14話 Fly me to the moon.
それからは、また、天使としての変わりない日々が続いた。神学校図書館に勤める司書として生活する傍ら、敬虔な信者にさえ伸びる誘惑の魔手をいち早く察知し退ける、そういう日々だ。悪魔は、どこにでも巣食う。人間の心は簡単に安易な方、より衝動的な方へと流れがちだ。そうした心の動きを熟知している悪魔たちは、少しその流れを導いてやるだけで、その魂の欠片を自分たちのものにしてしまう。それに対し、私たち天使に出来ることは、その人間の道徳心に訴えかけ、主への信仰を喚起し、見守りながら導いてやることだけだ。彼らの魂の動きに、直接関与することは出来ない。悪は速く、善は遅々としている。昔から変わらない。
「ああ、君」
物音ひとつしない、飾り気のない神学校図書館で、私はひとりの学生を呼び止めた。十五、六歳の黒髪の少年は、素直にこちらを向く。まだあどけなさの残る可愛らしい大きな黒目が、私を見上げた。
「はい、何か」
「ここの案内を受けたことはあるかな。……実はこの図書館では、書籍を館外に持ち出すことは禁じられているんだ」
出口に向かっていた少年は、胸に抱いたままの本に目を落とした。みるみるうちに、その頬が朱に染まっていく。
「……ああ、すみません。案内を受けたことがなくて、……知りませんでした」
消え入りそうな声で謝罪する少年に、私は励ますように微笑んで見せる。
「知らなかったのだから、何も気にすることはないよ。それに、写しを取ることは認められているから、もし気に入った一節があるのなら、そこの机を使いなさい」
「はい……。ありがとうございます」
少年はほっとしたように、緊張していた顔に笑みを浮かべた。おとなしく机へ向かい、いそいそとノートとペンを取り出す様子を眺めていると、何か、心がざわつくのを感じた。少年自体に何かを感じるわけではない。彼はただの人間で、ざっと見た限り、これから悪に染まっていくような気配もない。それなら、何が……。
堕天の可能性がなくなったと告げられたあのときから、いや、その前夜に不可解な眠りから覚めたときから、耐えがたい喪失感が、胸の奥に根を張っている。私は何かを失ったのだ。何か、とても大切だったものを。けれど、それが何か分からない。遡って考えてみても、自分が何を失ったのだか、まったく思いだせない。ただ、あれから、見るもの、聞くもの、触れるもの、口にするもの、感じるもの、全てに、その何かが足りないと感じてしまう。決して埋まることのない空白が、二度と塞がることのない穴が、私を責め苛んでいる。
ぼうっと眺めていた少年の姿を、不意に天窓から差し込んだ陽光が照らす。天使の輪とも称される輝きが、少年の黒髪に浮かび上がる。真剣に文章を追う黒い瞳が、好奇心に彩られて瞬く。黒い髪に、黒い瞳。そうだ、私の心をざわつかせるのは、その組み合わせではないか。
はっとしたが、その天啓のような閃きは、それ以上の分析を私にもたらしてはくれなかった。差し込んだ光はまたすぐに消え、黒髪と黒い瞳の何が、私の心をここまで波立たせるのかは分からずじまいだ。細かく裁断された写真の一部をようやく手にしたは良いが、その全体像が分からない。そもそも、その写真が何を意味するのかも。ただ分かるのは、そこに写るものが、私が失った何かだということだ。
それからというもの私は、黒髪と黒い瞳を街で見かける度に、目を凝らすようになった。単なる気のせいで済ませるには、少年を眺めていたときに走った衝撃は大きすぎた。私が失ったのは、「誰か」だ。意思を持って生きる、黒髪と黒い瞳の持ち主だ。
しかし、神学校図書館で感じたようなインスピレーションは、それ以降、なかなか沸かなかった。職場と自宅の往復に加え、国内の巡視や報告業務に追われるうち、それどころではなくなっていったのも事実だ。もしかすると、この喪失感も、天使としての役割をまっとうしていく中で自然と解消されるのかもしれない、とも思ったし、それを期待する気持ちもあった。この感覚は、抱え続けていくには辛すぎる。身体が、そして何より魂が、何かを……「誰か」を、求め続けているのだ。
数十年がそのまま過ぎ、私は職を変えながら、天使としての業務を果たし続けた。姿形は変えていないが、住む地域は変えた。前に住んでいた家を引き払うとき、なぜだか感じたことのない寂しさが胸をよぎったのを覚えている。特にあの寝室を思い出すと、くすぐったいような、頭がぼうっとするような、妙な感覚がある。それはそのまま幸福と……天使としてはあり得ないものだが、人間の言う快感とに、結びついているような気がする。そしてそれらが、私の失った「誰か」によってもたらされたものだという、確信も。
人間社会はこれまで通り、大きな混乱と小さな平和とを交互に経験しながら進んでいる。科学技術の発展は産業革命時よりも微々たるもので、たいした飛躍を遂げてはいない。人間の感情や行動も、ほとんど昔から変わっていない。そして私の、彼らを理解したいという思いも変わらない。
