尋ねる。天使は泣きそうな顔になって、笑った。
「夢じゃない」
「……夢じゃ、ないのか……」
 身を起こそうとしたが、随分長いこと、封印状態にあったらしい。身体が言うことを聞かなかった。どうやら天使の膝の上に頭を載せられているらしく、柔らかくて心地が良かった。あの、果てない暗闇には、もう戻りたくない。
 しかし、俺の封印が解かれたということは。
「天使サマ、お前……」
「ああ、記憶は全て戻った。八十年もかかったけれどな。そして、それからまた二十年ほどかけて、ようやく、お前を見つけたんだ」
 蒼天の瞳が潤み、その中に映る俺も揺れる。
「まさか、こんな……月なんかにいるとはね」
「……月は、少しずつ地球から離れているからな。俺の身体が動かなくなっても、お前から離れることが出来るだろう」
 視界には映らないが、一世紀ほど経ったのなら、地球もほんの少しだけ、遠くなっていることだろう。俺の言葉に、天使は呆れたように目を細めた。
「……全て、私のためだったんだな」
 分かり切った質問に、俺は瞬きだけで答えた。実のところ、言葉を吐くだけでもかなりきつかった。天使は、俺の頭を抱えるように抱き寄せた。柔らかくて、花のような良い匂いがする。頬に、ぽたぽたと、暖かな雫が落ちてきたのを感じた。
「……天使サマ」
「お前を失って、分かったんだ……確信を持った。これが愛なんだ」
「…………」
 思考が停止した。あまりにも……その言葉は。
 天使は、抱き寄せた俺の額に口づけた。あまりの幸福に気を失いそうになるが、ここで気を失うと次はいつ目覚めることか分からないので、努力して意識を保つ。天使は、呆然とする俺に、にっこりと笑った。
「ありがとう。私は、お前を愛している。お前が教えてくれた感情だ。大切な……天使の愛でも、人間の愛でもない……私自身の愛だ」
「天使サマ……」
 時を止めるだけの力が、身体に残っていないのが残念でたまらない。愛しさがこみ上げてくるが、しかし、気になることがあった。さっき、天使は記憶を取り戻してから二十年も、俺を探していたと言った。
「天使サマ、それじゃあ、羽根は……」
 天使はそっと俺の頭を月面に置き、自らの羽根を広げて、見せてくれた。……信じられないことだが、そこには一片の曇りもなかった。スノーホワイト。封印が解けて二十年も経てば、俺と同じ漆黒に染まっていてもおかしくない。それなのに、インクの染みほどの汚れも、見当たらない。あのとき感じた邪悪の気配も、完全に消えている。
「そんな馬鹿な……」
「主のお恵みだろう」
 天使の可憐な声とは違う、別の男の声が答えた。天使が慌てて俺のもとへ駆け寄り、庇うように、再び頭を抱いてくれた。それで、突然現れた男の正体が知れた。大天使だ。俺のような悪魔でもその姿を知っている、神にとても近い存在。天使にしては珍しいダークブラウンの髪が、光源に乏しい月面ですら、神の威光を示して輝いている。その神聖さに、思わず顔をしかめてしまう。眩しい。
「まったく、突然、全ての仕事を投げ捨てて行方をくらますから、方々探したが……」
 大天使は、肩をすくめて俺と天使を見た。
「まあ、これで気も済んだだろう。さて、悪魔の彼が見分した通り、お前の羽根には全く問題がない。施されていた記憶の封印が解けたにも拘わらず」
「……貴方は、ご存じだったのですか」
 天使の言葉に、大天使は微笑んだ。
「地上で起きていることの大体は把握しているからね。それで、本題だ。その羽根は、一度は黒く染まりかけたものの、そこの彼によって……彼の愛によって封印された。そして、その封印を、お前はお前自身の愛によって解いた。それを、主は祝福されたのだ」
「主が……」
 天使自身も、自分の身に起こっていることの真実は分かっていなかったのだろう。大きな目を見開いて、呟いた。大天使はゆっくりと頷く。
「そうだ。何せお前は、長い天界の歴史の中でも初めての……自らの愛を、獲得したのだから」
「それでは……それでは、私は、堕天もせず、この男と……」
「ああ、一緒にいても大丈夫だろう。ただし、お前が天使であること自体は変わらないのだから、これからも善を成さなくてはならないがね」
 言いながら、大天使は近づいて来る。敵意がないのは明らかだが、個人的に契約を交わした訳でもない天使に近づかれるのは危険だ。
 俺の焦りに気が付き、天使は大天使の歩みを制した。
「ああ、そうか。力の大半を消耗しているようだから忘れかけていたが、彼は悪魔だったな。無神経で済まないね。ただ、お前たちを祝福してやりたかったのだ」
 悪魔である俺をも祝福したがるとは、天使の中にも結構変わり者はいるのだな、などと思っていると、天使が、俺を支えながら立ち上がった。細い腕のどこにそんな力があるのだろう、とぼんやり思うが、さっきから幸福が度を過ぎていて、まともに思考が出来ない。どうも、過ぎた幸せは、悪魔に麻薬のように作用するらしい。俺は天使の肩に凭れて、その決然とした横顔を眺めるばかりだ。
「私の個人的な愛情に、貴方の祝福は不要です。お気持ちだけ、いただいておきます」
 そう言い切って、天使は俺を軽く抱きかかえ、大天使に背を向けた。
「どこへ」
「お互いの愛を確かめられる、もっと静かな場所へ」
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