人間を理解したいというこの気持ちを、大天使は評価してくれたが、彼自身が人間のことを理解している訳ではない。仲間たちはあまり人間それ自体に興味を持っていないが、それをどうこう言うこともない。だが、私は「誰か」に、人間の愛について教わったことを、ぼんやりと覚えている。それを思い出したのは、つい先日、以前住んでいた街にある百貨店のショーウィンドウを覗いていたときだ。たまたま聖バレンタインの祝日が近い時期だった。その百貨店で毎年のように陳列されるバレンタインカードを目にしたとき、私は、失った「誰か」と、ここで話をしたということを思いだしたのだ。思わず辺りを見回したが、記憶を刺激されて同時に連想した喫茶店は、影も形も見当たらなかった。それも仕方のない話だろう。何せ、私が「誰か」を失って、もう一世紀近く経つのだ。街並みは変わり続け、そこここに記されていた人々の記憶も更新されていく。それを止めるすべはない。
暗い冬が終わろうとしている。だんだん暖かくなってきた通りを歩いていると、コーヒーの良い香りが漂ってきた。私は苦い飲み物は得意ではないが、コーヒーの香りは好きだ。それと同時に、ふわりと、甘い香りがした。果物の香り、芳醇な……りんごの香りだ。
『天使サマ』
耳元で囁かれた声を、思いだした。肩に置かれた指の感覚を、頬を撫でた吐息を、冷たい身体を、燃えるような魂の炎を。
黒髪に黒い瞳の、悪魔。
身体の芯が、一気に熱を持ったような気がした。そうだ、私はあの男のことを忘れていたのだ。失ったのは、あの男の記憶だ。一度そう認識すると、とめどなく、あの男との記憶が溢れてきた。私の中の空白が、穴が、どんどんと満たされてゆく。
あの男が教えてくれた、人間の感覚、その刺激と陶酔、ありあまるほどの思慕、弾んだ会話、胸の高鳴り、切なさ、苦しさ、背徳感、もっと知りたい、もっと知って欲しいという欲望、永遠を願いたくなる刹那……そして。
会わなくてはいけない、いや、私は会いたい。あの男に。
この後もいつも通り天使としての業務が残っていることは分かっていたが、それどころではなかった。恐らく、あの悪魔はあの夜、私の記憶を封印したのだ。自分に関する全ての記憶を封印し、それによって私の堕天を防いだ。そして、その後……自らのことも、どこかに封印したのに違いない。
悪魔は、天使と同じく、死なない。そして、悪魔として働き続ける限り、私と遭遇する可能性はいつまでも残る。だから、不意の遭遇によって私の記憶の封印が解けないように、決して見つからないような場所に、隠れてしまったのに違いない。
私は、あの男を見つけなくてはならない。会いたいのだ、今すぐに。
いても立ってもいられず、私は躓きながら走り出した。
「ああ、君」
物音ひとつしない、飾り気のない神学校図書館で、私はひとりの学生を呼び止めた。十五、六歳の黒髪の少年は、素直にこちらを向く。まだあどけなさの残る可愛らしい大きな黒目が、私を見上げた。
「はい、何か」
「ここの案内を受けたことはあるかな。……実はこの図書館では、書籍を館外に持ち出すことは禁じられているんだ」
出口に向かっていた少年は、胸に抱いたままの本に目を落とした。みるみるうちに、その頬が朱に染まっていく。
「……ああ、すみません。案内を受けたことがなくて、……知りませんでした」
消え入りそうな声で謝罪する少年に、私は励ますように微笑んで見せる。
「知らなかったのだから、何も気にすることはないよ。それに、写しを取ることは認められているから、もし気に入った一節があるのなら、そこの机を使いなさい」
「はい……。ありがとうございます」
少年はほっとしたように、緊張していた顔に笑みを浮かべた。おとなしく机へ向かい、いそいそとノートとペンを取り出す様子を眺めていると、何か、心がざわつくのを感じた。少年自体に何かを感じるわけではない。彼はただの人間で、ざっと見た限り、これから悪に染まっていくような気配もない。それなら、何が……。
堕天の可能性がなくなったと告げられたあのときから、いや、その前夜に不可解な眠りから覚めたときから、耐えがたい喪失感が、胸の奥に根を張っている。私は何かを失ったのだ。何か、とても大切だったものを。けれど、それが何か分からない。遡って考えてみても、自分が何を失ったのだか、まったく思いだせない。ただ、あれから、見るもの、聞くもの、触れるもの、口にするもの、感じるもの、全てに、その何かが足りないと感じてしまう。決して埋まることのない空白が、二度と塞がることのない穴が、私を責め苛んでいる。
ぼうっと眺めていた少年の姿を、不意に天窓から差し込んだ陽光が照らす。天使の輪とも称される輝きが、少年の黒髪に浮かび上がる。真剣に文章を追う黒い瞳が、好奇心に彩られて瞬く。黒い髪に、黒い瞳。そうだ、私の心をざわつかせるのは、その組み合わせではないか。
はっとしたが、その天啓のような閃きは、それ以上の分析を私にもたらしてはくれなかった。差し込んだ光はまたすぐに消え、黒髪と黒い瞳の何が、私の心をここまで波立たせるのかは分からずじまいだ。細かく裁断された写真の一部をようやく手にしたは良いが、その全体像が分からない。そもそも、その写真が何を意味するのかも。ただ分かるのは、そこに写るものが、私が失った何かだということだ。
それからというもの私は、黒髪と黒い瞳を街で見かける度に、目を凝らすようになった。単なる気のせいで済ませるには、少年を眺めていたときに走った衝撃は大きすぎた。私が失ったのは、「誰か」だ。意思を持って生きる、黒髪と黒い瞳の持ち主だ。
しかし、神学校図書館で感じたようなインスピレーションは、それ以降、なかなか沸かなかった。職場と自宅の往復に加え、国内の巡視や報告業務に追われるうち、それどころではなくなっていったのも事実だ。もしかすると、この喪失感も、天使としての役割をまっとうしていく中で自然と解消されるのかもしれない、とも思ったし、それを期待する気持ちもあった。この感覚は、抱え続けていくには辛すぎる。身体が、そして何より魂が、何かを……「誰か」を、求め続けているのだ。
数十年がそのまま過ぎ、私は職を変えながら、天使としての業務を果たし続けた。姿形は変えていないが、住む地域は変えた。前に住んでいた家を引き払うとき、なぜだか感じたことのない寂しさが胸をよぎったのを覚えている。特にあの寝室を思い出すと、くすぐったいような、頭がぼうっとするような、妙な感覚がある。それはそのまま幸福と……天使としてはあり得ないものだが、人間の言う快感とに、結びついているような気がする。そしてそれらが、私の失った「誰か」によってもたらされたものだという、確信も。
人間社会はこれまで通り、大きな混乱と小さな平和とを交互に経験しながら進んでいる。科学技術の発展は産業革命時よりも微々たるもので、たいした飛躍を遂げてはいない。人間の感情や行動も、ほとんど昔から変わっていない。そして私の、彼らを理解したいという思いも変わらない。
人間を理解したいというこの気持ちを、大天使は評価してくれたが、彼自身が人間のことを理解している訳ではない。仲間たちはあまり人間それ自体に興味を持っていないが、それをどうこう言うこともない。だが、私は「誰か」に、人間の愛について教わったことを、ぼんやりと覚えている。それを思い出したのは、つい先日、以前住んでいた街にある百貨店のショーウィンドウを覗いていたときだ。たまたま聖バレンタインの祝日が近い時期だった。その百貨店で毎年のように陳列されるバレンタインカードを目にしたとき、私は、失った「誰か」と、ここで話をしたということを思いだしたのだ。思わず辺りを見回したが、記憶を刺激されて同時に連想した喫茶店は、影も形も見当たらなかった。それも仕方のない話だろう。何せ、私が「誰か」を失って、もう一世紀近く経つのだ。街並みは変わり続け、そこここに記されていた人々の記憶も更新されていく。それを止めるすべはない。
暗い冬が終わろうとしている。だんだん暖かくなってきた通りを歩いていると、コーヒーの良い香りが漂ってきた。私は苦い飲み物は得意ではないが、コーヒーの香りは好きだ。それと同時に、ふわりと、甘い香りがした。果物の香り、芳醇な……りんごの香りだ。
『天使サマ』
耳元で囁かれた声を、思いだした。肩に置かれた指の感覚を、頬を撫でた吐息を、冷たい身体を、燃えるような魂の炎を。
黒髪に黒い瞳の、悪魔。
身体の芯が、一気に熱を持ったような気がした。そうだ、私はあの男のことを忘れていたのだ。失ったのは、あの男の記憶だ。一度そう認識すると、とめどなく、あの男との記憶が溢れてきた。私の中の空白が、穴が、どんどんと満たされてゆく。
あの男が教えてくれた、人間の感覚、その刺激と陶酔、ありあまるほどの思慕、弾んだ会話、胸の高鳴り、切なさ、苦しさ、背徳感、もっと知りたい、もっと知って欲しいという欲望、永遠を願いたくなる刹那……そして。
会わなくてはいけない、いや、私は会いたい。あの男に。
この後もいつも通り天使としての業務が残っていることは分かっていたが、それどころではなかった。恐らく、あの悪魔はあの夜、私の記憶を封印したのだ。自分に関する全ての記憶を封印し、それによって私の堕天を防いだ。そして、その後……自らのことも、どこかに封印したのに違いない。
悪魔は、天使と同じく、死なない。そして、悪魔として働き続ける限り、私と遭遇する可能性はいつまでも残る。だから、不意の遭遇によって私の記憶の封印が解けないように、決して見つからないような場所に、隠れてしまったのに違いない。
私は、あの男を見つけなくてはならない。会いたいのだ、今すぐに。
いても立ってもいられず、私は躓きながら走り出した。